17.海防と小田原藩の対応

 18c末頃からはエカテリーナ2世ロシアの南下政策により通商要求が始まっていたが、19cに入ると日本近海が「ジャパン・グランド」と呼ばれる鯨の漁場となって、英・米をはじめとする世界中の捕鯨船が集まるようになっていた。「白鯨」の舞台も日本近海だという。捕鯨船は長い海上生活にのため、物資の欠乏や壊血病のため上陸する必要があった。そのため、日本に物資補給の寄港要求が生じることになった。

ロシアの南下

 幕府はロシアの通商要求以来、対外関係の情報を独占する一方、海防も幕府への軍役として諸大名に命じた。寛政4年(1792)ラクスマンが蝦夷地(根室)へ来航し通商要求した。幕府はラクスマンに長崎回航を命じ、長崎入港許可証を与えたが、そのままロシアに帰国した。翌年、勘定奉行久世広民以下が海防のため江戸近海を巡検し、次いで老中松平定信みずからが巡検した。定信が巡検したのは相模と伊豆であったが、山が多い伊豆では歩行(かち)が多かった。この折の話として、定信一行が根府川関所を駕籠を用いず歩行で通行した際、関所番士の小田原藩士が見とがめて、関所であるから笠を取るように定信の近習に伝えると、定信は自分の心得違いであったと笠を取って通行し、その日のうちに大久保加賀守忠顕(タダアキ)へ、「この藩士は若年であるが、厳重精勤の段は加賀守の申しつけがよいためであろう。御褒めおいてしかるべし」と書付を送ったという。

 定信は海防掛となって、諸藩に海防手当の報告を命じ、この案件を専管した。小田原藩の海防届書がいつ提出されたのか確定できないが、「士分68名、船29艘」と届けている。その後の海防手当から考えて、士分の中には足軽は含まれておらず、全体の人数はこの数倍と見られる。

 その後も英の通商要求などがあったが、文化元年(1804)ロシアのレザノフが、先にラクスマンに与えた長崎入港許可証を携えて長崎へ来航した。幕府は彼の船を6か月以上抑留した上、国書の受理と通商要求を拒否した。一方で幕府は文化3年初の「薪水給与令」を出し、外国船に対して飲料水・燃料の給与を認めた。しかし、翌年ロシアのレザノフは先の非礼に憤慨し、カラフト・エトロフ他の日本人入植地と船を攻撃した。文化露寇事件とも呼ばれるこの事件は幕府首脳に非常な脅威を与え、幕府は薪水給与令を撤回した。

 文化5年、ナポレオン戦争の余波で、長崎にイギリス軍艦フェートン号が侵入し、オランダ船への攻撃を行った。長崎奉行以下なすところなく、フェートン号は長崎から離脱した。この事件では、長崎奉行松平康英、湾警固の鍋島藩家老以下数人が切腹した。

 文化7年、会津・白河両藩に江戸湾警備が命じられた。はじめて具体的な戦力が江戸湾に配備されることになった。これに伴い、相模に会津藩、房総に白河藩が藩領の一部を所領転換された。大久保忠真はこのとき寺社奉行として幕閣に連なっており、小田原藩はまだ江戸湾海防に組み込まれていなかったものの、率先して非常時における警備人数を定めている。

 土肥筋(一番手・二番手)、小田原浦急手、根府川関所急手、門川村詰急手、羽根尾村詰急手の六備えが定められた。このうち、もっとも重視されていたのは、真鶴岬を含む土肥筋で、兵力の47%を振り向けていた。ただし、このときの動員規定は、明確に海防に限定せず、内憂外患両方への動員の可能性をもっていた。それは、当時の領主の対応意識が、異国船渡来時には国内騒擾を危惧したからだ。

 文化8年、松前藩は測量のため千島列島へ訪れていたディアナ号を国後島で拿捕し、艦長ゴローニン海軍中佐ら8名を捕らえ抑留した。先のレザノフの文化露寇事件に対する日本側の報復だ。副艦長のリコルドはロシアへ帰還し、日本人漂流民を使者、交換材料として連れて翌年再び来日、ゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、日本側はゴローニンらを処刑したと偽り拒絶する。リコルドは報復措置として国後島沖で日本船の観世丸を拿捕、乗り合わせていた廻船商人の高田屋嘉兵衛らを抑留した。文化10年ゴローニンは高田屋嘉兵衛と捕虜交換により解放され、ロシアへ帰国した。これにより、ようやく対ロシア関係が回復した。帰国したゴローニンは「日本幽囚記」を執筆し、各国語に翻訳される。

