11.北条氏時代の産業と文化
伝馬制度
北条氏の伝馬制度の初見は、大永4年(1524)相模国当麻宿(相模原市)に下した制札で、「玉縄・小田原より、石戸と毛呂へ往復のもの、虎の印判をもたざる者に、伝馬おしたていたすべからず」とあり、虎印判状を所持しない者に、みだりに伝馬を仕立ててはならないと規制している。これにより、伝馬制度が16c始めに成立していたことが知られる。
以来、北条氏は伝馬制度を整備し、さかんに伝馬手形を発給した。後には、北条氏の伝馬手形は「常調」の印文を有し、上部に馬の意匠を施した朱印が捺されていた。内容は、手形を発給された人物が、出発地から目的地へ赴く際の使用できる伝馬の数を示し、宛所は某所より某所への宿中とされる場合がほとんどだ。
残存する伝馬手形60例のうち、大部分に出発地か目的地として小田原が出てくる。一方の地名は北条氏の領国すべてに展開している。従って、北条氏の常調印の伝馬手形は、小田原を中心とした伝馬網に対して発給せられたものと考えることができる。また、この伝馬手形に類する形式の文書は、他の支城主らは創出していない。氏康が隠居後、個人印の「武栄」で発給した伝馬手形類似の朱印状も、隠居後は「常調」印の手形を使用できないことを示している。
相模国の主要交通路は、小田原・酒匂・国府津・二宮・大磯・平塚・茅ヶ崎・藤沢を経て玉縄に至り、そこから鎌倉・金沢へと通じていた。また、平塚から大神・厚木・当麻(タイマ)・田名(タナ)を経て武蔵国(八王子)に入る交通路(さらに毛呂を経て鉢形に至る)や、鎌倉から江戸を経て下総国小金(千葉県松戸市)に至る道筋、玉縄から当麻を経て武蔵国に至る道筋、玉縄から戸塚・神奈川を経て江戸に至る道筋も存在した。さらに、足柄峠から厚木を経由して江戸に至る矢倉沢往還も存在していたとみられる。小田原から西方へは、早川・岩・土肥・熱海・軽井沢を経て韮山へ至る道筋、小田原から湯本を経て箱根を越えて三島に至る道筋、湯本から足柄峠を越える道筋もあった。これらの道筋には宿駅が設けられ、伝馬が常備されていた。
北条氏の輸送路は大部分陸上交通に依存していたが、海上交通機関としての浦伝制度も設定していた。羽田・芝・品川(以上東京都)や神奈川・六浦(ムツラ、以上横浜市)には各湊があり、陸上交通に沿って海上交通も行われていた模様だ。特に品川は伊勢神宮御厨年貢の輸送に端を発した廻船が往来した。これを伊勢廻船といい、伊勢の問屋・廻船中が、鎌倉時代から独自の商業活動として盛んに行っていた。室町時代中期に品川妙国寺の伽藍堂塔を再建した有徳の豪商鈴木道胤も、熊野出身で品川に住みついていた。
三浦半島の浦賀・久里浜は梶原氏(紀伊出身)以下北条水軍の諸将がここを基地とし、周辺に所領を与えられた。梶原氏は水軍=海賊という面と商人という性格を合わせもっており、小田原の早川口に近い広浜に屋敷地を買い入れ、紀伊と小田原との遠隔地海上貿易に関わっていたとみられる。しかし、小田原に湊があったのかというと、国府津に漁村があった程度で、有力な湊が存在した形跡がなく、早川河口辺りで沖合いに船が停泊し、小型船で荷揚げする方式をとったのではないかという。
他に、相模川を利用して北武蔵にさかのぼる内陸輸送もあったようだ。
年貢・公事の収取
北条氏が領国を統治するうえで領民に課したのは、大きく年貢・公事というものだ。これらは直轄領において課された。年貢や公事の算出の基礎は貫高で算出され、おおよそ田一反につき500文、畑一反につき165文という換算値がある。田畑の生産物に限らない様々な物品も、多くの場合、貫文に換算されていた。貫高は土地の種別と面積の調査によって決定される。これを検地というが、北条氏といえども、検地は何の理由もなく強行することはできなかったので、当主代替わりにこれを行った。それを可能としたのは、代替わりには変革があるという中世的通念に支えられたものだ。
北条氏が領民に課した年貢には、段銭(タンセン)、懸銭(カケセン)、棟別銭(ムナベツセン)がある。段銭は反銭とも書き、田の面積に応じて賦課された。懸銭は畑に対して賦課されていた諸役・諸公事を氏康が天文19年(1550)に整理したもの。棟別銭は家の数に応じて賦課された。これらは銭納が原則だったが、正木棟別銭といって、棟別銭を銭の代わりに麦で納入することもあった。公事には大普請人足役(城普請)と陣夫役(戦場での雑役)がある。大普請人足役は、おおむね村の貫高20貫文につき一人という割合で賦課され、あくまでも労働そのものが要求された。陣夫役は夫銭といって銭を納めることで代えることができた。年貢は郡代や支城主の下に設置された蔵に収められることが多かったが、直接小田原城まで運ばなければならないこともあり、この場合はたいへんな労力を伴った。
