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1.小田原の遺跡

 小田原は南を相模湾に面し、三方を箱根外輪山・丹沢山地・大磯丘陵の山々に囲まれた足柄平野にある。足柄平野は中央に暴れ川たる酒匂川が流れ、肥沃な平野だ。

 現在小田原市内には274箇所の遺跡が知られる(平成22年現在)。遺跡を時代ごとに見れば次のようになる。

旧石器時代:谷津山上(ヤマノカミ)遺跡(市内谷津)、愛宕山(アタゴヤマ)遺跡(市内城山)
縄文時代:箱根外輪山の山裾、大磯丘陵などの周辺台地に散在
弥生時代:諏訪の原丘陵の縁辺部とその周辺(市内久野・府川・北ノ窪・荻窪)
     千代台地とその周辺
     大磯丘陵の周辺(市内小竹・小船)

*考古学の方法

 日本の考古学はE・モース(米)によって開始された。モースは大森貝塚を発見、論文で縄文(なわめ)という言葉を使った。浜田耕作「通論考古学」によれば、「考古学は過去人類の物質的遺物(に拠り人類の過去)を研究するの学なり」と定義される。遺物には住居跡や墓などの不動産(遺構)と土器など人が作り出した動産(遺物)の2種類をいう。また、集落跡など遺構と遺物の両者を含む、人が活動した一定範囲の痕跡を「遺跡」という。

 考古学の方法は、遺構や遺物の年代や新旧の関係を探ることで、「層位学」と「形式学」という二つの方法がある。層位学とは、地質学の堆積の順番を応用した方法で、下の層から発見される遺物・遺構のほうが、上の層に含まれるものより年代が古いという単純な理屈にもとづくものだ。形式学は、遺物の流行(特徴)によって変化の順番を決める。これは技術の変化(進化)や他の地域からの影響によって変化する。形式学と層位学を組み合わせることによって、遺構・遺物の新旧を決定することになる。また、こうして決められた年代のことを「相対年代」という。これに対して文献史学からする正確な年代を「絶対年代」という。

 加えて近年では、放射性同位元素C14(カーボンフォーティーン)などの化学物質の性質を利用した方法と樹木の年輪パターンを比較検討して絶対年代を調べる方法が利用される。C14は自然界に存在し、動植物がこれを取り入れ死ぬと放出することを利用し、半減期を計算して測定する。年輪パターンは日本で発明された。年輪は気候が寒いと密、暖かいと疎になることを利用、新旧樹木を対照的に調べることで、1年単位で年代がわかる。これを利用すると弥生時代までさかのぼって年代がわかるようになった。

 考古学の調査を一般に発掘調査という。最初に遺跡があるかないかを調べるため、地表面に落ちている遺物の採集を行う。これを「分布調査」という。その後試し堀りによる調査(試掘調査)を行う。
 遺跡は一度掘り返されると二度と再調査ができない。学術的な目的や開発などにより、やむを得ず遺跡が破壊されてしまう場合には、文化財保護法による一定の手続きを経て、適切な方法で発掘調査を行う。調査の結果は詳細に記録され、保存・公開されることになる。

旧石器時代(先土器時代)

 旧石器時代は最終氷河期(ウルム氷期又は第4氷期、7〜1万年前)で、現在より気温が最大5〜7°Cほど低く、海面は80〜140mほど低かったと推定されている。火山の噴火によって、関東ローム層(赤土)と呼ばれる火山灰が降り積もった。

 こうした環境の下、人々は狩猟と採集によって食料を得ていた。石を打ち欠いて作る打製石器を道具として使用したが、未だ土器を作ることは知らず、定住生活も営まれていなかった。

 小田原周辺では、英国の博物学者マンロー(1863〜1942)が、早川及び酒匂川付近からこの時代の石器に類似すると思われる資料を何点か発見し、日本初の旧石器時代の遺物として明治41年発表した。

