13.番城時代・阿部正次入封

第1次番城時代

 小田原城は慶長19年2月頃より幕府直轄の番城となった。これは小田原城主をすぐに決定するよりも、当時優先すべき重要な政治課題が多くあったためと思われる。
 当初の城番の中には短期間の在任もあった。また、時には正副2人が在城していたようだ。

 大阪冬の陣の際には、松平成重、戸沢政盛、松平定綱、西郷正員の4人が箱根山と小田原の合戦に備えて在城した。
 大阪の陣後、元和元年(1615)から、小田原城代近藤秀用(ヒデモチ)が城番となる。小田原周辺の幕領の民政は代官中川勘助が担当した。中川代官の在任中、元和3年新屋村が開村した。翌4年箱根宿が成立している。箱根宿は小田原町と三島町の住民の移住によって成立した(神奈川県史・通史編2)。

 なお、第1次番城時代、将軍秀忠は小田原城に3度にわたって着陣、止宿している。慶長19年10月大阪冬の陣出陣のため、元和元年2月帰府のため、同年4月大阪夏の陣出陣のため。家康も同年放鷹のため10月、帰途12月宿泊した。家康は翌2年4月駿府にて死去、「東照大権現」の神号を朝廷から授けられ、今井村小田原合戦御陣場跡に東照宮が造営されている(新編相模)。また翌3年3月日光改葬のため小田原に霊柩が2泊している。

阿部正次の入封

 秀忠政権の幕府政治は幕閣譜代大名の合議政治が行われた。金地院崇伝「異国日記」元和3年8月条には、「日本の執政5人となり、本多上野殿(正純)、酒井雅楽殿(忠世)、土井大炊殿(利勝)、安藤対馬殿(重信)、板倉伊賀殿(勝重)」とあり、この5人の重臣に幕政が委ねられた。しかし、本多正純はすでに昔日の威勢はなく、酒井忠世が幕閣の中心となり、やがて土井利勝が台頭し、この二人の老職を中心に寛永政治が展開する。

 元和5年10月細川忠興の書状に、「小田原大炊殿に遣わさるるの由、前かどより其沙汰に候つる、左様にも之あるべきかと存候事」(細川家史料)とあり、土井利勝の居城を下総佐倉より小田原へ移す風聞があったことを伝えており、改めて小田原の重要性を示唆しているとみることができる。土井利勝の素性には疑問があり、家康の落胤とも、家康の母方の伯父水野信元の子ともいわれている。幼少より秀忠に仕え、慶長7年下総にて1万石、同15年年寄衆・下総佐倉3万2千石を拝領、佐倉城を築いた。家康から寵愛を受け、秀忠・家光三代にわたり絶対の信任を得ている。利勝の小田原入封の風聞は結局実現せず、阿部正次が入封するが、利勝は寛永10年下総古河16万石へ転封、破格の待遇を与えられている。

 元和5年閏12月阿部備中守正次が、上総国大多喜3万石から小田原5万石に転封となった。阿部氏は三河譜代の系譜を引き、正次は正勝の嫡男として、幼年より家康に仕えた。父と共に各地の戦場に出陣した。家康の関東移封の際には近侍の列にあった。慶長5年(1600)武蔵国鳩ヶ谷領5千石の遺領を継ぎ、同年相模国高座郡に5千石を加増大名となる。同15年下野国都賀郡鹿沼領5千石を加増、大番頭、伏見城番をつとめた。大阪の役後戦功により都賀郡でさらに7千石加増、奏者番に進み、元和3年さらに8千石を加増されて、上総国夷隅郡大多喜城(千葉県大多喜町)3万石の城主となっていた。

 秀忠が将軍になると、家康時代の大名配置とはまったく一変し、全国的な配置換えが行われた。阿部正次の小田原転封もその一環として行われた。5万石の内訳は3万石が城付、2万石は大多喜とある(万年記)。藩主としての期間はわずか足掛け5年だったが、領内において、寺院の建立や再興が数多く行われた。岩村(真鶴町)の如来寺・実相院、箱根宿の本環寺・念称寺・万福寺・本迹寺・興禅院など。また、水害のため千津島村から怒田村に移った大円寺の諸役を免除し、酒匂村の本典寺に寺領を寄付している。

 元和6年酒匂川の川越し役について諸役免除が行われた。元和8年の江戸城普請にあたり、最乗寺の松木の提出、小田原石切の動員を行った。千石原番所が設置されたのも正次の時代だった。元和9年には将軍家光上洛の折、小田原城に宿泊している。

 元和9年正次は小田原5万石から武蔵国岩槻藩5万5千石に転封となり、後大阪城代となった。正次転封の後小田原城は再び番城となる。

 元和7年小田原町奉行兼代官に揖斐(イビ)政景が任ぜられた。政景の父は元織田信雄の家臣で、その縁で政景は家康に臣従することになった。「箱根宿古記録」には、箱根宿が元和7年から寛永2年(1625)まで揖斐政景代官(三島代官)所の管轄下にあったとあり、のち小田原が再度番城となる同9年小田原町奉行を兼務し、小田原に移り住んだという。

第2次番城時代

 元和9年(1623)から寛永9年(1632)は第2次番城時代となる。この時期は3代将軍家光政治の初期にあたり、大御所秀忠との二元政治の時代でもあった。将軍の上洛を4度にわたって行い、箱根関所の警備の強化され、仙石原関所が設置された。当初近藤秀用が再び城番となり、寛永8年城中で没した。その後高木正成が一時期城番となった。この間、阿部正之が大御所秀忠の隠居所を小田原城に築くため、寛永2・3年と2度にわたり小田原に赴いているが、この計画は結局中止となった。

 この番城時代には、江戸城修築に必要な石材が根府川・真鶴から搬出されている。また、寛永年間鴨宮村に西光寺・東照寺、宮台村に本光寺、矢倉沢村に宝珠院、内山村に高蔵院が建立され、吉田島村に大長寺が再興されている。

 元和から寛永初年の徴祖法は厘取り法が採用されていたとみられる(第1次番城時代から)。厘取り法は、田・畑別の石高に依拠し、それぞれに年貢率(厘取り)を剰じて年貢高が算定され、各村に割付けられる。厘取りは年毎に異なり、事前に内検見を実施して算定されたものと考えられる。寛永4年(1627)金井島村の「毎年新田書上」には、新開地分につき田畑を上・中・下三等級に分け、反別(面積)・反取りなどが細かく書き上げられている。すなわち、村側には内検見帳を提出する義務があり、領主側は代官・手代を廻村して視察した上で、厘取り形式の割付け状を発給していたとみられる。