家臣や寺社の所領では、各々の領主が年貢を徴収する。そのため、家臣・寺社の私領に対しては、大名は役・公事を賦課した。北条氏から賦課される役は「公方役」「公方御用」などと称した。公事では、家臣には「役」が普請役として賦課された。また、家臣たちには所領の貫高に応じ、日頃から「着到人数(武装兵力)」として定められた軍役が賦課された。家臣たちは、ひとたび陣触によって出動が命じられれば、一定の兵糧を携行して出陣しなければならなかった。
年貢を銭で納入する場合や諸商売について、北条氏は精銭を要求したことがある。永禄3年(1560)の布令で、年貢の銭納部分は100文のうち75文を精銭で納めよとし、取引については一貫文のうち700文は精銭、300文は地悪銭の割合で取引せよ、と定めている。当時の日本では、中国から渡来した宋・元・明の各種渡来銅銭が通貨として利用されていたが、摩滅・破損したものや国内で私的に鋳造された鉄銭も混用され、次第に精銭と悪銭を選別する選銭(エリゼニ)が行われるようになった。その際、京都や西の国々では古銭が高く評価されたが、中部以東では永楽銭が精銭とされた。ただし、精銭での納入はあまりうまくはいかなかったらしい。なお、一貫文とは96文で100文とし(100文中4文は糸代と見なされる)、これを10つなげたもの。
北条氏が国の危急と判断したときは、百姓は兵力としても動員された。天正13年氏政は酒匂本郷小代官百姓中に宛て、飯泉に参集して兵力として登録を受けよと命じており、酒匂郷の百姓が根こそぎ動員されている。同年秀吉は紀伊の雑賀一揆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政らを制圧し、旧主筋の織田信雄が従属すると共に、みずからは関白に就任し豊臣政権が誕生した。その6月秀吉は、佐竹・宇都宮・結城氏など北関東諸将に関東出陣を伝えた(実行はされなかったが)。これを受け豊臣政権との対決を前に、郷村からの動員体制を整えたと見られる。
その他、加地子(カジシ)と呼ばれる生産力上昇の結果生じた地主的な中間取り分や、隠田(オンデン)といわれる隠匿分などが存在した。大名は貪欲にできる限りこれを吸収しようとして検地を行ったが、把握だけして再給付することも多かった。天正14年北条氏の重臣板部岡融成は国府津の宝金剛寺に対し、本来の年貢についてくる御内緒務については改めてとやかくはいわれません、と述べている。これは明らかに何らかの増分で、再給付した例だ。
小田原の宿と職人たち
小田原の宿は鎌倉時代末期から南北朝時代、足柄道に代わって箱根湯坂道が利用されるようになったこと、及び箱根・伊豆山権現の二所詣でが盛んになったことから、次第に通行量が増して発達していったらしい。いわば自然成長的に発展してきた。室町時代初期交通路は、相模の国では公方が支配管理していた。関東公方持氏は交通量の増加にいち早く注目し、小田原に関所を置き、関銭を鶴岡八幡宮の造営費に充てようとした。関銭収入の管理を請け負わせたのが大森氏で、以前から三島・箱根の関を支配していた大森氏は一族を箱根権現別当とし、箱根権現領が多く存在する小田原方面の交通路支配にも進出していった。
大森氏が小田原を本拠とするようになったのは、おそらく太田道灌と結んで活躍した大森氏頼の代のことと考えられる。その時点で小田原の八幡山古郭に何らかの要害施設があったのか、氏頼のとき始めて要害を築いたのかははっきりしない。ただ、氏頼の時期が重要な画期であることは間違いない。氏頼は明応3年(1494)、南足柄市域にあった岩原城で死去し、確定はできないが、その跡を継承したのが大森式部小輔(後大輔)おそらく大森藤頼と見られる。
その当時小田原の宿町は、どの辺りであったかは確定できないが、地形的な点や古地名を考慮すると、宮前町がもっとも古く、新宿が大分遅れて発展し、山王口辺りに関所があったらしいことは、これまでの研究でも早くから推測されている。