 この時代の遺跡としては、谷津山神(ヤマノカミ)遺跡から旧石器時代末期の礫器15、磨石(スリイシ)1、剥片77点など、市内で唯一まとまった石器群が得られている。その他、小田原城御用米曲輪西側斜面、久野一本松遺跡、愛宕山遺跡(山神遺跡が存在する谷津丘陵に派生した支脈、現裏駅)などで石器が確認されている。

縄文時代

 縄文時代は今から約1万3000年前から約2300年前までの約1万年間続いた。温暖化によって海岸線が前進した(縄文海進という)。旧石器時代同様、この時代も主に狩猟・採集によって生活が営まれたが、土器が登場したことが最大の特徴だ。

 土器の登場は生活に大きな変化をもたらした。縄文時代の土器は素焼きで耐久性が弱いものだったが、食料の煮炊きを可能にしたことで、乳幼児や老人の栄養状態が格段に向上したといわれる。

 この時代の土器はまた、おもに縄をころがしたような文様で飾られていることから縄文土器と呼ばれ、これにより縄文時代という。

 石器も旧来の打製石器に加え、磨製石器が登場する。種類も豊富になり、弓矢の矢じりである石鏃(セキゾク)、調理用具の磨石、木の伐採などに使われた磨製石器、信仰に用いられたと考えられる石棒などが用いられた。

 人々は台地上に竪穴住居をつくり、集落を形成、定住的な生活を営んだ。平野部に進出することはなかったようだ。

 貝塚も作られた。関東地方の貝塚から出土する動物相を研究した成果によれば、縄文人は狩猟活動に明確な戦略を持ち、シカとイノシシを特に狩猟の対象としたと指摘されている。

 小田原ではこの時代の遺跡は、箱根外輪山から延びる丘陵上に集中し、久野、荻窪、水之尾、早川、根府川などに存在する。特に久野一本松遺跡では70軒ほどの竪穴住居が確認されている。
 久野坂下(山神下)遺跡では、遺構は検出されなかったものの、石鏃73を含む計300点以上に及ぶ豊富な石器群が採集された。

 貝塚は唯一、羽根尾で確認されている。ここからは、縄文土器のほか、骨角製の髪飾り、釣針、漆(ウルシ)製の器、木製の櫂(カイ)、弓、獣や魚の骨などが出土し、縄文人の豊かな生活が明らかになっている。羽根尾遺跡では泥炭層で、じめじめした中で保存されていたため腐食せず、普通残らないようなものが残ったものと思われる。

弥生時代

 弥生時代は、稲作を中心とした農耕が開始された時代で、大陸の先進文化の影響を受け北九州で生まれ、日本各地に広まった。農耕社会で使われた土器を弥生土器といい、最初に発見された東京本郷の弥生町にちなんで付けられた。

 弥生時代は約2300年前〜1700年前までであったとされる。関東地方には2100年前頃に弥生文化が波及したものと推定される。

 弥生土器は煮炊き、貯蔵、祭祀など、使い方によってその形が決まっていた。また、弥生文化では鉄器・青銅器などの金属器の使用、紡織が開始されたことも大きな特徴だ。農耕を基盤とする集落が形成され、大きな集落では竪穴住居の外側に「環濠(カンゴウ)」と呼ばれる濠(ホリ)を巡らせたものや、高床(タカユカ)式の掘立柱(ホッタテバシラ)建物跡が発見されることもある。「環濠」は、物を蓄えるようになったこの時代に戦が起こるようになり(縄文時代には基本的に戦はない)、ムラを守るため必要になったものだ。また、弥生集落ではしばしば方形周溝墓(ホウケイシュウコウボ)が発見されるが、家族墓とされる(階級が生まれているので、富裕な人の墓という説も根強い)。

 小田原周辺は、弥生文化が南関東地方に波及した際の玄関口の役割を果たした地域のひとつとされ、この時代の遺跡が数多く残されている。遺跡が分布するのは、暴れ川である酒匂流域は避けられ、狩川・久野川・森戸川・中村川など水を御しやすい小河川の流域に属し、この流域に広がる低湿地帯が水田として開発されたのだろう。久野川にしても、現在のように直線的な流れではなく、大きく蛇行していたため、低湿地がそこかしこに展開していたはずだ。

