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4.中世、石橋山の戦いと曽我兄弟のあだ討ち

 石橋山の戦いは、平安時代末期の治承4年(1180)、以仁王の令旨を奉じて挙兵した源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いだ。頼朝は大敗を喫し、山中に逃げ込み、船で安房国に落ち延びて、その地で再挙することになる。原典は主として「吾妻鏡」による(それ以外の出典は特記)。

挙兵まで

 頼朝の父義朝は平治の乱で平家に敗れて殺され、三男頼朝は助命され伊豆国蛭ヶ小島(現伊豆の国市)に流罪となった。頼朝は流人の身でこの地で20年以上を過ごし、伊豆国の豪族北条時政の娘政子を妻とした。北条時政は以後頼朝の庇護者となった。

 平清盛は治承3年(1179)11月、後白河法皇の院政をとどめて鳥羽殿に幽閉し、近臣の官職を解き、又は配流に処した。このような平家の専横に対し、後白河法皇の子以仁王は源頼政(摂津源氏、源三位と呼ばれた)と平家打倒の計画をめぐらし、平氏追討の令旨を発した。以仁王らの企ては発覚し、平家の追討を受けて以仁王・頼政とも宇治平等院で戦死した(同年5月26日)。しかし、挙兵の波紋は東国を中心として、諸国に広まった。

 以仁王の令旨は源行家(頼朝の叔父)によって各地の源氏に運ばれた。頼朝のもとへは4月27日に行家が訪れ、頼朝は水干に着替え、男山の方に遥拝した後に謹んで令旨を拝読した。行家は甲斐・信濃の源氏に触れるためすぐに立ち去った。
 6月19日京の三善康信(頼朝の乳母の妹の子)が、平家が以仁王の令旨を受けた諸国の源氏をすべて追討しようとしているので直ちに奥州藤原氏の元へ逃れるようにと急報を送ってきた。
 また同月27日には、京より下ってきた三浦義澄(義明二男)、千葉胤頼(常胤六男)が北条館を訪れて京の情勢を報告した。頼朝は東国での挙兵を決断する。

 頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向を探らせた。「源平盛衰記」によれば波多野義常は返答を渋り、山内首藤経俊に至っては「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、鼠が猫をとるようなものだ」と嘲笑した。だが、大庭景義(大庭景親の兄)は快諾し、老齢の三浦義明は涙を流して喜び、一族を集めて御教書を披露して同心を確約した。千葉常胤、上総広常もみな承諾したという。

山本兼隆を討つ

 8月頼朝は手始めに伊豆目代山木判官兼隆を討つことにした。兼隆は頼朝と「私の意趣」があったといい、「曾我物語」には頼朝と恋仲だった政子が兼隆に嫁がされそうになり、勝気な政子は頼朝のもとへ逃げ出して、以来、頼朝と兼隆は敵同士になったという話がある。
 頼朝はかねてから兼隆の居所の地形を密かにさぐらせ、北条時政と攻撃の段取りを整えていた。決行は8月17日と決められた。
 挙兵を前に、頼朝は工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らは自分だけが特に頼りにされていると喜び奮起する。

 しかし、挙兵当日佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら佐々木兄弟が、遅れて参着した。洪水のため心ならずも遅れ、急ぎ疲れた体だった。挙兵予定は朝方だったため、予定が狂ってしまったが、兄弟の参着に頼朝は涙を流してねぎらった。
 この日、兼隆の雑色男が頼朝の家の下女と恋仲で、その日も来ており、多くの武者が集まっていると注進される恐れがあるので用心のため生け捕った。頼朝は明朝を待たずに直ちに山木館を襲撃することを決め、また襲撃の成否を確認するため、山木の館に放火するよう命じた。

 北条時政は「今宵は三島神社の祭礼であるため牛鍬大路は人が満ちて、襲撃を気取られる恐れがある。裏道の蛭島通を通ってはどうか」と進言した。頼朝は「わしも最初はそう思ったが、大事の始めに裏道を使うことはできぬ。それに蛭島通では騎馬で行くことができぬ。大道を通るべし。」と命じた。また佐々木盛綱・加藤景廉は留守を守るよう命ぜられ、頼朝の近くに残った。

 深夜軍勢は進発、途中の肥田原で時政は佐々木定綱に兼隆の後見役の堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けてこれを討つよう命じた。佐々木兄弟は信遠の館に向かい、子の刻に経高が館に矢を放った。信遠の郎従が応戦して矢戦になり、経高は矢を捨てて太刀を取って突入。信遠も太刀を取って組み合いになった。経高が矢を受けて倒れるが、定綱、高綱が加わり、遂に信遠を討ち取った。