小田原に職人衆が来住する契機となったのは、北条氏綱による寺社造営事業だった。特に北条氏の威信をかけて取り組んだのが鶴岡八幡宮の造営だ。造営工事には同宮の供僧快元が残した「快元僧都記」に詳しい。工事には鎌倉・小田原など領国下の職人だけでなく、京都・奈良から職人が集められた。これらの職人衆のなかには小田原に定住するものも多かった。
小田原の都市的発展が顕著となるのは氏康の代以降とみられる。家臣の小田原居住が増加するとともに、様々な職人・商人が各地から集まり、周辺からの百姓の出入りも増加した。この頃には城下の町は東海道の東から新宿、宮前町、今宿が町場となり板橋村へ抜ける。宮前町手前から北へは甲州道が走り、大窪村手前から熱海道が南に伸びていた。また、城下は侍屋敷と町人町が別けられていたのではなく、町場・侍屋敷・寺社が混在していた。町場では町人が町奉行となった。町奉行や職人の棟梁には北条家から給料が支払われた。
宮前町は松原明神の門前町だ。松原明神はもと鶴森明神といって新宿(船方村)あたりにあったのが移転して松原明神となった。宮前町奉行は問屋で小田原の商人頭の地位にあった賀藤家だった。
新宿は伝馬制のために新しく作った宿で、東海道の脇町には古新宿町があった。新宿町には鋳物師(イモジ)が住み、山田治郎右衛門は天文3年(1534)河内狭山(大阪狭山市)より来住、鋳物師棟梁として鉄砲御用を務めた(後役帳では鋳物師棟梁山田次郎左衛門の名が見える)。鉄砲の他、鍋・湯釜・風炉など日用品の鋳造も行っている。天正14年「大磯より小田原迄宿中」宛伝馬手形が相州文書「次郎右衛門所蔵」文書に残されていた、伝馬10疋をもって中筒製造のため大磯の土の運搬を命じている。中筒とは小型の大砲のような火器とみられ、大磯の土はその鋳造鋳型に必要な粘土だ。須藤氏は職人頭としてこの武器づくりの統括にあたった。また、秀吉の来攻必死となった天正17年末、北条氏は須藤惣左衛門(職人頭)宛に二十挺の大筒製造命令を出した(同次郎右衛門所蔵文書)。二十挺のうち二挺が山田二郎左衛門、他は小田原・千津島・植木新宿(鎌倉)・川那(藤沢)・三浦鴨居(横須賀)・荻野(厚木)など相模各地の鋳物師に割り当てられている。緊急のため各地の鋳物師を総動員したとみられる。山田次郎右衛門所蔵として保管されているのは、同氏が鋳物師棟梁として統括する立場にあったことを物語っており、さらに須藤氏が諸職棟梁を統括したのだろう。
古新宿町には北条稲荷神社があり、神事舞太夫の天十郎太夫がいて神事舞を奉納した。天十郎は伊豆韮山からおそらく氏康の頃小田原に移ったらしい。舞々は扇板子だけで演じて門付けして歩く一種の大道芸だが、卑賤の芸能とも言われ、様々な芸能者が祝儀の場で布施を求め秩序が失われるので、天十郎を統率者として他の大道芸能者の類はその下につくべし、としている。
今宿の町奉行は京都から下ってきた宇野氏で薬種業を営み、「透頂香(トウチンコウ)」という丸薬を売った。
宇野氏の主筋外郎(ウイロウ)氏は元朝時代の中国人、陳宗敬といい、南北朝時代に日本に渡来したらしい。「吉田家日次(ヒナミ)記」応永9年(1402)2月26日条に「外郎入来す。是れ唐人の子なり。日本において誕生すといえども父の名を取り外郎と号す。医道抜群の由」とある。そうした来歴から、薬種の輸入を中心とする日明貿易にもかかわり、薬種販売から次第に商人的性格を強め、15c末頃の陳祖田は、足利義尚や伊勢貞宗に接近し、遣明船の正使にも擬せられた。小田原に下った宇野氏はその一族もしくは被官の一人だったようだ。
小田原外郎宇野氏は、おそらく当初から広域商業に関わっており、その点が北条氏の宇野氏招致の重要な理由のひとつだったろう。宇野氏はもっとも早く小田原に来住し「陳外郎家譜」によれば永正元年(1504)宇野定冶が北条氏に招致され、今宿に屋敷地を与えられて定住したとする。ただ、この家譜は後日の作であって、すべてを事実と断定できない。「北条記」には外郎事として、氏綱の代に明神前に町屋を下され、小田原に住ける、としている。
宇野氏の北条領国内外にわたる商業活動の全貌は分からないが、薬種販売のため領国内を自由に通行する特権を認められ、同時に定冶は天文8年(1539)氏綱から河越領今成郷(川越市)の代官にも登用された。いわば御用商人ともいえる。他国の同様事例から見ても、宇野氏は薬種販売にとどまらず、年貢米の売却やその他の取引にも広くかかわっていた可能性もある。天正4年(1576)には、日光町でも外郎丸薬の独占販売を認められている。近隣の宇都宮は当時、二荒山(フタラサン)神社の門前町として、関東北部ではもっとも発達した中世都市であり、広域活動に従事する商人がここを拠点として「宮商人」と呼ばれていた。宇野氏も丸薬販売とともに、宮商人との取引をしていたのだろう。