ロシアとの緊張緩和後

 小田原藩の実際の海防動員は、文化14年(1817)が初見となる。9月英船(どういう船かは不明)が安房国沖合いに発見され、10月伊豆大島沖に差し掛かった。浦賀奉行所は御送船で役人を派遣したが、英船は退去した。この時、会津・白河両藩は警備を出さなかったが、小田原藩は10月、土肥筋に人数を派遣し、真鶴岬付近を固めた。英船は本土に近寄らず退去したため、警備兵力は10日ほどで撤収した。なおこのとき、韮山代官の江川英毅が活発に反応し、伊豆の各浦に異国船を発見次第注進を命じ、勘定所に会津・白河藩兵を下田に派遣するよう要請している(却下されている)。

 文政元年(1818)5月14日、英船ブラザーズ号が、交易を希望し浦賀に渡来した。これが江戸湾に渡来した最初の外国船とされる。浦賀奉行所ではブラザーズ号を応接、交易を拒否したため、ブラザーズ号は21日退去した。この間、会津・白河両藩は持ち場の台場を固めた。一方渡来の前日13日、大島沖で発見されたブラザーズ号に対して、韮山代官江川英毅は、15日下田へ足軽を派遣、勘定所に通報するとともに、小田原・沼津・掛川藩に通報した。このときは、小田原藩には目立った動きは見られない。異国船の所在がはっきりしていたためかと思われる。

 文政3年江戸湾警備が改変される。会津藩は任務を解かれ(白河藩は据置)、警備は浦賀奉行一身の責任となり、浦賀奉行の判断で川越・小田原藩が援兵を派遣する体制となった。これに伴い、川越・小田原藩の領地の一部は三浦郡などに移された。

 小田原藩では翌文政4年、浦賀援兵の陣立てを確定した。一番手・二番手編成で、一番手が要請あり次第緊急出動、二番手は控えとする。それぞれ指揮は番頭。一番手は知らせ太鼓により、小田原城三の丸御用所に集合、総人数が揃うまで「揃之太鼓」を打ち続ける。人数が揃ったら法螺貝の三声で騎馬は馬上となり、「押太鼓」で総勢出陣し、出陣し終えるまで押太鼓が鳴らされ続ける、ことになっていた。

 文政5年4月29日英捕鯨船サラセン号が、物資欠乏のため薪水給与を望んで、浦賀に渡来した。白河藩は即座に浦賀に援兵を派遣、川越・小田原藩部隊は、浦賀奉行の要請を受け5月3日浦賀に到着した。幕府の許可を受け、サラセン号は薪水を補給して5月8日退去した。

 文政7年常陸国大津浜、薩摩国宝島への英船上陸事件により、幕府は翌年2月異国船打ち払い令(無二念打ち払い令)を発令した。当時、日本近海に現れるのは桁違いに増加した捕鯨船で、それらに対する威嚇として出された。法令の隠れた目的として、海防動員による諸藩の疲弊を軽減することがあった。民間捕鯨船であるため、戦争への危機感はかえって後退していたわけだ。会沢正志斎「新論」は、この点を批判して水戸藩主に上程されたが、幕政批判にあたるとしてしばらく秘密にされた。

 文政9年3月、伊豆国内浦(沼津市)沖合いに異国船が発見されたため、小田原藩は三度目となる海防動員がおこなわれた。内浦への派遣は足軽部隊だけの軽微な派遣で、無二念打ち払い令の目的が反映されている。忠真が老中であればこそ、軽微な派遣で構わないという判断があったとみられる。派遣部隊は箱根関所を越えたが、異国船退去のため3日後には撤収した。

 天保8年(1837)6月28日、アメリカ商船モリソン号が、日本人漂流民送還を名目に、通商交渉のため浦賀に来航した。浦賀奉行は無二念打ち払い令にしたがってこれを砲撃、翌日モリソン号は江戸湾を退去した。川越藩兵は29日浦賀に到着、攻撃準備をしている内にモリソン号は退去している。小田原藩兵は馬入川で足止めされ、漁船11艘で7月1日に浦賀に着いたが、すでにモリソン号退去後だったため、すぐに引き上げた。

