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6.小田原北条氏(後北条)の成立

伊勢宗瑞の出自

 伊勢宗瑞(ソウズイ)の出自について、近年まで通説とされていたのは伊勢素浪人説だったが、この説は明治になって唱えられたもので、関係史料の発掘、実証研究の進展にともなって、最近では伊勢氏の一族で備中守伊勢盛定の子盛時の後身とする説がもっとも有力視されている。これに対して有力な反証がないことから、ほぼこの説に落ち着きつつある。

 宗瑞は北条早雲の名で呼ばれることが多いが、宗瑞自身が北条氏を名乗ったことはなく、伊勢が北条に改められるのは子の氏綱代だ。また、早雲は出家後の庵号早雲庵を略したもので、出家後称した法名は宗瑞という。この名を正式に用いていた。従ってここでは伊勢宗瑞の名で叙述する。

 伊勢盛時の史料上の初見は文明3年(1471)で、備中国荏原郷内に所在し、菩提寺の長谷法泉寺(岡山県井原市)に禁制を下している。次いで同13年史料に「伊勢新九郎盛時」の名が見える。同15年将軍足利義尚の申次衆となった。

 伊勢盛時の姉は北河殿として駿河今川義忠に嫁しており、義忠死後北河殿の子竜王丸(氏親)の家督継承のため、伊勢盛時は駿河に下向したと見られる。この後伊勢新九郎として所見され、明応4年(1495)の発給文書では宗瑞で署名している。

 この間の明応2年伊豆乱入を果たしており、この折に出家し、同時に幕府への出仕も停止したのだろう。

*名前の話:伊勢新九郎盛時というとき、新九郎を仮名(ケミョウ)といい、盛時が実名となる。宗瑞は法名という。

宗瑞の伊豆乱入

 伊豆乱入は伊豆における内乱状況に乗じたものだった。文明14年(1482)享徳の乱和睦の後、伊豆は堀越公方足利政知の分国とされていた。政知が延徳3年(1491)死去すると、その家督をめぐって内訌を生じ、長男茶々丸は継母円満院と異母弟潤童子を殺害し、実力で家督を継承した。しかし、内訌は収まらず、明応年間(1492-1501)茶々丸は外山・秋山両家老を殺害し、豆州騒動といわれる状態になったという。こうした内乱状態に乗じて、宗瑞は乱入してきたのであった。

 宗瑞の伊豆乱入は、その下克上的性格が強調されてきたが、その行動は今川氏の政治行動の一環としてなされたことは間違いない。また、最近の研究から、同年勃発した管領細川政元によるクーデターに連動してなされたものだということが明らかにされた。政元のクーデターは、将軍足利義材を廃し、義高(義澄)を新将軍に擁立した事件だ。義高は政知の次男であり、茶々丸は彼にとって母と弟の敵だった。義高の将軍就任は茶々丸の討滅をもたらすものとなる。

 さらに、宗瑞の伊豆乱入は近隣領主間の対抗関係と無関係ではなかった。享徳の乱終結後、山内上杉顕定は扇谷上杉定正と対立し、定正が道灌を謀殺したのを契機に長享元年(1487)に長享の乱が起こる。「関東三戦」といわれる実蒔原・須賀谷・高見原の合戦で顕定は定正に押されるが、抗争が長期化するにつれて顕定が次第に有利に立つようになった。明応3年(1494)に両上杉氏の抗争が再発した際、定正は今川勢(宗瑞を含む)の軍を相模・武蔵へ招き入れ、荒川を挟んで対陣していたところで定正が急死した。このため今川・宗瑞勢は撤退した。一方、甲斐でも守護武田信縄と父信昌・弟信恵との抗争が展開されており、今川氏親と宗瑞はこの抗争にも介入していた。

 さて、定正の援助を得て伊豆に乱入した宗瑞は、堀越御所を攻略し、同4年には茶々丸を国外に追放して、伊豆進出を果たした。韮山城を本拠地に定め、以後宗瑞は「豆州」と称される。しかし、伊豆一国の平定はただちには達成されなかった。国内には茶々丸勢力が残存しており、明応6年までは戦乱状況にあったことが確認される。