宮前町の手前北側には唐人町があり、永禄9年(1566)に三浦半島に漂着し、小田原に移って定住した唐人の居住地となっていた。その折りの積荷は八幡宮へ寄付され、居住者は江戸時代朝鮮との交流で帰ったともいうが、証拠はない。
山角町は近世になって作られた町で、北条氏重臣山角氏(御馬廻衆筆頭)の居宅があったため、その名がついたのだろう。ここには畳刺(タタミサシ)棟梁の弥左衛門がいた。新編相模国風土記稿に先祖弥左衛門は北条早雲の頃より職業の都匠なり、とあって京都から下ってきたと思われる。畳刺は城や侍屋敷の需要のために小田原に呼び寄せられていたもので、北条家から給料が与えられた。
大窪村は当時すでに府内からほぼ町つづきになっていたであろう地域だ。ここには石切棟梁善左衛門がいた。元田中を姓としていたが、その子孫は現在も同所に住み青木姓を称していて、当時の文書も伝えている。善左衛門は小田原落城後は家康に召しだされ、江戸城の築城作業に加わっている。また、同村には京紺屋(キョウコンヤ)棟梁津田藤兵衛もいた。津田氏ははじめ伊豆韮山か三島で北条氏に仕え、北条氏の小田原進出によって小田原に移住したらしい。津田家伝来の藍瓶が小田原市郷土文化館に所蔵されている。
甲州道沿いには役帳に名が記載される職人頭須藤惣左衛門がいた。彼は諸職人を統括する役にあり、北条氏の命令は須藤氏を通じて各職人棟梁に伝えられた。一方で須藤氏は銀師(銀細工)の棟梁でもあった。須藤氏の屋敷があった場所は、近世須藤町(現栄町)と言われるようになる。須藤町の西側に奉行人幸田氏の居宅があった。この辺りは三の丸の北側入り口幸田門があり、近世上幸田・下幸田町と言われる。
その他小田原の商人として、冨山(トミヤマ)氏は天正13年伊勢松坂から小田原に移ってきた。小田原で商売したのは6年にすぎないが、経済関係の担当奉行と見られる安藤備前守の与力市村氏の娘と結婚し、小田原籠城戦に加わった。おそらく経済官僚と結びつくことで営業を有利に導こうとしたのだろう。小田原落城後は江戸で呉服商を営み、江戸時代中期まで大いに栄えたというから、小田原でも呉服を中心とした商売を行っていたと思われる。
紙屋甚六という人物は、天正の始め頃、奈良から相模に下って紙商売を営んだ。「多聞院日記」に、甚六が小田原から国紙を持ち帰り、多聞院院主に献上したとある。関東の紙は武蔵小川(埼玉県小川町)・越生(オゴセ、同越生市)が生産地なので、甚六は小田原に居を構え、そうした紙生産地から産品を買い入れ、小田原の需要に応じたり、上方に送ったりしていたのかも知れない。
村々の産業
下中村前川では塩業が営まれていた。天正12年前川の百姓与五右衛門は目安を提出し、同じく前川の百姓五郎左衛門を、五郎左衛門が与五右衛門に多年預け置いた「塩場」を取り戻そうとしているとして訴えた。与五右衛門は敗訴したが、前川では塩生産の権利が成立しており、その塩は北条氏に納められる産物だった。
国府津では漁業が営まれていた。その名の通り「津」=港が存在していた。弘治3年(1557)の虎朱印状によれば、国府津村村野惣右衛門に対して、本城御台所の御肴銭上納と引き換えに、虎朱印状による肴賦課を免除し、地頭・代官が自らの食用などのため肴を賦課しても拒否してよいこと、国府津の人間はどこの浦でも漁ができることなどの優遇処置を定めている。同様内容の文書が三浦郡落切(横須賀市)にも出されている。この場合の御肴銭とは、漁で得た魚の代価を銭で納めたと見られる。一方で、永禄3年(1560)虎朱印状では、魚は腐るので塩で処理した上で上納せよと、魚を現物で上納することを定めて、方針を転換している。この年には北条氏によって徳政が行われ、年貢が銭納から現物納に変更されることが徳政の一環として行われた。
国府津のもうひとつの特徴は番匠の存在だ。天文24年、北条氏が地青寺(現宝金剛寺)に宛てて、国府津での番匠使役に関する文書を発した。八幡宮・天神宮修造の時は番匠を雇えるだけ雇って使役してよい、地青寺・蓮台寺建立の時も番匠については前々定めたようにせよ、大工は八郎左衛門にせよ、というものだ。大工とはある職種集団の統率者をいう。番匠は現在でいう大工のこと、番匠の長(当時の大工)は八郎左衛門ということだ。また元亀元年、北条氏は各地の番匠を湯本へ召集した。このとき召集された番匠(の長)7名のうち、八郎左衛門、太郎左衛門の二人は国府津に居住しており、国府津は番匠の一大拠点だった。国府津は海の村だったので、寺社の修理造営の他、船の修理なども当然行っていたと見られる。