 モリソン号来航意図は、翌9年6月に着任したオランダ商館長グランドソンによって、幕府の知るところとなった。老中水野忠邦は幕閣や評定所に対策を諮問したが、評定所一座は漂流民を考慮せず打ち払い令の実行を答申、林大学頭述斎のみ憐愍の立場からこれに反対した。結局、無二念打ち払い令は有効のまま、オランダ経由で漂流民送還をオランダから通告することのみが採用された。一方、江戸湾警備の見直しのため、目付鳥居耀蔵・韮山代官江川英竜に江戸湾の御備え場見分が命じられた。江川が加えられたのは川路聖諦の推挙による。しかし、鳥居と江川は当初から潜在的に対立していた。鳥居は国学の番人をもって任ずる林家出身で、江川が蘭学のリーダー格渡辺崋山と親しく、測量技術者を崋山に依頼したためだ。鳥居の暗躍により、この対立は直後に蛮社の獄に発展する。

アヘン戦争後

 折から隣国清でアヘン戦争(1840-42)が始まる。情報が中国・オランダから伝わると、民間船を追い払うための無二念打ち払い令は、英政府の対日戦争開始の口実になることが懸念された。そこで、天保13年(1842)7月、老中土井利位(トシツラ)・真田幸貫(ユキツラ)が海防掛に就き、打ち払い令を撤回し穏便な薪水給与令に改められた。この天保薪水給与令は、必ずしも幕府内で意思統一がなされていたわけではなく、幕閣はこの後も打ち払い令復活審議を繰り返している。一方、同年8月江戸湾警備体制はふたたび強化された。川越藩と忍藩の駐屯防備が命じられ、さらに浦賀で異国船を阻止することに不安があったため、同12月羽田奉行を新設して台場を構築した。さらに、享保5年(1720)に廃止されていた下田奉行を再設置し、黒潮に乗って江戸方面へ接近する異国船を早期に発見・処理する拠点とした。

 一方全国の大名に対しては海防届書の提出を命じ、はじめて江戸表の諸藩軍備の調査を行い、大砲等を用意するように命じた。また、沿岸諸藩に海岸水深の調査を命じている。これは、外国船は未知の海岸には近づかず、小型舟艇を出して水深調査をおこなった上で、本船が移動するのが常だったことに幕府が反応したことによる。

 さて、小田原藩の浦賀援兵待機は文政3年12月より天保13年8月までだが、実際には三浦郡の領地が大住・淘綾(ユルキ)・愛甲・津久井などに配置転換されたのが翌6月であったため、そこの時点まで浦賀援兵は継続していた。また天保10年2月段階で幕府に提出された小田原藩の海防手当報告書によれば、浦賀派遣部隊は東浦賀の法憧寺にあらかじめ屯所が決められており、士分のほか足軽・中間・水主(カコ、固め船の漕ぎ手)・武器員数・大筒玉目まで記載されている。一方、この報告書で関所警備についても書き上げられており、対外危機と国内騒擾がセットになっていることが確認できる。

 天保14年に開始された手賀沼・印旛沼開削工事は、異国船が江戸湾に渡来した場合、食料をはじめとする物資を海上輸送に頼っている江戸が経済封鎖状態に陥るのを防ぐべく、江戸への補給路確保のために行われた。

 しかし、天保14年閏9月水野忠邦が失脚し、天保改革は頓挫した。追い打ちをかけるように翌弘化元年5月江戸城本丸の火災がおこり、その過程で土井利位も退陣、阿部正弘を首班とする政権は、天保改革失敗後の諸大名に対する融和政策を採用した。江戸城本丸再建を優先する中、印旛沼開削工事は中止され、建設途中の下田奉行所・羽田奉行所も廃止されてしまった。下田は伊豆韮山代官所の管理下に移し、非常時には小田原藩が援兵する態勢とした。

