14.稲葉氏の治世

稲葉正勝の小田原入封

 寛永9年(1632)11月、幕府年寄稲葉丹後守正勝が加増、小田原転封が決まった。正勝の父正成は元小早川秀秋の家老で、西軍からの寝返りを成功させた人物だ。後幕臣となり、越後高田藩主松平忠昌の付家老などを経て、寛永4年下野真岡2万石領主となる。また、正勝の母はお福といい、家光の乳母となった。のちの春日局(カスガノツボネ)だ。お福は明智光秀の重臣斉藤利光の末娘で、正成の後妻となった。秀忠の正室お江与の方(崇源院)が寛永3年亡くなった後、家光の全幅の信頼を得ていたお福が代わって大奥の実権を握った。家光の母お江与が弟忠長を溺愛していたとき、お福は単身駿府の家康の下に乗り込んで直談判し、家康が慶長16年江戸城に来て、長男家光こそ「君徳、おのずから備わり、じきに天下を保つの器」と太鼓判を押したという(春日局由緒)。

 正勝はお福が家光の乳母として採用された直後の慶長9年、弱冠8歳で家光付き小姓として召し出された。以後順調に出世して、元和9年家光が将軍宣下を受けた年、供奉同行していた正勝(27歳)は、従五位下丹後守となり、併せて年寄に抜擢された。これは家光による最初の人事で、正勝はこのとき5千石の知行だったが、翌寛永元年5千石を加えられ、大名に列している(常陸国新治郡柿岡藩)。翌寛永2年上野国佐野に1万石加増、同5年父正成の遺領2万石を加え、真岡藩4万石領主となる。寛永9年大御所秀忠の死去後、年寄衆の中で正勝の地位がにわかに上昇し始めた。豊前小倉藩主細川忠利書状案に「丹後殿、出頭花がふり申し候由、これ第一の事」と見える。

 寛永9年家光は二つの改易を実行した。その一つが九州の外様大藩、肥後熊本54万石加藤忠広の領地没収だ。参府途中の忠広は、東海道品川で差し止められた上、6月突然改易を命じられた。改易の理由は明言されておらず、豊臣系大名の一掃をねらった家光の政策といわれる。忠広は出羽庄内藩に預けられ、このとき熊本城受取りの上使の一員(上使軍の中核)として稲葉正勝が派遣された。同じ上使の一員に豊後日田藩主石川忠総(大久保忠隣二男)がおり、熊本に出発する前に春日局が忠総のもとを訪れ、2000両ほどの金子を進上し、若年の正勝の面倒を頼んだという。上使の成功に正勝の昇進がかかっており、この功績によって家光は正勝を取り立てる予定だったといわれている。加藤家改易後、豊前小倉藩主細川忠利が、小倉藩37万石から肥後熊本54万石に、大加増されて転封された。忠利は細川忠興と明智光秀の娘ガラシャとの間の三男、春日局の父斉藤利光の母は光秀の妹で、細川家と稲葉家とは姻戚関係にあった。

 同年10月家光は、もう一つの改易、弟忠長のそれを実行した。忠長は前年5月駿府から甲府に蟄居させらていたが、上野高崎藩主安藤家に預けられ、幽閉されることになった。これにより駿河・遠江・甲斐三カ国にまたがる50万石の忠長の所領は没収、幕領に編入された。これまで、忠長改易の目的は、まだ跡取りの生まれていない家光が政敵を排除するためだったと言われてきた。しかし、甲府蟄居を前に、常軌を逸した忠長の言動を家光が再三意見しており、どうしても聞き入れなかったため、秀忠の同意を得て蟄居が命じられたという。忠長改易処分が完了した直後の11月、正勝の大加増と小田原城拝領が発表された。すなわち、柿岡・佐野・真岡の旧領4万石はそのままに、新たに小田原城付領4万5千石(足柄上・下・淘綾(ユルキ)郡)計8万5千石となった。なお、佐野領1万石は後、駿河国駿東郡内(元駿府藩)に移される。

