12.初期大久保氏の治世

徳川家康の関東移封

 家康の関東移封は小田原合戦のさなか、天正18年5月27日に秀吉と約束がなされ、6月28日には移封直後の政治的拠点を江戸とすることが決まった。7月5日北条氏直投降、翌日小田原城の接収が開始され、10日家康の小田原城入城、11日氏政・氏照らの切腹、12日氏直の高野山追放、13日秀吉の小田原城入城と共に、同日家康の関東移封が公に発表された。

 この間、家康家臣団の一部は、すでに6月以降江戸周辺の調査を行い、7月12日には小石川上水(後の神田上水)の開削に着手している。江戸は古くから北条氏の支城が存在し、天正後期には氏政が御隠居様として領域支配を行っており、城下の村に多くの人々が生活していた。また、品川湊・江戸湊には船舶・物資が集積していた。家康は側近の地方(ジカタ)巧者の意向を取入れ、特に本多正信はじめ民政に通じた家臣の進言もあって江戸を拠点とする構想を早くから固めていたと思われる。江戸を政治的拠点としたのは、秀吉の一方的な意志によったのではなく、秀吉と家康の合意によったと見られる(小田原市史)。

 家康は旧領三河・遠江・駿河・甲斐・信濃5カ国から、伊豆・相模・武蔵・上総及び上野・下総の大部分及び下野の一部240万石の領地へと移った。このとき、別に在京賄い料として近江・伊勢・駿河・遠江の内に11万石を与えられている。家康の公式の江戸入城は8月1日とされ、これを俗に「江戸御打ち入り」と称して、後に「八朔(ハッサク)」の祝賀日として幕府の重要な年中行事となった。しかし、実際には7月20日には江戸に入り、24日には奥州に出発する秀吉を見送っている。

 家康は、城下町として江戸を整備する一方、知行割を行った。知行割は榊原康政を総奉行とし、青山忠成・伊奈忠次・大久保長安・彦坂元正・長谷川長網らを中心とする代官・手代を総動員して行った。その基本方針は直轄領たる蔵入地を江戸付近に集中させ、中小知行取(旗本)をその外部、江戸から一泊の範囲、外縁部に上級家臣を配置するというものだった。ただ、蔵入地を江戸周辺にというのはあくまでも原則で、約100万石に及ぶ蔵入地は武蔵・下総・上総・相模・伊豆の順で広く南関東に分布している。また、家臣団の知行割は相模・武蔵・上総・下総の順に行われ、特に武蔵南部と相模には小知行取の給地と蔵入地が集中しており、伊豆は蔵入地が集中していた。これに対して、武蔵北部・上野・下野には3000石以上の上級家臣の知行地が比較的多く分布している。

大久保忠世

 大久保忠世は三河譜代の武将で、三河一向一揆に際して家康に離反し追放となった本多正信の帰参を助けた。元亀3年家康が三方ケ原で大敗を喫し、余りの恐怖に脱糞したとき、これを大笑いしたという逸話や、大敗後武田軍に夜襲をかけたなどの逸話がある。天正3年の長篠の戦いでは忠世と弟忠佐(タダスケ)の蝶羽(忠世)と黒餅(忠佐)の馬印が奮戦する様を、信長が遥かに望み激賞している。また同年、遠江二俣城を攻め落とした功により二俣城主となった。武田氏滅亡後の甲斐・信濃経略には忠世の果たした役割は大きく、この時期多くの武田氏旧臣が徳川氏の家臣に組み込まれた。

 天正7年家康長男信康が信長から嫌疑をかけられ、母築山殿と共に忠世の二俣城に預けられた。忠世は何としても信康をどこかに落とそうと考えていたが、忠世が浜松へ出府して留守中のとき、家康の命を受けた天方通綱・服部半蔵らが切腹をさせに二俣城に到着し、あきらめた信康は自害した。忠世は終生これを悔やみ、後文禄元年、小田原風祭村に信康供養のため万松院を建立した。