 一方時政らの本隊は山木館の前に到着すると矢を放った。兼隆の郎従の多くは、三島社の参詣に出払い、そのまま黄瀬川の宿に留まって不在だった。しかし、わずかに館に残っていた兵は激しく抵抗、この間に信遠を討った佐々木兄弟が加わったが、容易に勝敗は決しない。

 頼朝は山木館の方角からいまだ火の手が上がらないので、警護に残っていた加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家を、合戦に加わるべく差し向けた。特に景廉には長刀を与え、これで兼隆の首を取り持参せよと命じた。景廉、盛綱は山木館に乗り込み、遂に兼隆を討ち取った。館に火が放たれ、燃え尽きた頃には朝になっていた。軍勢は払暁に帰還、頼朝は庭先で兼隆主従の首を検分した。

石橋山の戦い

 山本兼隆を討ちとった頼朝は、8月20日伊豆から相模国土肥郷(真鶴・湯河原・熱海)へと進出した。頼みとする三浦一族と合流するためだ。三浦一族は頼朝に味方することに決めていたのだが、悪天候のため出陣が遅れていた。これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、曽我祐信、山内首藤経俊、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向かった。

 大庭景親は以仁王挙兵時には平家に従い在京していたが、8月始め頃相模に下国し、源氏の動静を探っていた。「玉葉」(九条兼実の日記)によれば、景親は清盛の命を受け、関東に居住する故源仲綱の子を追討するため、下向したとの伝聞を記す。仲綱の子は陸奥に逃亡してしまっており、ちょうどこの頃、頼朝の挙兵に接した。景親の下国が頼朝の決起を促す要因となったのは疑いない(小田原市史)。

 23日、頼朝は300騎をもって石橋山(小田原市石橋・米神)に陣を構え、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣、さらに伊豆の伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出し頼朝の背後を塞いだ。この日は大雨となった。そのため、増援の三浦軍は丸子川(酒匂川)の増水によって足止めされ、頼朝軍への合流が出来なかった。

 三浦軍は景親の党類の館に火を放った。その煙は空半分ほどを覆い、これを見た景親は三浦の仕業と知って、すでに黄昏時になろうとしているが、三浦が合流を果たせない今こそ合戦を行うべきだ、と軍議を決した。

 闇夜の暴風雨の中、大庭軍は頼朝の陣に襲いかかった。多勢に無勢、岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが討ち死にして頼朝軍は大敗した。佐奈田与一の奮戦は平家物語、源平盛衰記が物語る(これら軍記ものはあくまでもお話)。与一の戦死した地には佐奈田霊社が建てられ、江戸時代には美男の人気者として、多くの錦絵が描かれた。また、頼朝が武家政権をほぼ確立させた建久元年(1190年)正月20日、頼朝は三島、箱根、伊豆山参詣の帰りに、石橋山の与一とその郎党文三の墓に立ち寄り、思い出して涙を流したという。

 平家物語などによれば、合戦の日、頼朝が「大庭三郎と俣野五郎とは高名の兵、誰をもって組ますべきか」と問うたとき、岡崎四郎進み出て、「親の申すことではあるが、我が子義忠こそ適任なり」と推挙した。よって頼朝は与一に「大庭三郎と俣野五郎の二人と組んで高名を立てよ」と先陣を命じた。
 佐奈田与一義忠は白葦毛の名馬にまたがり、15騎を率いて進み出て名乗りを上げた。大庭勢はよき敵であると見て大庭景親、俣野景久、長尾新五、新六ら73騎が襲いかかった。夜間で大雨のため、敵味方分からず乱戦となる。与一に敵一騎が組みかかった。これを組み伏せて首をかき切るが、景親や景久ではなかったため、首を谷に捨ててしまった。
 敵を探していると目当ての俣野景久と行き会った。両者は馬上組みうち、地面に落ちてころげ、泥まみれの格闘の末に与一が景久を組み伏せた。
 景久のいとこ長尾新五が「上が敵か?下が敵か?」と問えば、与一は咄嗟に「上が景久、下が与一」と言う。驚いた景久は「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな」と言う。とまどった長尾新五は手探りで鎧の毛を触り、上が与一と見当をつけた。これまでと思った与一は長尾新五を蹴り飛ばし、短刀を抜いて景久の首をかこうとするが刺さらない。不覚にも鞘ごと抜き放ってしまった。先ほど首を切った時の血糊で鞘が抜けないのだった。そうこうしているうちに長尾新五の弟の新六が背後から組みかかり、与一の首を掻き切ってしまった。与一に従っていた郎党文三も、奮戦の上討ち死にした。