 忠長改易の前から、駿府藩廃絶に伴う江戸防衛体制が、改めて検討され始めたようだ。忠長の異常な行状が江戸に伝えられた寛永8年2月、幕府は目付けを派遣して、箱根・碓氷・越後口・関東口など関東を取り巻く御要害地の調査を実施した。同4月には目付たちがそれぞれの調査地の絵図を提出、5月に忠長が甲府に蟄居させられた。9月には関東の主要関所に対して、手負い者や女性の通行取締り、関所破りが発生した際の関所番、関所付き村々の責任について覚書が布達され、また脇往還を管理する代官に対しても同内容の法令が発令された。このとき、御要害地は御留め山として、人の立ち入りが禁止された。また、各関所周辺の関所掛り村々には、日頃の関所破り探索が義務付けられることになった。

 正勝が小田原城を拝領した際、併せて「箱根の関は東海道第一の要害なればとて、正勝に警衛仰せ付け」ている(大猷院殿御実記)。この場合の箱根の関とは、箱根・根府川・矢倉沢・仙石原・川村(山北町)の五関所(後谷ケを加え六関所)を意味する。その管理を小田原藩に任せたわけで、小田原藩が防衛上重要な地位にあったことを示すものだ。関所役人のうち、番士・足軽・中間(チュウゲン)は小田原藩家中を交代派遣し、各関所に常住する定番人、人見女(箱根・根府川関所に配置された)には小田原藩から扶持が支給された。

 また小田原城には御城米、公儀城詰銭、御城付き武具が置かれた。これは小田原城が公儀の城として位置付けられていたからだ。御城米は戦時の兵糧米、凶作時の備蓄用として寛永10年2月以降、全国の譜代大名居城・幕府代官所に保管するよう制度化され、すべて幕府御蔵奉行の支配下に置かれた。御城米は毎年詰め替える必要があった。また、幕府が平時に米価調整の目的で利用することもあった。御城米を売却・詰め替えを任されていた小田原藩では、家中へ支払う扶持米が不足したときに、御城米を借用することもあった。小田原城の御城米は御城米曲輪にあり、瓦蔵五棟に御城米・塩が備蓄された。その量は当初5千石、貞享3年の段階では8千石になっている。公儀城詰銭は寛永通宝の鋳造が本格的に始まる寛永14年以降のことと考えられ、江戸銭座から直接補充された。貯蔵場所は二の丸御土蔵に常時5〜6千貫文が備蓄されたが、天和9年(1681)すべて江戸に回送され、その使命を終了した。御城付き武具はほとんど稲葉氏の時代になって備えられたもので、具足1000領余・鉄砲1300挺余・槍900本等が天守閣・各櫓・土蔵などに常備された。

 小田原城拝領直後、正勝は小田原城の縄張りをやり直している。しかし、その直後に相模・伊豆地方を大地震が襲った。小田原はもっとも被害が大きく、城下の町家は壊滅的被害を受け、家屋の下敷きとなった死者は数えきれず、武家屋敷も倒壊した家屋の方が多く、家中の者(家族を含む)の死者も237人に上った。小田原城は甚大な被害をこうむり、東海道は箱根山中の土砂崩れなどで寸断された。小田原城の修築は幕府が公費をもって行うこととなった。それは、翌年家光の上洛が計画されており、将軍の小田原城宿泊が予定されていたため、幕府の肝煎りで突貫工事が始まった。幕府から普請奉行として酒井忠知、石垣奉行として黒川盛至が派遣され、大工頭として木原杢、城内障壁狩野探幽らが担当した。天守閣・本丸御殿・多門櫓・石垣等の修築4万5千両が公費で負担、二の丸屋形・御花畑茶屋(浜御殿)分1万8千両が小田原藩負担となった。なお、御花畑とは早川口近くの、かつて北条氏時代松田氏の屋敷跡に設けられた庭園で、藩主別邸であるとともに諸大名の接待に利用された。