酒匂は中世前期には酒匂宿として活況を呈していたが、戦国時代の史料では「宿」として見えなくなる。しかし、町場としての機能をまったく失ってしまったのではなさそうだ。永禄3年西郡10ヶ村百姓は目安を提出し、北条氏の徳政が実施されているので、酒匂蔵年貢方に入れ置いている俵物を取り戻したいと訴えた。これに対して北条氏は酒匂代官小嶋左衛門を召し出して糾明し、年貢方は徳政の適用外だとして訴えを退けている。つまり、酒匂には西郡10ヶ村もの年貢が集積されていて、その管理に酒匂の代官が当たっていた。それは交通の要地としての機能を、酒匂が戦国時代もたしかに引き継いでおり、物資の集散地だったから年貢も集積されていたことになる。
中央との文化交流
戦国大名は領国内の国衆・地侍を支配し、寺社・百姓・商人・職人などを支配して領国経営を行うために、自己の権力に伝統的権威を付加することを欲し、また中央文化の摂取に力を入れた。天皇や将軍の側も各地の有力大名の経済力を大いに当てにし、しきりに綸旨(天皇)や御内書(将軍)を発給し、官途を授与したり、年貢の徴収や運上を依頼するなどして、有名無実となった権威を守ろうとした。
氏綱は関白近衛尚通に「酒伝童子絵巻」(サントリー美術館所蔵)の銘・奥書を依頼し、その礼として銭1000疋を贈っている(近衛尚通の日記「後法成関白記」)。斡旋の労を取ったのは相阿弥、絵巻の奥書は都の文人貴族として名高い三条西実隆が認めた。このとき氏綱の使いをしたのは外郎宇野家だ。
氏綱はこの後尚通の娘を二度目の妻として迎え、尚通から春日野(奈良産麻織物)百反が氏綱に遣わされ、氏綱からは白紬十端・白鳥一が送られてきた(同日記)。氏綱はまた、三条西実隆に連歌師宗長を介して黄金一両を贈り「源氏物語桐壺巻」の書写を依頼し、実隆はこの求めに応じてみずから書写し、氏綱の使者に渡した。
連歌師柴屋軒(サイオクケン)宗長は、駿河宇津山(静岡市)に庵を結び、熱海湯治に赴く傍ら、小田原にもたびたび立ち寄っている。「異本小田原記」には「氏綱連歌の事」として「駿河より宗長を節々招き越し、連歌をぞなされける。」とある。小田原では、氏綱・宗哲・宗長・松田長慶他、家臣、僧侶たちの間で連歌会が盛んに催されていた。氏康代にも連歌師宗牧の「東国紀行」において、氏康に招かれ、氏康・宗哲らと連歌を行ったことが記されている。氏政も連歌師宗祇の注釈書「宗祇袖下」を書写している。
氏康は伏見宮貞敦親王に「御書并びに(紀)貫之集自筆」の下賜の御礼として黄金拾両という大枚を進上した。大金を手にして親王は「先ず以って黄金重宝、年始一段満足、舞踏む所を知らざるものなり」と狂気したさまを日記に書いている。他にも公家に働きかけて古典の書写を求めている。
氏康・氏政は京都吉田神社の社家吉田兼右(カネミギ)と緊密な関係をもち、兼右は永禄11年(1568)「武運長久国家安全之神道秘法御祓」を氏康・氏政に送っている。氏直も吉田兼見と関係をもち、天正12年(1584)去年祓の礼として八丈嶋(縞、黄八丈のようなものか)五端を贈っている。なお、兼右と北条氏との間の連絡は、左近士という商人に託されている。
幻庵宗哲は文化的素養が高く、箱根権現が関東でも有数の寺社であり京都との関わりも深かったことから、同社を通じて京都の公家や文化人との交流を有していた。藤原定家の歌集や太平記等、多くの古典を所蔵していたことでも知られる。和歌では公家冷泉為和を招いて歌会を催し、連歌では連歌師宗長・宗牧と親交があり、宗牧が小田原を訪れた際には連歌会を催した。鞍作・弓・石台・茶臼など様々な細工にも秀で、特に宗哲考案の一節切の尺八は、「異本小田原記」に尺八のはやる事と記されて、都鄙に流布し、朝廷からも所望され、小田原の若侍は皆これを所持したという。「北条五代記」には、宗哲作の鞍は当時の多くの武士が用いていたという。