 さて、大庭軍は頼朝を追撃したが、大庭軍にあって頼朝に心を寄せる飯田家義の手引きによって頼朝らは辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。

 翌24日、逃げ回る頼朝軍の残党は山中で激しく抵抗した。頼朝も弓矢をもって自ら応戦した。ちりぢりになった頼朝軍の武士たちはおいおい頼朝の元に集まり、頼朝もこれを悦んだが、土肥実平は、人数が多くてはとても逃れられないと見て、ここは自分の領地であり、頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、皆はここで別れて雪辱の機会を期すよう進言した。皆これに従って涙を流して別れた。

 北条時政と二男の義時は甲斐国へ向かい、嫡男の宗時は別路を向かったが、宗時は途中で伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にした。

 大庭軍は山中をくまなく捜索した。大庭軍に梶原景時という武士がいて、頼朝が椙山「しとどの窟」の居るのを知るが、これを隠し、この山に人跡なく向こうの山が怪しいと景親らを導いた。こうして頼朝の命は救われ、この故に景時は後々頼朝から重用される。

戦後

 頼朝、実平一行は箱根権現社別当行実に匿われた後、箱根山から真鶴半島へ逃れ、船を仕立てて真鶴岬から出航。時政らも引き返して船を仕立て、海上で三浦一族と合流し、安房国を目指して落ち延びた。

 一方、石橋山合戦に合流できなかった三浦軍は、頼朝軍の敗北を知ると引き返し、途中鎌倉の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇、合戦となり、双方に少なからぬ討ち死にが出たが、停戦が成って双方兵を退いた。
 26日畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら平家方の大軍が三浦半島に押し寄せた。三浦一族は本拠の衣笠城で防戦するが、支えられず、城を捨てて船で海上へ逃れた。この時89歳の三浦義明は「源氏累代の家人として、その再興に立ち会うことができた。これ程の喜びはない。」と言って、ひとり城に残り討ち死にした。
 頼朝一行と合流するのは、このときのことだ。

 9月、安房において頼朝は再挙し、安西氏、千葉氏、上総氏などに迎えられて房総半島を進軍して武蔵国へ入った。東国武士が続々と参集して、短期間で数万騎の大軍に膨れ上がり、大庭景親ら平家方はもはや抗することが叶わなくなった。10月6日頼朝は鎌倉に入り、10月20日富士川の戦いに於いて、京から派遣された平維盛の軍勢は、水鳥の羽音に驚き戦わずして敗走する。また、11月初めには常陸に佐竹秀義を攻め、これを破った。11月17日頼朝は侍所を設け、和田義盛を別当に任命、御家人の統制に当たらせた。ここに頼朝の軍事政権が鎌倉に誕生した。

 さて、石橋山の戦いで敵対した武士たちも、頼朝が鎌倉を本拠とした時点で次々と降伏した。平家方大将であった大庭景親は、下向してきた平家軍に合流しようとしたが果たせず、河村山(山北町)に逃亡し、10月23日ついに降参、許されず斬首された。
 また、源家累代の家人の動向を探らせた折返答を渋った波多野義常は、討手を差し向けられ、所領の松田郷で自殺。同じく悪口を吐いたとされる山内首藤経俊は斬罪になるべきところを、頼朝の乳母であった経俊の母山内尼の嘆願によって助命されたが、所領山内荘は没収された。曽我祐信は10月18日降参、翌月許された。「刑法に及ぶの者、僅かに十の一か」と吾妻鏡に記すように、石橋山合戦の敵対者に対しては、おおむね寛大な処置がとられたようだ。


曽我兄弟の仇討ち

 曽我兄弟の仇討ちというのは、鎌倉初期の御家人の所領争いに端を発したできごとで、当時としては武力で決着をつけることがしばしばあり、珍しい話ではなかった。ただ、頼朝が仇討ちに感じ入って、兄弟の菩提を弔うよう指示したため、「曽我物語」や「吾妻鏡」(共に鎌倉末期成立)に書かれ、また、曽我物語は平家物語と同じように、盲目の御前(ゴゼ)が鼓を打ちつつ語り広めたため、有名になった。江戸時代には三大仇討ちの一つとして、能・浄瑠璃・歌舞伎などの芝居に演じられ、浮世絵にもなった。

 しばし、できごとのあらましを辿ってみよう。

 伊豆の国の住人で、伊東・宇佐美・大見(現伊東市八幡)の三箇所を合せた楠見荘(クスミノショウ)の本主で工藤助隆(スケタカ)という人がいた。先妻との間の子は早世し、後妻の連れ子(女子)の子を養子(伊東助継スケツグ)として、これに跡目を譲った。実は助継は助隆が後妻の連れ子の継娘と関係し、儲けた子だった。一方、先妻との間の早世した子にも河津次郎助親(スケチカ、助祐)という子があり、助隆はその子も養子として次男としていた。