 この小田原城修築に関して2年後の寛永12年不正事件が発覚する。石垣修築の際、その坪数にごまかしがあったということで、石垣普請の責任者黒川盛至は改易、高野山に追放された。石垣石調達に関わった大阪の町人米屋弥右衛門、江戸の石屋甚兵衛親子などが処分された。小田原藩家中の者も5名が召し放ちとなった(後帰参が許された)。

 城下町の復興も、一部町割りの変更等を加え、急ピッチで進められた。それまで海岸線から鈎型にクランクして古新宿町に入っていた江戸口(山王口ともいう)を北側に移し、山王蓮池を渡って新設の新宿町に入る形に変更した。三の丸の南側にあった大手門を東側に移し、新宿町から大手前に「御成道」を設けた。御成道沿いになった唐人町を移動させ、武家屋敷地とした。松原明神の社地が縮小された。板橋口(上方口ともいう)付近に、実相寺(光円寺)・大久寺・紹太寺・本成寺(本應寺)・玉伝寺が移転または開創された。ここにはそれより前から伝昌寺(伝肇寺)があって、板橋口を挟んで南北に寺社地が隙間なく連なることとなった。明らかに防衛上の整備事業と思われる。城下北部・東部には北条氏時代から寺町があり、早川口から千度小路にの海岸沿いにも寺院が集中している。こうして四方を寺院が囲むことになった。

 正勝は小田原拝領当初から健康状態が思わしくなかった。病状が悪化し、寛永11年正月38歳で江戸藩邸で死去、駒込の養源寺に葬られた。その死に際し、家老の一人塚田杢助が殉死し、正勝の隣に葬られた。小田原紹太寺の稲葉家墓所にも供養塔が建てられている。


稲葉正則

 正則は正勝の次男(長男は早世)として、元和9年(1623)として生まれ、幼名を鶴千代といった。寛永3年母親が病没したため、4歳の正則は祖母春日局のもとに引き取られ、7歳まで大奥で養育される。正勝死去のとき正則は12歳だった。正勝死去の翌日、正則の跡式相続・城地所領安堵が認められた。2月3日には、春日局の屋敷に上使が改めて派遣され、「丹後守(正勝)相果て不便に思し召され候、跡式相違なく鶴千代に下されべく候、春日局気遣い致すべしと思し召し仰せ出され候」と、家光が配慮したものだ。上使には大政参与井伊直孝、老中土井利勝・酒井忠勝の3名で当時の幕政をつかさどる首脳陣、またその席には正則と堀田正盛が同席している。正盛は寛永10年3月から家光の近習出頭人の中から松平信綱・阿部忠秋・三浦正次・太田資宗・阿部重次と共に旗本層の指揮・監督を行う「六人衆(後の若年寄)」の一人に取り立てられており、正盛の母親は稲葉正成と先妻との間い生まれた娘で、稲葉家と姻戚関係にあったため、この席に立ち会った。

 3月正則は江戸城西丸下に屋敷地を賜ると共に、同月家老4名を同道し、将軍家光にお目見え、上意を賜った。「鶴千代幼少に候、その方ども心を合わせ大切に守り立てべく候、主人幼少に候えば、互いに威を争い候こと古来多き儀に候、上様御後見成られ候間、越度(オチド)これあるにおいては急度(キット)仰せ付けられべく候」として将軍自身が後見をする旨家老たちに申し渡した。実際の後見人には、春日局実兄斉藤利宗(68歳)がつき、幕臣(5千石知行)のまま小田原に引っ越し、正則が元服する寛永15年まで二の丸内にあった。

 また、直後正則は生まれて初めて小田原入りする。小田原入りは正則の初入部の意味合いと共に、近く予定されていた家光上洛に際し小田原城主として饗応するための準備という側面も有していた。家光は供奉軍勢30万余りを引き連れ、6月20日江戸を出発、22日小田原に到着した。「泰応公年譜」によれば、酒匂川には将軍一行の通行のため、伊豆浦の漁村より徴発された船を並べて、船橋が架けられたという。家光は新設なった将軍専用の御成道を通って小田原城に入り、本丸(これも将軍専用)御殿に入った。ここで饗応を受けた後、天守にのぼり、飾ってある武具を上覧した。続いて本丸七本松のもとにしつらえた御茶屋にて、御茶が献上された。家光は小田原に二泊している。それは、箱根の御殿が22日火災で焼失してしまったためだ。箱根は小田原藩の管轄なので、突貫工事で仮御殿を設ける間、正則は二の丸館を案内し、城下の漁師による鮑取りの上覧、御花畑(浜御殿)の御茶屋にて酒宴などを催した。24日一行は京へ向け出発した。なお、将軍の上洛はこの後途絶え、元禄16年の地震で本丸御殿が倒壊したあと、再建されることはなかった。