天正16年頃茶人山上宗二が小田原へ来遊すると、小田原で茶湯が流行し始めた。宗二は和泉堺の出身、千利休・今井宗久・津田宗及らと交わり、織田信長・秀吉にも招かれていた。しかし、天正11年秀吉の怒りを買って追放され、各地を転じて小田原へもやってきた。宗二は茶湯書「山上宗二記」を著し、北条氏の家臣板部岡融成・下野長沼(栃木県二宮町)城主皆川広照に与えている。当時茶湯釜は、下野佐野(栃木県佐野市)で鋳られた佐野天命(テンミョウ)が有名だったが、小田原でも鋳物師山田二郎左衛門とその一門によって小田原天命が鋳られ、評価が高かった。しかし、宗二は小田原合戦の折、利休のとりなしで秀吉の勘気が解かれ茶会に列席したが、席上再び秀吉の逆鱗に触れ、耳鼻をそがれるという残酷な刑に処せられてしまった。誰に対しても自分の意見をはっきり述べる人だったらしく、秀吉の勘気に触れる言葉を吐いてしまったのだろうか。
北条氏の蒐書は多くまた貴重で、多くは徳川家康に引き継がれたようだ。「吾妻鏡」は氏直から和睦調停の礼として黒田如水に贈られ、後に長政(如水の子)から徳川秀忠に献上された。世に北条本と呼ばれる。「酒伝童子絵巻」は氏直に嫁した督姫が北条家から持ち出し、池田家に再嫁した時に持参したと伝えられる。督姫はいま一つ「後三年合戦絵巻」(東京国立博物館所蔵)も同様持ち出している。
仏教と小田原
源頼朝によって武家政権が誕生したとき、時代の大きな変革の流れは宗教界に及び、奈良・平安の仏教とは異なり、末法の世を自力あるいは他力で救済していこうとする新しい仏教諸宗派が生まれた。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、道元の曹洞宗などだ。これらは鎌倉新仏教ともいわれる。
親鸞は承元元年(1207)越後国府(新潟県上越市)に流され、建暦元年(1211)赦免されるまで、同国にとどまり布教につとめた。次いで常陸下妻(茨城県下妻市)・笠間(同笠間市)などに赴いて布教し、60歳頃まで東国にとどまり、貞永元年(1232)京都に帰った。帰洛の折り東海道を通り、国府津の真楽寺には、途中この地に7年間逗留したとの伝説(あくまで伝説)が残されている。帰途は箱根越えだった。
時宗の開祖一遍智真は、弘安5年(1282)常陸・武蔵を経て鎌倉に入ろうとしたが執権北条時宗に拒まれ、片瀬(藤沢市)に移った。ここで踊念仏が行われ、多くの貴賎が参集した。その年のうちに片瀬を立ち、京都に向かい、東海道の各地で行法を行い、弘安7年京都に入り、熱狂的に受け入れられた。その後も四国・山陽道・山陰道を行脚し続けた。二祖真教は正応3年〜永仁元年までの3年間は越前を中心に遊行し、永仁5年〜嘉元元年の6年間を関東一円を遊行した。真教の小田原布教は永仁5年頃と思われ、国府津の蓮台寺が国府津道場と呼ばれている。この寺には真教上人坐像(重文)がある。また、蓮台寺及び酒匂の上輩寺が真教による開山という。福田寺(本町)も真教創建というが、もとは箱根双子山精進池あたりにあったと伝えられている(新編相模国風土記稿)。
日蓮は、法華経に帰依しなければ内乱・外冦によって亡国になるという、激しい他宗攻撃と幕府に対する宗教政策批判のため、伊豆次いで佐渡へ配流された。文永11年(1274)佐渡赦免の後、鎌倉から足柄越えで身延に向かった。酒匂の法船寺は、同地の修験者飯山法船が帰依して、日蓮を私宅に宿泊させ、のちその宅地を寺にしたという伝承がある(新編相模国風土記稿)。また、創建年代は下るが、酒匂には日蓮宗寺院が多い。酒匂は足柄越え・箱根越えの分岐点にある宿駅で交通の要衝なので、日蓮宗はここを布教の拠点としたのだろう。
(早雲寺)
早雲寺は伊勢宗瑞の創建になる。宗瑞は今川家の家督相続を調停した後、いったん上洛し、文明15年(1483)から長享元年(1487)まで将軍足利義尚の申次衆をつとめた。この間宗瑞は大徳寺で禅を学び、生涯その結縁を大切にした。永正16年(1519)生涯を閉じる前に、大徳寺僧以天宗清を韮山に招き、後事を託した。遺命により嫡男氏綱は箱根湯本に早雲寺を創建、以天を開山とした。早雲寺建立は宗瑞在世中の可能性も高く、その場合氏綱が本格的な大禅刹に整備したと思われる。氏綱は土屋郷惣領分(平塚市)・長塚村(市内永塚)の計214貫文を寄進し、また門前地の湯本を寄進した。さらに天文11年後奈良天皇より、早雲寺は勅願所の綸旨を、以天は「正宗大隆禅師」の禅師号を賜った。以天の名声を慕い、早雲寺には多くの修行僧が集まると共に、以後早雲寺は大徳寺関東龍泉(リョウセン)派として、大徳寺文化を北条領国に導入する窓口ともなった。また、以天は永正16年時点で大徳寺83世住持となっており、以後早雲寺2世大室宗硯が95世、3世松裔宗?(にんべんに全)が99世、4世南岑宗菊が110世に出世している。5世明叟宗普は大徳寺113世となったが、これ以降は大徳寺に入院せず、在国のまま大徳寺住持となった。大徳寺ではこれを居成の出世と呼んでいる。