 小田原藩では伊豆援兵態勢に組み込まれたことにより、弘化2年5月網一色村海岸で藩兵の諸組練兵がおこなわれ、藩主忠愨(タダナオ)が閲兵している。弘化3年閏5月アメリカ東インド艦隊司令官ビッドル提督が開国交渉のため二隻を率いて浦賀に渡来した。江戸湾警備担当の川越・忍両藩は、藩主自ら前線に出て指揮するよう幕府から命令された。江戸周辺諸藩も幕命と浦賀奉行からの要請により兵を海岸に出した。小田原藩では沼津藩・伊豆韮山代官から閏5月27日に通報を受け、夜を徹した評議が行われ、翌28日真鶴岬固めの出動を命じた。6月1日浦賀の異国船2隻が軍船であるとの情報を受け、東浦筋(大磯)固めに出動した。兵はその夜大磯に到着、翌早朝から照ガ崎に本陣を構築した。一方、4日には片浦・土肥筋にも兵を出している。7日浦賀奉行所からの援兵要請があり、大磯部隊は船24艘で浦賀へ向かった。結局小田原藩が浦賀に到着した時点で、ピッドル艦隊は沖合いに引き上げつつあった。8日暮には浦賀奉行は各藩兵に帰藩命令を出し、小田原藩兵は9日に引き上げた。

 同じ年の6月29日にも再び異国船が現れ、海防動員が行われた。こんどは沼津藩や韮山代官からの通報がなく、突然大磯沖合いに異国船が発見された。この船はデンマーク軍艦ガラテア号だった。このときは兵を揃える余裕がなく、ばらばらに槍を持って、行列も組まずに大磯に向かい現地で集合、前回同様照ガ崎に陣地を構築した。真鶴方面にも藩は兵を出している。ガラテア号は29日鎌倉沖で、川越藩・浦賀奉行と接触し、その日の内に退去した。その後も小田原藩兵は大磯に駐屯し続け、浦賀奉行に固め人数を出した旨を届け、7月3日にようやく家老から帰藩命令が出たが、豪雨のため酒匂川が渡河できずに大磯に駐屯し続け、小田原に戻ったのは12日だった。二度の海防動員のため、大磯宿は疲弊が激しかったという。この後幕府は弘化4年2月、安房に忍藩、上総に会津藩、相模・三浦半島西に彦根藩、同三浦半島東及び武蔵に川越藩に増強して防衛させた。

 小田原藩でも嘉永元年(1848)春に帰国した藩主大久保忠愨は、いっそうの海防強化を図り、5月に小田原海岸で韮山代官家来による小銃仕組み打ち調練を上覧し、7月直書を藩内に触れ軍制の強化を図った。直書は「当所は陸地御要害(箱根関所等)は申すに及ばず、浦賀最寄りの事にもこれあり、防御の設け、諸家並よりは一際手厚くこれなくては相済まざる儀」と述べている。この直書を受けて、家老らが示した軍制強化策は、高島流(西洋流)砲術を組み込んだ台場の設置、武器弾薬の備蓄・新造、砲術稽古の奨励などだった。

 折から嘉永2年閏4月8日、浦賀に英軍艦マリナー号が渡来した。目的は水深調査と浦賀奉行との会談だったが、奉行は面会を拒否し退去を迫った。防備担当の彦根・川越・会津・忍の各藩が番船400艘余りでマリナー号をとりまいたため、10日浦賀を離れたが、今度は2日後の12日に下田に入港した。浦賀奉行所はこの報に接すると、役人を同地に派遣するとともに、韮山代官・小田原藩・沼津藩・掛川藩に下田出兵を下命、代官所・各藩が手勢・藩兵を出張させるとともに、特命を受けた江川英竜が交渉にあたり、17日マリナー号は退去した。警備各藩も同日兵を解いた。伊豆援兵で小田原藩以外が登場するのは、この事件が初見となる。この臨時の処置の後、伊豆援兵の三藩が確定していった。

 マリナー号渡来ののち、小田原藩は先に軍制強化策で予定していた小田原海岸に三基の台場築造・配備する備砲の鋳造を開始した。嘉永5年秋には完成したとみられる。築造には江川英竜の韮山塾で高島流を伝授された藩士別府信次郎らがあたり、江川の指導もあったものと思われる。備砲も韮山で鋳造した各種4門が配備された。小田原海岸のほか、大磯照ガ崎・真鶴岬にも台場が築造されたが、これら小田原藩五台場のうち、もっとも早く築かれたのは真鶴岬で、弘化3年中には築かれたと見られている。また、小田原海岸の三台場は「荒久御台場(西台場)」「代官町御台場(中台場)」「万町御台場(東台場)」といい、規模は縦40間・横60間、高さは海面より6間余りとある。それぞれ砂浜の海岸線上に半円部の土塁を築き、側面を石垣で補強、25の三角形の突出部を持つ洋式砲台だった。こののち品川の台場築造に江川が採用されたのも、小田原台場の技量の高さが評価されたものとみられる。