 寛永11年12月正則は従五位下に叙任、美濃守を称し、名を正則と名乗った。翌12年12月毛利秀元六女万菊姫を正室に迎えた。秀元は長門国長府藩5万石の大名で、宗家長州藩の国務も担当し、古田織部の茶道をはじめ数奇の道にも通じて家光の御噺衆の一人となった、家光の文化的ブレーンだ。また、同じ年正則は父母の菩提を弔うため、城下山角氏屋敷跡に長興山紹太寺を建立した。

 寛永15年正則は元服、これを機会に斉藤利宗も後見の任を解かれ、江戸に呼び戻された。寛永18年家光に世継ぎの竹千代(後の家綱)が誕生、春日局の配慮で正則も竹千代の守り役に加えられた。しかし、絶大な権力をもった局も寛永20年死去、湯島麟祥院に葬られた。家光の上意により、法事と年忌は稲葉家と堀田家で執り行うよう命じられた。堀田正盛三男正俊は局が養子としており、局の采地三千石を相続した。「稲葉日記」によれば局の死の直前、上使として酒井忠勝・松平信綱が稲葉邸を訪れ、正則の妹お清を酒井忠能に嫁がせ、正則の長女お万(当時3歳)を将来堀田正俊と縁組させるようにという上意を伝えた。春日局の要請を受けたか、局の後顧の憂いを取り除くべく家光自身が判断したかのことらしい。こうした配慮を受け、正則は以後局の月命日には麟祥院か小田原紹太寺(父母の菩提寺と共に局の供養塔がある)への参詣を欠かさなかった。

 年を経て明暦3年(1657)正則は、奏者番・京都所司代などを経ずに、いきなり35歳で老中となり、その年のうちに従四位下に叙任された。翌万治元年から評定所に出座するようになる。このときの幕閣メンバーは松平信綱・阿部忠秋・酒井忠清がおり、大政参与として保科正之がいた。酒井雅楽頭忠清は一番若年だが、「連署加判の上首たるべき」として別格待遇で、将来大老となるべきことが約束されていた。忠清以外の老中が職を退いた後は、正則は幕閣No2として存在することになる。

 正則は延宝8年(1680)正月大政参与となり、1万5千石を加増され合計11万石となる。同年5月将軍家綱死去、直前に堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とした。新将軍となった綱吉は大老酒井忠清を罷免、この時点で正則は幕閣トップとなる。

 正則は天和元年(1681)12月幕閣を退き、同3年家督を正通に譲り隠居する。その3日後、将軍擁立に功があった堀田正俊が大老となった。小田原藩では家老の田辺権太夫も翌年には家老職を息子に譲った。田辺権太夫は「永代日記」の編纂を仰せつかり、越後高田に転封となった貞享3年(1686)以降に編纂に着手、元禄元年(1688)に完成したらしい。永代日記は祐筆が書き留めた藩主正則の日記「御自分日記」をもとに、寛永18年から天和3年までの43年間を71冊にまとめたもので、その2/3は現在散逸し、御自分日記など一部残存するもの合わせて「稲葉日記」と総称され、藩主の行動のみならず、小田原領内・小田原藩家中のことなども記録した貴重な資料となっている。