小田原合戦の折、早雲寺の指導的立場にあったのは5世明叟宗普だった。明叟は天正16-7年の一時期、請われて大徳寺派の禅刹和泉堺の南宗寺の住持だったことがあり、秀吉の実力や時代の流れを見聞していたと思われる。天正17年南宗寺から帰った明叟は、氏政・氏直に秀吉との和平を説いたが聞き入れられなかった。小田原攻めが始まると、弟子たちと共に小田原城に籠城した。秀吉は早雲寺に本陣を置き、小田原城を包囲すると共に、石垣山城の普請に取り掛かった。石垣山城が完成すると、秀吉は早雲寺に火を放ち、山内の七堂伽藍・諸塔頭は灰燼に帰した。寛永4年(1627)菊径宗存により再建、また慶安元年(1648)3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。
(最乗寺)
最乗寺(南足柄市)の開祖は曹洞宗の了庵慧明だ。了庵慧明は相模国粕屋(伊勢原市)の生まれで、鎌倉円覚寺で剃髪出家、丹波国永沢寺(兵庫県三田市)の通幻寂霊の下で学んだ。以後能登総持寺、下総総寧寺(通幻の開山)、福井竜泉寺などに住し、応永元年(1394)相模に帰り、関本に大雄山最乗寺を創建した。以後了庵最乗寺の系を曹洞宗了庵派という。
最乗寺には了庵の名声を慕って多くの人々が門をたたき、中から紹陽以遠(2世)、大陽明中、大綱明宗(3世)、無極慧通(4世)などを輩出した。また、大綱の法嗣から春屋宗能(5世)・吾宝宗燦(8世)さらにその下で多くの法嗣を輩出し、無極の法嗣からも多くの法嗣を輩出した。
最乗寺10世安叟宗楞(アンソウソウリョウ)は、大森氏の生まれで、幼くして尾張瑞泉寺で剃髪、仏門に入った。その後各地の法門を尋ね、やがて最乗寺春屋宗能の門をたたき、その法嗣となった。嘉吉元年(1441)大森氏が早川に海蔵寺を創建すると、請われて同寺の開山となった。また文安2年(1445)久野総世寺の開山となる。文正元年(1466)最乗寺10世住持となり、文明2年(1470)退院。安叟の事跡で重要なのは、総世寺の住持だった時期に最乗寺の輪住制についての提言を行ったことだ。すなわち最乗寺の法燈が護持され、門派が繁栄するためには、最乗寺の法泉を汲む法孫たちが、高下・老若尊卑を問わず、輪次に最乗寺に住持として入院することが必要だと述べている。以後最乗寺では大綱十二派(大綱明宗の法嗣)・無極四派(無極慧通の法嗣)の十六派により1世1年の輪住制が実施された。また、山内の塔頭大慈院(大綱明宗の塔所)は大綱十二派が、報恩院(春屋宗能の塔所)は大綱十二派のうち春屋宗能の法嗣(春屋七哲といわれる、安叟もその一人)の輪住制が実施された。
曹洞宗了庵派の伸張には、安叟がその出身でもあったように、大森氏の庇護もあったろうと思われる。大森氏頼は寄栖庵と称して、曹洞禅に帰依した武将だった。安叟は自己の法を嗣ぐ弟子たちの位次を置文として書き残しているが、その中に寄栖庵の名もある。寄栖庵氏頼は文明3年安叟宗楞画像を作成し、安叟に着賛を求めている。また、総世寺は氏頼の創建だ。北条氏もまた曹洞宗を庇護し、北条一族の妻たちが曹洞宗に帰依している。
(高野山と北条氏)
空海を開祖とする真言宗の根本道場高野山は、南北朝・室町時代に寺領荘園が急速に崩壊していく中で、その収入源を参詣者に求めるようになった。また、地方の諸大名・有力者と宿坊契約を結び、高野山登山をさかんに勧誘した。高野山123の子院のうち、宿坊寺院は50余ある。その中のひとつ高室院が相模国の宿坊寺院だ。伊勢宗瑞は永正元年(1504)、高野山高室院の長運法印に宛て、武蔵立川原での合戦の勝利について述べ、黄金20両等を布施し、相模国宿坊を高室院に定めることを約している。長運は相模国岡崎(平塚市)出身だ。以後高室院と北条氏との結びつきは強まっていった。高室院は大檀那の北条氏のもとへ使僧を送り、敬意を表すことを怠らなかった。北条氏も高室院の使僧に伝馬手形を与え、往還の便を図っている。