ペリー来航

 嘉永6年(1853)6月3日アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが4隻艦隊で来航した。日本史ではペリー提督と称されるが、実際にはコモドーレ(戦隊司令官と訳されるべき)で、アドミラル(将軍)ではない。しかし、ペリーの卓越した手腕と砲艦外交によって幕府を震撼させ、日本は開国への道程を歩まざるをえなくなった。浦賀沖にペリー艦隊が現れると、彦根・川越・会津・忍の防備担当藩の他、江戸周辺に海岸領分を持つ房総諸藩も広範に海防出動した。ペリー艦隊はこれまでにない蒸気船を含み、かつ6日に艦隊の一隻が江戸内海に深く侵入したことで、幕府に驚愕を与えた。その日の夜総登城した老中・若年寄らは評議、翌日江戸府内諸藩に動員令が出された。9日久里浜に上陸したペリー一行は浦賀奉行に大統領親書を手渡し、来春国書の回答を得るため再渡来することを告げた。その後艦隊に戻るや、全艦を江戸内海に侵入させた。このため10日江戸城総登城となり、緊張は最高度に達した。その後12日ペリー艦隊は退去していった。

 この間小田原藩では、4日大磯・真鶴・小田原中台場に人数を詰め、下田には援兵を派遣、海路組は5日に到着、陸路組も7日に到着した。下田にはすでに江川英竜が本陣にいて、3日夜には韮山を出たという。沼津藩も詰めているが、掛川藩については人数不明。18日まで下田に詰め、江川の下知で兵を解いている。一方、江戸表へは幕命に応じ、急きょ小田原から援兵を派遣、藩士関重麿が高島流砲術方として出張した(重麿「六十の夢路」に詳しい)。このときの江戸市中の混乱ぶりは、大風の近火を見るがごとくであったという。小田原藩上屋敷でも奥方・女中らは青山・教学院(大久保家菩提寺)への避難を準備していた。

 ペリー退去後幕府は善後策を練り、7月1日には諸大名にまで広く意見を求めた。7月江川英竜の建議により品川沖に海中台場の戦列を6基構築することとなり、第一〜第三台場は同年8月着工、翌安政元年5月に竣工した(ペリー再来には間に合わなかった)。残りは中途で建設中止となった。台場石材は真鶴方面からも切り出され、青木善左衛門(市内板橋)が調達を担当している。また、真鶴町にある「品川台場礎石の碑」は、実際に第二台場に使われていたもので、昭和40年解体移送された。

 安政元年(*)(1854)正月14-16日ペリーは予定を繰り上げて7隻艦隊で再来日した。幕府は浦賀での応接を説得しようとしたが、ペリーは聞き容れず28日には羽田沖まで北上した。このため、桑名・姫路・金沢・津山・福井・松山・徳島・明石の8藩が深川から生麦までの海岸線を警備し、旗本までが動員待機を命じられている。ペリーは交渉に臨み、アメリカは戦争も辞さず、その場合は近海及びカリフォルニアに待機している軍艦計100艘がさらに侵攻するだろうと威嚇した(実際にはアメリカが派遣しうる艦船をかき集めて来航していた)。この間2月6日一隻、さらに同21日また一隻ペリー艦隊に増援が来着(計9隻艦隊となる)し、幕府にペリーの威嚇を信じさせることになった。3月3日ついに日米和親条約が調印された。和親条約で、長崎・下田・箱館(のちの函館)を開港し、アメリカ船は必要物資を補給することができるようになった。和親条約調印ののち3月23日ペリー艦隊9隻は下田に移動、開港地の見分と追加条項についての交渉を行った。

*実は嘉永6年、安政への改元は11/27。

 小田原藩では正月11日下田に援兵を派遣、13-4日にかけて真鶴・小田原表・大磯台場に兵を出した。ペリー艦隊が下田に移動後も、小田原・沼津・掛川藩が下田に出兵して警備している。6月2日米艦隊は下田を出航、16日藩兵の警備も解除された(「六十の夢路」)。