 正則は元禄9年(1696)江戸で死去(享年74歳)、引導役は鉄牛、遺言により遺骸は入生田紹太寺に葬られた。

正則の姻戚関係

 正則の妹お清が嫁いだ酒井忠能は、4代将軍家綱政権下で下馬将軍と呼ばれ幕政の実権を握った酒井雅楽頭忠清の弟で奏者番をつとめた大名(日向守、信濃小諸藩3万石のち駿河田中藩4万石)だ。しかし、忠清失脚・死去後、天和元年(1681)忠能も改易される。これをきっかけに忠能との間に子が授からなかったお清は、離別しないまま稲葉家へ戻ることになった。お清は小田原城下揚土(小田原駅付近)に屋敷を建てて引き移り、日向守様奥様として晩年をここで過ごした。なお、小田原駅付近に「日向屋敷跡」の旧地名が残り、大久保忠隣の妻妙賢院の閉居した屋敷跡とされているが、妙賢院が住居したのは谷津で、また天和2年以前に日向屋敷と呼ばれたという記録も見受けられない。おそらく稲葉氏以来の来歴が、初期大久保時代の由緒に取って代わって地名伝承化したものだろうとのことだ。

 堀田正俊は明暦2年(1656)、予定通り正則長女お万を正室に迎えた。これより以前慶安4年(1651)堀田正俊の父正盛は家光に殉死、このとき正則は急ぎ別れの挨拶に赴き、家老田辺権大夫を屋敷に残し葬儀全般が済むまで留めている。正盛の遺領は上野介正信が相続したが、正俊は1万石を分知され、春日局遺領と合わせ1万3千石の大名となり、備中守に叙任された。ところが兄正信は幕政を批判し、無断で居城佐倉へ帰国したため改易処分となる。一方、正俊は正則の後見を受けて奏者番となり、上野安中藩2万石の藩主となる。後若年寄・老中と順調に出世、2万石を加増され、延宝8年(1680)家綱の死去にあたり、大老酒井忠清と対立して家綱の実弟綱吉を推し、綱吉が5代将軍に就任すると大手門前の忠清邸を与えられ、天和元年(1681)12月忠清に代わって大老に任ぜられた。正則との関係は密接で、正俊が急速な昇進をし藩財政の整備が追いつかないとき、たびたび正則に借金を願い出て、正則はこれに応じるなどしている。ところが皮肉にも、貞享元年(1684)正則の従兄弟稲葉正休に殿中で刺殺された。

 正則の嫡子正通は保科正之(徳川秀忠末子で会津23万石藩主、大政参与)の娘宮姫と縁組みした。宮姫は一女お亀を設けたのち、産後の肥立ちが悪く20歳という若さで死没するが、将軍家綱からの上意で、お亀は伊予松山藩主松平定直に嫁した。

正則の人脈

 正則の人脈は京都呉服商(糸割符仲間に属する彼らは呉服商だけでなく、17c中頃まで金融を牛耳っていた)、長崎町年寄(糸割符仲間として対外貿易の重要な担い手だった)、新興商人の河村瑞賢、儒学者林羅山、吉川神道の創始者吉川惟足、臨済宗の僧侶で長興山紹太寺住持鉄牛、絵師可能探幽、桑原検校、茶人毛利秀元・小堀遠州などなど、数多い。

 河村瑞賢は長興山紹太寺に見事な銅蓮の手水鉢(噴水)を寄付したのが、正則に取り入るきっかけだったらしい(翁草)。瑞賢が幕府の命令で東廻り・西廻り航路を開発したこと、摂津・河内の河川改修を担当したのは、正則との密接な関係によるものだった。

 正則は長崎における歴代オランダ商館長から外国奉行(*)と呼ばれ、幕閣老中の中で対外関係を担当する老中として認識されていた。そうしたことから長崎町年寄との関係も密接だった。正則は西洋文化の導入にも積極的で、舶来品の調達や、商館長の江戸参府に随行する医員と小田原藩医との交流を促すなどしている。

*オランダにおける江戸時代の日本史料をもとに当時の日蘭関係を調べているクライン女史によれば、当時の商館長日記に稲葉美濃守(正則)が頻出し、幕閣の中でも正則を外国奉行と認識していたことが判明してきている。そういう役職は存在しないので、外交担当老中を意味していたと見られる。商館長は薬を安い値段で正則に提供したり、参府の度にさまざまなプレゼントをして、便宜を正則に依頼していたようだ。