北条氏に限らず、北条家の家臣、職人、百姓などにも高野山参詣は広まっていった。高野山に登山せず、村々をまわる高野聖に月牌供養料を納め、年間の供養を依頼する者も多かった。高野聖たちも御札・影像・土砂加持などを持って廻村し、檀那の獲得につとめた。高野聖たちの拠点は、相模国西郡の真言宗寺院だった。西光院(本町)、蓮上院(浜町)、金剛王院(今はない)、西明寺(大井町)などだ。こうした高野聖の活動は他宗派にとっては脅威で、激しい檀家争奪戦が繰り広げられたとみられる。永禄9年北条氏は、高室院役所中に相違なく往復できる旨の虎朱印状を与え、もし横合い儀があれば申し出よと言い渡している。高室院の教線伸長に対し、それを妨げる宗教諸宗派があり、それに対して高室院が教化活動の保証を得ようとしていたことが窺える。
小田原合戦後助命された氏直は、付き従う者たち合わせて300人で高野山へ赴き高室院を宿所としたが、それは北条氏と高室院の長い結縁の故だったのだ。
一方、相模西郡の真言宗寺院としては、東寺系の宝金剛寺(国府津)・西明寺(大井町金子)・蓮上院(小田原)、仁和寺系の金剛王院(箱根)が有力寺院として知られる。宝金剛寺は古くは地青寺と称し、開山は杲隣(ゴウリン)、久安元年(1145)一海によって中興されたという。箱根金剛王院東福寺は、古く天平宝字元年(757)山岳修行僧万巻の創建というもので、箱根権現別当寺だ。山内に6子院があって、そのうち西光院は北条氏綱によって小田原宿松原神社内に移され、融山を1世としたというが、東寺の末寺だともいい、蓮上院と本末相論(東寺の直末をめぐって)も起きている。
(北条氏の一向宗禁止と解禁)
北条氏は宗瑞以来一向宗(浄土真宗)を禁止した。全国各地で勃発する一向一揆への対応のためだ。もともと一向一揆は、細川政元が実如(本願寺9世)に加勢を求めたことに始まる。玉縄城主北条為昌は享禄5年(1532)、三浦郡の一向宗徒に対し、鎌倉光明寺(浄土宗)の檀那になるよう命じている(光明寺文書)。同じ浄土門寺院への寺替えを講じたものだ。国府津真楽寺の真乗は、蓮如(本願寺8世)が東国行化の時に法名を授けられた僧だったが、氏綱に領国から追放されている。
しかし、永禄3年(1560)越後長尾景虎来襲(第1回越山)の直前、氏康は武田信玄の申し入れを受け、一向宗を解禁した。信玄は一向宗の布教解禁を交換条件として、輝虎の後方撹乱のため本願寺顕如に加賀・越中両国の門徒に越後を攻撃するよう依頼したのだ。北条領国における一向宗解禁は、善福寺(麻布)を通じて本願寺に知らされた。本願寺坊官下妻頼充が北条宗哲に宛てた書状には、北条領国における一向宗の再興を喜び、氏康との約束は疎遠ない旨、書き送っている。その後も北条氏と本願寺の友好関係は続いた。
(松原神社)
14c小田原宿が成立したとき、松原神社(本町)は、宿の鎮守として崇敬を集めたと思われる。北条氏も小田原を本拠として領国支配を進めていくにあたり、同社を崇敬した。天文6年(1537)氏綱は、富士川伊東の地を制圧したことを謝して、同8年相模西郡のうち伊羅窪分(市内とみられるも比定地未詳)20貫文を同社に寄進し、天文11年には修理料として今井と加茂宮の河原新田10貫文を寄進している。
また元亀3年(1572)氏政は虎朱印状で松原神社の「社中掃除法」を定めている。毎月小田原城惣曲輪の掃除の日「欄干橋より船方村まで宿中の者、人足百余これを出し、掃除普請致すべし」としている。人夫の動員数から宿の清掃も含むと見られ、同じように地域ごとに区切って、町の住民を動員して清掃を行わせたと考えられる。また、「右先観に任せ」とあるので、このような掃除法は以前から行われていたことが窺われる。天文20年(1551)小田原を訪れた南禅寺僧東嶺智旺は、「町の小路数万間、地一塵無し」と記している。
松原神社別当に玉瀧坊(本山派京都聖護院に属する修験)がいる。元亀2年(1571)信玄との深沢城の攻防で破れた氏政は、越相同盟を結んでいた輝虎に越山を求めたが、このときの使者が玉瀧坊で(北条氏政書状)、他にもたびたび北条氏の使者に起用されている。北条氏にとって各国の地理に詳しい山伏はこうした役割に最適だった。天正16年八王子城主北条氏照は、秀吉との戦いを控え、修験者たちに命令があれば小田原の下知に従い走り廻るよう命じ、従わないものは聖護院に申し上げて死罪に処するとしている。合戦の際には修験者集団組織を利用しようとしているのだ。日常の修験者はといえば、かつて諸霊山を遊行することが多かった修験者は、室町中期頃から郷村社会に定着し、檀家の望みにより護摩祈祷し、護符を配布し、七五三祓い(シメハライ)と称して七五三を張り渡してお祓いする神明奉仕などの年行事職を行っていた。玉瀧坊はこうした修験の統率者として重きをなしていた。