 中里遺跡(弥生時代中期中葉)では46基もの方形周溝墓が確認された。出土した土器は南関東地方の須和田式土器に対応し、中里式土器という名で標識資料に設定された。粗い縄文を地文として、太い沈線で囲むX字状の文様などが描かれた壷形土器だ。(足柄平野では他に、山北町堂山遺跡(弥生時代中期前葉)出土の土器群が、堂山式土器という標識資料に設定されている。これは駿河湾東部の弥生土器の影響を強く受けた条痕文土器で、足柄北部、秦野に分布し、小田原では断片的にしか出土しない。)中里遺跡からは他に、炭化米の出土、畦畔が確認された。

 弥生時代中期後葉には遺跡数も増え、久野丘陵の坂下・多古・白山遺跡、谷津丘陵の谷津遺跡、国府津から曽我にかけての三ツ俣遺跡、羽根尾・小船地区から羽根尾堰ノ上遺跡、小船遺跡などがある。三つ俣遺跡、堰ノ上遺跡からは竪穴式住居跡が検出されている。

 弥生時代後期の遺構・遺物を出土した遺跡は、諏訪の前遺跡、永塚遺跡、千代遺跡、下曽我遺跡、中里遺跡、三つ俣遺跡、小船遺跡、北窪小原遺跡などがあり、方形周溝墓、竪穴式住居跡などの遺構が検出されている。

古墳時代

 古墳は250年頃に西日本で発生し、定型化した墳丘と副葬品を伴い、日本各地に広まった。墳丘の形式は円墳、方墳、前方後円墳などがあり、主として豪族を葬った墓だ。古墳が各地に広まったのは、畿内王権が勢力を広めていく時期と一致し、畿内王権が各地の支配者に地域の支配権と祭祀権を与えた象徴だったと考えられる。

 古墳時代の人々の生活は、基本的に弥生時代と同じような場所で集落が営まれた。竪穴住居では、煙を外に出す構造のカマドが作られるようになり、また、土器は大陸系の高度な技術(窯(カマ))によって作られた須恵器が登場する。それまでの土師器(ハジキ)は素焼きで酸素が加わるため、赤茶けて弱い。これに比べると須恵器は酸素を絶つため、灰色で硬く仕上がる。

 小田原市では諏訪の原古墳群が規模が大きい。古墳時代後期の群集墳と位置づけられる。この地方の豪族たちの墳墓と推定される。

 中でも1号古墳は特に大きく、墳丘径39m、高さ5.9mの円墳で、その周りに幅12mほどの周濠(シュウゴウ)も確認されている(ただし全周してはいないと推定されている)。県内でも伊勢原市の小金塚古墳に次ぐ規模の円墳だ。この古墳の発掘調査はされていない。

 4号古墳は径20m、高さ4mで昭和26・7年小田原市が発掘調査後復元された。1体の遺骨、直刀、鉄鏃、甕、装身具などを出土、郷土文化館に展示されている。15号古墳は昭和34年日本大学が発掘調査後、石室のみを復元、古墳の石組構造が見えるようにしてある。2号古墳は平成3年道路建設に際して調査され、復元はされていない。金銅製飾太刀を含む直刀、鉄鏃、装身具、須恵器等を出土した。

 また小田原では、横穴墓(ヨコアナボ)という斜面を掘って築いた形式の墳墓が多く作られた。数基ないし数十基が1ヶ所にまとまって作られ、古墳の横穴式石室と構造的に類似する。田島、羽根尾など大磯丘陵に集中する。

 古墳時代の集落は、小田原城近くの八幡山丘陵、千代・高田・永塚の一帯(弥生時代と重複し、竪穴住居が多数発見される)、羽根尾などで確認されている。