 林羅山は正則という実名を考えてくれた人で、正則の青年期の思想形成に大きな影響を与えた。また吉川惟足の幕府神道方召し抱えには、正則が関与していたらしいこと、みずからも惟足に教えを請い、毎年金20両を都合している。

 正則は茶道に熱心で、また茶は最上級の贈答品だったため、上林竹庵など宇治茶師から直接茶を仕入れていた。京都の塗師五十嵐太兵衛や刀剣製作の本阿弥庄兵衛などの職人でやはり茶仲間には、京都と江戸を往復するに際して茶器の購入を頼んでいる。茶人との交流も幅広く、毛利秀元・小堀遠州・五十嵐宗林など数多い。

 幕府御用絵師狩野探幽には正則はたびたび絵を所望しており、探幽は正則の屋敷での茶会に招かれることも多かった。また、正則は当道と呼ばれた盲人社会の庇護者でもあって、桑原検校などを屋敷に招き平家物語に耳を傾け、彼らの弟子が匂当になる時には、金銭的な援助を惜しまなかった。

 鉄牛は臨済正宗(黄檗宗)の布教に心血を注いだ僧侶で、その一番の檀越(ダンオツ、パトロン)が正則だった。黄檗禅とは、当時明国から黄檗禅の名僧隠元禅師が招かれ、京都萬福寺を本山として開基した。正則は禅師の教えを受け継ぐ日本人僧慧覚(エカク、後の鉄牛)の紹太寺への入寺を、手を回して実現した(万治2年、1659)。しかし、鉄牛は江戸近辺に黄檗寺院を建立したいと考えていたと思われ、紹太寺住持の座を弟子に譲る準備を始めた。このため、正則はこれを思い止まらせるべく、交換条件として猫の額程度だった山角町紹太寺を入生田村牛臥山に移すという開創事業に着手する。
 紹太寺はもともと寛永12年(1635)、正則が父母の菩提を弔うため、山角町に建立された臨済宗妙心寺派の寺院だった。寺領として飯泉村新田100石が寄進され、大久保氏時代にも紹太寺新田として幕末まで維持された。
 同寺の一大伽藍が整ったのは寛文12年(1672)頃という。ドイツ人ケンペルは、オランダ商館長に随伴し、東海道沿いの入生田村を通過する道すがら「四角の石を敷きつめた所に紹太寺という立派な寺がある。この寺の一方の側にみごとな噴水があり・・」と書いている(江戸参府旅行日記、元禄4年3月)。みごとな噴水とは河村瑞賢の寄進。
 なお、鉄牛は椿の海の干拓(椿新田)に関与している。正則へ干拓の口利きを頼まれたためだが、その後椿新田内に鉄牛による開削寺院を幾つか建立している。
 紹太寺はその後弘化4年(1847)と安政年間の火災で、山門を残し大伽藍が消失、さらに明治以降は寺領も取り上げられた上、寺地も収公されてしまった。

小田原藩の御用

 小田原藩は箱根・根府川・矢倉沢・仙石原・川村の5関所(のち谷峨村を合わせ6関所)の御番(管理・警衛)を担当した。つまり、小田原藩主になるということは、江戸の西の押えを任されるという軍事的な意味があったわけだ。関所管理の重要性は、正則が小田原に帰城するたび、各関所を視察して廻ったことからも伺える。

 各関所には物頭・番士(家中番方の藩士が交代で勤める)の他、定番・足軽・中間がそれぞれ一定人数ずつ詰めることになっていた。定番は関所に常勤し、世襲で関所運営の実務にあたった。このため、関所運営に精通した定番は、のち大久保氏が再入封した際、稲葉氏からもらい受ける形で召し抱えた。

 関所のもっとも重要な任務は「入り鉄砲」と「出女」の取り締まりだ。つまり、関所を通過する鉄砲・槍の数をチェックし、規定以上の武器類を通過させないこと、女性特に武家女性の上方への通行を取り締まることだ。箱根・根府川両関所には人見女(定番の妻や近隣の百姓女房が勤めた)が置かれ、武家女性は髪の中から着物の下まで調べられた。