 明応5年(1496)7月には、宗瑞は扇谷上杉朝良(定正の嫡子)の援軍として弟弥次郎を相模に派遣し顕定と戦っている。山内上杉顕定による西部侵攻に際して、扇谷上杉氏に組する大森氏と伊勢弥次郎は、連携して小田原城に立て籠もって戦ったが、小田原城は山内上杉の軍勢に攻め落とされた。

 これらは長享の乱の一環としての軍事行動だったが、同7年宗瑞は甲斐にあった茶々丸を自害に追い込み、これによって伊豆における茶々丸勢力の抵抗も終息した。

宗瑞の小田原城奪取

 宗瑞が大森藤頼をだまし討ちにしたという俗説は、史料上つじつまの合わない部分が多く、創作だと断言してよい。

 明応5年(1496)長尾能景宛山内上杉顕定書状写によれば、山内上杉の軍勢が大森式部少輔・刑部大輔・三浦道寸・太田六郎右衛門尉・上田名字中并伊勢新九郎入道弟弥次郎などの扇谷上杉勢が立て籠る要害を自落せしめたとある。先に述べたように、要害とは小田原城と推定され、このとき小田原城は扇谷上杉勢の共同統治下にあったらしく、宗瑞は弟弥次郎をして大森氏と連携していた。

 この後、永正元年(1504)大森式部大輔(先の少輔と同じ人物と考えられる)宛関東管領山内上杉顕定書状写によると、大森氏は扇谷から一転して、山内上杉氏に属していた。書状の内容は、顕定が扇谷上杉朝良・駿河今川氏親・伊勢宗瑞らと武蔵立河原(立川市)で対峙している最中に、大森式部大輔に甲斐武田信縄へ参陣するよう促したものだ。さらに永正6年には、顕定は大森式部大輔に贈物の礼状を出している。宗瑞が小田原城を奪取したのは、この頃のことであったと推定される。大森氏は扇谷上杉の共同統治と化した小田原城から退去させられた、これが宗瑞の小田原城奪取の実態ではなかったかという(小田原市史)。

 また通説では、宗瑞の小田原城奪取については明応4年のこととされていた。しかし、これは明確な根拠のある所伝ではない。この時点では大森氏と伊勢弥次郎が扇谷上杉勢として、連携して小田原城を守っていた。

 その後文亀元年(1501)宗瑞は、伊豆山権現の社領を西郡上千葉(市内千代)から伊豆田牛村(下田市)に充て替えしている。このことは、この地が宗瑞によって収公されていることを示し、この時点において宗瑞は小田原城奪取を果たしていたと見られる。その時期は特定できないが、明応5年から文亀元年の間までであった。

宗瑞の領域支配

 宗瑞は大森氏を追放したのち、大森氏被官らの所領を収公し、みずからの直轄領、家臣らの所領とした。この時点で、小田原城は本城韮山城に対する支城の位置づけだった。のちの永禄2年(1559)に作成された北条家の「所領役帳」によれば、宗瑞の家臣団は本城韮山城を拠点とする伊豆衆、支城小田原城を拠点とする小田原衆、宗瑞の側近家臣団の御馬廻衆などに編成されたと見られる。

 同所領役帳によると、家老松田氏には苅野荘1000貫文の知行が与えられた。松田氏の出自は、室町幕府奉公衆でもある備前松田氏一族の松田盛秀(憲秀の父)・康定兄弟が、相模西部の国人松田左衛門尉を訪ねて下り、宗瑞・氏綱に仕え、のちに盛秀は左衛門尉の名跡を継承した。おそらく盛秀・康定より1世代前には相模に下り、宗瑞の時代にはすでに重臣に列していたと考えられる。松田氏は北条氏家臣の中でも筆頭に位置し、遠山氏・大道寺氏とともに、北条一門に準ずる一族の家格を与えられていた。国人松田氏の本領であった松田郷は遠山氏の本領となった。

 国人松田氏は宗瑞の西部進出にあたって大きな役割を果たしたと伝えられ、その直接の後継者は松田康隆と考えられる。康隆には川村郷(本領)・東大友などが与えられた。旧勢力出身の家臣と見られるのは、松田康隆のほかは、篠窪氏、加茂宮氏ていどで、他は伊豆進出以前からの宗瑞譜代の家臣がほとんどだ。宗瑞進出に伴って領主層の総入れ替えが行われたようだ。