 助親(伊東祐親ともいう)は助継が実は助隆の子(2歳ほど年上だが、実は叔父にあたる)と知らずにいたので、自分こそ嫡流であるべきなのに、他人の継娘の子に跡目を譲ったのを、心安からず思っていた。そこで助継が重病で死んだとき、甘言を弄し、助継の子工藤助経の後見人となり、自分の娘を娶わせた。そして、京の平家に勤めさせている間に、全領地をすっかり横領してしまった。さらに、祐経に嫁がせた娘も離婚させて、土肥遠平に嫁がせた。

伊東氏系図
 先

河津三郎祐泰十郎助成
  ┠─男子(早世)─助親(伊東祐親)五郎時宗
工藤助隆




 ┃ ┠───────伊東助継────工藤助経

後妻 





 ┠継娘





 某







 工藤助経はこれをうらみとし、伊東祐親の招きで関東の御家人たちが伊東の奥野というところで巻狩りを催した際、郎党の大見小藤太と八幡三郎を刺客に差し向けた。祐親を狙った矢はあやまって祐親の息子河津三郎に命中し、その命を奪った。2人の刺客は暗殺実行後、追討を受け殺された。なお、この巻狩には頼朝(当時は流人)も参加していた。というのも、当時頼朝は伊東祐親に庇護されていたからだ。また、河津三郎は相撲の剛者で、相撲の決まり手でもある「かわづがけ」の名を残したと言われている。

 さて、難を逃れた伊東祐親は、娘が頼朝と通じ一子千鶴丸を儲けた際、平家から国奉行を任ぜられたため平家を恐れ、その子を殺してしまい、また伊東からも追い払った。頼朝はその後北条時政に庇護されたが、そのため頼朝は激しく祐親を憎んだ。頼朝挙兵の石橋山の戦いに際しても、伊東祐親は大庭景親と共に頼朝を挟撃することになる。頼朝が天下を取ったとき、祐親は娘婿の三浦義澄に預けられ、その後自殺した。一説には、祐親を憎んでいた頼朝によって殺されたともいう。

 工藤祐経は伊東祐親に代って伊東家を継ぎ、源頼朝の寵臣となった。吾妻鏡によれば、義経の愛人静御前が頼朝の命で舞ったとき、工藤祐経が鼓を打ったという。一方、河津三郎には三人の男子があった。末子は母から離れて他所で養われたが、残る二人の兄弟は母に従って、その再婚先曽我太郎助信の下で成長した。兄弟は伊東祐親の孫なので、幕府の御家人になることはできなかったが、兄の助成は北条時政の御内人となった。五郎の元服に際しては、兄が連れていって、時政が烏帽子親となっている。なお、曽我兄弟の母方というのは、曽我物語に相模の国の御家人たちなり、として広く縁戚関係があったことを伝える。兄弟は縁者の家に何日も逗留し、遊び育ったという。

 成人した曽我兄弟は親の敵工藤助経を討つことを心に決め、弓矢を習得しつつ、助成にあっては伊豆と鎌倉を往来する敵を狙うため、東海道の宿々の遊女と関係を持った。特に大磯の虎(トラ)という遊女とは懇ろな関係となった。さて建久4年(1193)に兄弟は、鎌倉に向かう敵を大磯で見かけ、追っていき戸上原(藤沢市)で討とうとしたが、警戒が厳しく果たせなかった。その後も、頼朝が信濃の三原野や下野の那須野で行った巻狩に際し、道中の宿々で狙いをつけたが、そこでも果たせなかった。最後に、富士野での頼朝の巻狩に狙いを決することとなる。

 鎌倉を出た頼朝のあとを追った祐成は覚悟を決め、大磯の虎を曽我の館に呼んで一夜を伴にして別れを告げた後、六本松峠(曽我荘から中村荘に通ずる当時の主要な道だった)まで送った。また、兄弟は曽我館で母に別れを告げ、足柄峠越えでなく五郎の主張で箱根越えで目指す富士野に向かった。五郎は、幼い頃童として育ててくれた箱根権現の別当に別れを告げたかったからだ。

 建久4年5月、雷鳴が轟く富士野で曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を討ち取って、仇討ちを果たした。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲み、兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄十郎が仁田忠常に討たれた。弟の五郎は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。

 その翌日、五郎は頼朝の御前で仇討ちに至った経緯を述べた。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡した。