 小田原藩にはまた御湯樽御用というものが課された。温泉の湯を御湯樽に詰めて江戸まで運び、将軍に献上する。これを「汲み湯」と称し、箱根七湯を領内に有する小田原藩にとって重要な御用となった。家光代の正保元年(1644)以降、木賀・塔ノ沢温泉などから御湯樽を献上した。献上湯は、幕府老中より御湯樽御用手形が10枚単位で小田原藩に発給される。七湯から小田原までは、御湯樽一樽につき領内から徴発した百姓人足4人でかついで運んだが、小田原からは手形1枚につき1荷(御湯樽20樽ほど)、1荷につき奉行(宰領)として小田原藩士1名と伴の中間が輸送の任にあたり、手形20枚ならば20日間毎日、馬の背に御湯樽を積んで江戸に運んだ。

 小田原藩の御用には、もう一つ箱根権現の祈祷札を将軍家に届ける御用があった。箱根権現は伊豆山権現とともに、源頼朝以来将軍家が戦勝祈願をする祈祷所で、毎年正月・5月・9月に小田原藩が将軍・世継ぎの君に届けた。定例の祈祷の他、将軍が疱瘡に羅病したときも、箱根権現の神前で護摩が執行され、祈祷札を根生院を通じて将軍に献上した。

 また、小田原領内では風祭・根府川・岩・真鶴などで良質の石材を産出した。そのため、その石材は江戸城の構築に際し、海上輸送しやすい点から多用された。それ以後、石材は江戸城のみならず、寛永寺や増上寺でも用いられたため、献上役として小田原藩に頻繁に賦課された。

稲葉氏の検地

 正則は藩財政の基盤を確保すべく、寛永17・18年(1640・41)城付領の足柄上・下両郡の村むらに対し、検地を実施した。まず、検地実施前に城付領は酒匂川を基軸として、東・中・西の三筋に分けられた。この検地は小田原では地詰(ジヅメ)検地と呼ばれた(寛永地詰検地)。地詰とは他地方では地押(ジオシ)とも称し、田畑の位付け、石盛・村高を変更せずに、反別(面積)のみを測量し直すことをいう。ただし、この検地は足柄上・下郡の約1/3の村にしか実施されなかった。

 この結果、金井島村では天正・慶長期に比べ、約5割田地面積を拡大しており、新田開発が順調に進んだことを伺わせる。同村ではまた、北条旧臣ら所持反別上位の農民が経営規模縮小や没落を余儀なくされ、経営規模の大きな農民に隷属していた門(カド)・被官(ヒカン)・脇者(ワキモノ)と呼ばれた農民たちが、自立してきたことも伺わせる傾向がある。これと同じ傾向は柳川村(東筋山間部、秦野市)でも見られ、門・被官が実質耕作者として現れ、「○○分」という肩書きで検地帳に記されている。いわゆる分付百姓と呼ばれる。小百姓の自立や増加・定着状況を把握しようとしたのが寛永地詰検地といってよい。

 その後、御厨領(ミクリヤ、駿河国駿東郡)にも検地が実施された。こちらは「地詰帳」でなくすべて「検地帳」となっており、全村に対して実施された。御厨領76か村(1万3千石)を実施するのに、正保4年(1647)から明暦3年(1657)まで足掛け10年を要している。

   城付領では寛永地詰検地を契機として年貢徴収方法が大きく変化する。すなわち、それまでの厘取り制に替えて反取り制(畝引検見制)を全面的に採用することとなった。畝引検見制は関東では幕府領・藩領を問わず広く採用されており、災害や不作のため年貢納入に支障があるとき、村側からの要求に応じて実施される。認められれば「検見引」分として、反別(畝)に換算して控除されるので、畝引検見と呼ばれるわけだ。検見引は基本的に当該年のみ有効で、田畑の形状変更が継続している場合は、毎年同じ手続きを必要とした。