 宗瑞は永正3年(1506)に相模西郡の検地を行っている。北条氏の検地施行の初見であるとともに、戦国大名が行った検地としても、もっとも最初のものとなる。換言すれば、新領土における郷村の貫高や税額を決定する必要があり、検地はそのために行われたと言える。

宗瑞の相模経略過程

 永正6年(1509)以降、それまで今川氏の軍事行動の一環であった宗瑞の行動は、扇谷上杉朝良への敵対に転じる。すなわち宗瑞は独自の軍事行動を展開し始め、相模経略を推進するものとなった。

 長享の乱終息後の永正3年、古河公方の内訌(政氏と高基との抗争)を中核とする永正の乱が展開された。越後においても、守護代長尾為景の下克上により、守護上杉房能が敗死した。上杉房能は山内上杉顕定の実弟であったので、顕定は越後の内乱にも介入する。これによって関東と越後の争乱が連動する。上杉顕定は長尾為景追討のため、越後に出陣、長尾為景は関東の反上杉勢力に蜂起を促し、宗瑞はこれに呼応したのだ。これには、幕府側が長尾為景の越後支配を公認し、宗瑞が幕府関係者と密接な関係を有していることから、幕府の意向がその背景にあったとされる。

 上杉氏に敵対した宗瑞は、顕定の越後出陣で上野における反乱勢力の追討にあたっていた扇谷上杉朝良の留守をついて、永正6年朝良の本拠武蔵江戸城付近まで侵攻した。このときは、江戸城を攻略するまでに至らず、やがて朝良の帰還により、押し戻された。翌年にも宗瑞は朝良の領国への侵攻を行ったものの、やはり朝良の反攻によって、小田原城の城際まで攻められた。その後、宗瑞と朝良は和睦を結び、宗瑞の相模経略はその開始直後に一頓挫を強いられてしまう。

 しかし、永正9年山内上杉では内訌が生じ、古河公方の内訌と結びついて、永正の乱が大きく転回し、再び山内上杉(憲房)と扇谷上杉(朝良)との抗争が展開された。宗瑞はすぐさまその虚をついて、朝良との和睦を破棄、朝良方三浦道寸の岡崎城(伊勢原市と平塚市の境)と鎌倉を攻略した。三浦道寸は住吉要害(逗子市)次いで三浦郡三崎城(三浦市)まで後退した。さらに永正13年、朝良の養子朝興が三浦氏救援のため大軍を率いて中郡に侵攻してきたが、宗瑞はこれを撃退するとともに、余勢をかって三崎城を攻略、三浦氏を滅亡させた。ここに宗瑞による相模一国の経略が成った。

 直後、宗瑞は三浦半島の対岸房総半島の上総において、上総真里谷(マリヤツ)武田氏と原氏の抗争に介入し、武田氏を支援した。さて、永正15年上杉朝良が死去し、朝良が支援していた足利政氏はこれを契機として政治的に隠棲し、永正の乱は事実上終結した。しかし、政氏の後継者・義明は武田氏を頼り、その支援の下小弓公方を創設した。ここにおいて上総の抗争は、古河公方(高基)と小弓公方(義明)の抗争という構図になった。そのため、武田氏を支援していた宗瑞は義明方陣営に取り込まれ、同じ義明方の上杉朝興とは一応の和睦が成立したと見られる。それというのも、宗瑞はこの頃家督を嫡子氏綱に譲って隠居したようで、氏綱が当主となり、以後伊勢氏の本拠は小田原城となる。宗瑞はそのまま韮山城に住み、翌16年同地で死去した。遺言により、湯本早雲寺が創建され、同寺に埋葬された。

 なお、宗瑞が制定したとされる「早雲寺殿廿一箇条」は、戦国大名の家訓として広く知られるが、その制定者・時期は確証があるわけではない。その内容の多くは、中世から近世にかけて一般的に行われていた武家奉公のあり方・心得について述べられたもので、本家訓の制定者は北条氏関係者であるとは限らない。また、戦国時代成立の他の家訓にも内容の多くが共通している。ただし、本家訓が確認されるもっとも早い史料は、江戸時代初期の作とされる「北条五代記」で、当初から北条氏と密接に関係あるものとして存在しているのも事実だ。内容が武家奉公の心得を説いている点から見ると、北条関係者の場合でも、主君である宗瑞の可能性は低く、一族・家臣の立場にあったものが制定したと考えられる。