 ロシアはアメリカの対日開国交渉の情報を得ると、プチャーチン提督(海軍中将)を通商条約交渉にあてることにした。嘉永5年10月バルト海クロンシュタットを出航、アフリカ南端を回航、途中カムチャッカ艦隊他と合流、ペリーの第1回来航に遅れること1ヵ月後の嘉永6年7月18日4隻艦隊で長崎に入港した。その後12月に入り、江戸から派遣された海防掛の筒井政憲・川路聖諦と交渉した。幕府はロシアの要求を拒絶したが、開港の場合のロシアの優遇を幕府が約束したことに満足して、翌年正月8日退去した。

   その後ロシアと英仏がクリミア戦争勃発で戦闘状態に入ったため、プチャーチンは英仏艦隊を避けながらいったんカムチャッカに退却した。しかしアメリカが予定を繰り上げ再来日したため体勢を立て直し、安政元年8月函館に入港して物資を補給したのち、大坂での交渉を通告して大阪湾に向かった。日本の主であるミカドに対する脅迫になることを意識した上での行動だった(ゴンチャロフ「日本渡航記」)。 同9月17日大坂天保山沖に現れたプチャーチンのディアナ号は、予測通り朝廷に大きなショックを与えた。江戸湾同様諸藩兵が警備につき、大坂城代土屋寅直らが交渉、あっさり10月3日交渉場所として指定された伊豆下田へ向かった。英仏艦隊の動向を気にするプチャーチンに余裕がなかったためと推測される。下田で筒井・川路らとロシアの交渉が再開され、12月21日日露和親条約が締結された。この間の11月4日、折から安政東海地震(*)が発生、下田に大津波が押し寄せ(伊豆一帯に大津波)、ディアナ号は大破のち沈没してしまう。プチャーチンは日本側が戸田で新造して提供した船に乗り、安政2年3月に退去した。

*これも実際には嘉永6年中の出来事。また、翌日11月5日には安政南海地震も発生し(共にM8.4と推定)アベック地震だった。

 この間、下田警備の任にある小田原・掛川・沼津藩は警備任務にあたっている。さらにプチャーチン退去後も、小田原藩は継続的に警備人数を下田表へ駐屯させ、おりおり藩士を交代させている。さて、米・露・蘭・英との和親条約が安政元〜2年に結ばれたが、安政5年の通商条約とは異なり、最小限の薪水・食料・欠乏品を下田・函館・長崎において日本が給付するというのが骨子だった。下田は安政5年通商条約で開港地からはずれるが、それまでは下田は常に外国船が入港する可能性のある場所となり、常時駐屯警備の必要があった。そのため先の三藩が常時警備し、外国船が入港した場合には、さらに警備増員が派遣されている。

 また、安政3年7月米国総領事ハリスが下田に渡来し、通商条約の交渉に入った。幕府ははじめこれに抗議した。というのも、漢文・和文の和親条約では、領事は条約締結後18カ月たってから日米両政府の合意のもとに置くことができるとなっていたからだ。しかし英文・蘭文では、日米どちらか一方の必要で置けるとなっており、蘭文と漢文の照合を怠った幕府側のミスだった。安政5年4月井伊直弼が大老となる。井伊は対外交渉について老中堀田正睦と海防掛に当たらせた。しかし、ハリスとの交渉に当たった井上清直・岩瀬忠震(タダナリ)ら海防掛は、ハリスの説得、アロー戦争で英仏勝利という情勢下英仏が日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないとの主張に、やむをえないという判断で、日米修好通商条約を安政5年6月調印した。その後7〜9月の間に蘭・露・英・仏とも同様の条約が結ばれる(安政5カ国条約)。これにより、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫・函館の5港が開港地となった。下田は神奈川開港後6カ月で閉鎖されることとなった。この間、堀田正睦みずから朝廷の勅許を得ようとするが、不成功に終わり堀田は辞職に追い込まれる。しかし、折からの将軍継嗣問題、この条約締結問題の反対意見を抑える為、大老井伊は安政の大獄を惹き起こした。また、当の条約には相手国に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことなどから、一般に不平等条約といわれ、のち明治政府が不平等条約解消に成功するのは日清戦争後のこととなる。

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