 続いて万治元年・同2年総検地が行われた(万治の総検地、1658・9)。総検地の目的は、隠田を残さず、すべての耕作地を検地で把握しようとしたこと、田畑の位付け(等級)の変更を行ったこと、だ。

 万治総検地にからみ、義民下田隼人の伝承が伝わっている。万治3年は全国的に大風雨の当たり年だった。中でも8月20日の大風雨は酒匂川流域に大きな爪跡を残した。岩流瀬(ガラセ)の土手が決壊、酒匂川右岸の村々が被害にあったと思われる。そうした中で小田原藩は、大災害年であるにもかかわらず、総検地の結果を受けた(従って上昇した)新しい年貢高を農民に課してきた。

 関本村の村役人下田隼人は、農民を代表して年貢の減免を願い出、一部減免を勝ち取るが、処刑された。この時期に特徴的な代表越訴型の農民運動であった。伝承は次のように伝える。いわく、万治検地後小田原藩は年貢米の他、先例のない麦祖の徴収を村むらに通達したため、足柄上・下両郡の農民はすぐさま反対の声をあげた。代々関本村名主を勤める下田隼人は、農民の怒りを静める一方、藩当局に対して麦祖撤回を嘆願したが、再三の嘆願も聞き入れられず、隼人は領内巡検に出る藩主の道先に籠訴を決行した。一命をかけた訴願により、麦祖は撤回されたが、捕らわれた隼人は打ち首に処せられ、下田家は闕所となった。後日、雨坪村弘行寺住職の手により「観理日円」と刻んだ石碑が残されたという。

 ちなみに、万治検地帳は藩主が大久保氏に代わってからも、江戸時代を通じて基礎土地台帳として通用した。

 小田原藩が総検地を実施して年貢の増収を図ろうとしたのは、この時期藩財政が極度に逼迫していたからだ。譜代大名としての幕府軍役の遂行(日光社参への供奉、江戸城御手伝い普請など)、軍役を勤めるための家臣団の増強(100石取以上の家臣の増員)、江戸屋敷の普請・作事(正則2男・3男・4男男子の独立や嫡子正通の婚礼関係)、紹太寺の入生田山への移転・建造、公儀の城としての小田原城の整備など財政支出要因には事欠かなかった。


稲葉正通

 正通は正則が幕閣を辞任する直前の天和元年4月、奏者番兼寺社奉行となり、同年11月京都所司代、3万石を拝領すると共に、従四位下・侍従に叙任された。同年12月正則が辞任、正通の家督相続、二男以下への分知が認められた。正通は小田原藩領10万2千石(分知の関係で)を相続、先に別知行分として拝領していた3万石を返上した。正則の子は多く、二男〜五男がこの時点までに旗本となり、七男は養子先土井家を継ぎ西尾2万3千石の大名となっていた。また、後8男・11男も旗本となる。

 さて大老堀田正俊は貞享元年(1684)、殿中で若年寄稲葉正休に刺殺され、その場で正休もかけつけた老中らに切り殺された。この事件の背後には畿内治水事業の請負をめぐる、正俊と正休の確執があったという。稲葉家本家の正則・正通親子も1ヶ月余りの遠慮処分となった。この事件が重大なのは、これを契機に老中らの執務室が遠ざけられ、側用人が政治を左右するようになったことだ。

 翌同2年9月、稲葉正通は京都所司代を解任され(理由は不明)、同年12月小田原から越後高田への転封が申し渡された。所替え費用として幕府から1万両の拝借金が与えられた。翌3年正月老中大久保忠朝の小田原入封が発表された。越後高田への転封を配流同然と捉えたり、稲葉正休事件との関連を指摘するのは正しくないとのことだ。特別に1万両の拝借金を与えられたり、江戸城で「御譜代席・四位の上座」が保障され、越後高田は徳川家門が在城した由緒ある地であること、などをその理由とする。正則もこの転封を「結構なる地御預かり、かたじけなき次第に候」(貞享3年田辺内蔵助宛稲葉正則書状)としている。なお、正通はその後元禄14年(1701)、62歳で老中に昇進、下総佐倉へ転封となる。