 小田原城攻略の際、家康麾下の諸将は小田原城総構の東側低湿地に散開し、家康が今井村、大久保忠世は網一式村に陣を張った。秀吉・家康が諸将の陣屋を見廻った折り、忠世の陣が立派であると秀吉がことのほか感賞し、秀吉に食事を出して饗応することになったが、忠世はもったいないことであると断ったという。このため秀吉は長束正家に命じて弁当を取り寄せ、忠世の陣で食事をとった。そして、家康に向かって忠世のことを誉めたたえ、加増は当然であると4万石とするよう命じた。さらに秀吉も別に5千石の加増を約したという。やがて陣屋を辞する際、秀吉は忠世に向かい、「今日の首尾うれしく存じ候か」と尋ねたのに対し、忠世は「中々かたじけなく存じ奉り候、只今までは御前へ楯をつき申すべき様に存じ候ひつるが、向後は御前に対し弓を引き申すべき様の心もこれなく候」と答えたという。他の史料でも、秀吉が所領高と小田原入封を命じたことを伝える。

 こうして忠世は小田原4万5千石を拝領した。また嫡子忠隣も武蔵国羽生2万石を拝領、父子で6万5千石を領有した。忠世の家臣団は主として三河・遠江出身の武士層を中心に、これに大久保一族が加わって構成されたといわれる。このため、北条氏の旧臣を家臣として抱え込むことはなかったし、家康からの御預かり人も家臣に加えることはなかった。家臣団の詳細は分からないが、家老後藤真成を中心に、天野金太夫、大久保藤右衛門などの有力家臣で構成されていたとみられる。

 北条氏の旧臣の中には、徳川氏やその一門、諸大名に仕えたものもあったが、全体からみればごく一部に限られ、大半は浪人になるか、土豪百姓として在村した。忠世の領内統治は、北条時代の領国支配を重んじ、こうした土豪百姓を村落支配層に位置づけ、その基盤の上に民政の支配組織を作り上げていった。彼らは脇百姓や家来百姓など従属農民を抱えて被官関係を維持し、村役人として指導的な地位にあって地域開発につとめたと見られる。また忠世は北条時代の有力な職人や商人を保護し、領内での活動を認めた。例えば、畳職の棟梁弥左衛門の子孫は棟梁職の世襲を命ぜられ、医薬業の外郎(宇野氏)、鋳工の棟梁山田治郎左衛門、国府津村で魚類調達を担っていた村野惣右衛門などがある。

 なお、一夜城(石垣山城)跡から天正19年銘の瓦が、昭和36年小田原市の調査によって出土した。つまり、小田原合戦後も廃城とならず、当初板葺きであったと考えられる建造物に、瓦葺等の作業がほどこされたことになる。石垣山城は秀吉の徳川氏に対する優位性を顕示するための象徴としても捉えられるが、大久保忠世に管理が任されていたと推定されている。また、新編相模国風土記稿によれば、忠世は遠州二俣から僧日英を招き寄せ、しばらく石垣山城に住まわせ、その後忠世は小田原山角町に大久寺を創建、日英を開山に迎え、自らの菩提寺とした。

 さて、小田原入封をした忠世の治政の第一は、荒廃した領内の復興だった。そのため、天正検地による村落支配、酒匂川治水と新田開発、寺院・寺社の建立や保護による宗教的権威を利用した領国支配などの方針をとっている。

 天正検地とは天正19年太閤検地に準じて行われたもので、徳川氏の領国では伊奈忠次や大久保長安により独自の仕法で行われた。忠世の小田原領内でも、代官頭彦坂元正(*)が相模国の蔵入地で実施した検地とほぼ同じ検地で行われた。確認されている検地帳や新編相模国風土記稿で推定されるものを含め計16ヶ村で検地が実施されたことが確認できる。

*家康は関東経営において、代官頭の伊奈忠次を武蔵国足立郡小室(埼玉県伊奈町)、大久保長安を武蔵国多摩郡横山(八王子市)、彦坂元正を相模国鎌倉郡岡津(横浜市)、長谷川長綱を相模国三浦郡浦賀(横須賀市)に陣屋を配置し、蔵入地の開発と地域支配を行わせた。また天正19年の時点では、小田原城内の蔵米は当初伊奈忠次によって管理されていた。すなわち、領内は家康に直属する地方(ジカタ)役人によって支配されていたわけだ。文禄元年になり、小田原城下の管轄は家康の代官から忠世の家老へと移行している(加々爪政尚「カガヅメ」から天野金太夫と大久保藤右衛門宛書状)。

 酒匂川は戦国時代は幾筋にもなって足柄平野を流れていた。忠世は小田原入封時から、その流れの1本化や酒匂堰の開削を留意していたと思われる。文禄2年斑目村大口土手の築造が開始されている。

 寺社の創建については、忠世の代に山角町大久寺が遠州二俣より招いた僧日英を開山として創建された他、茶畑町の正恩寺は三河より移転した僧信賢によって開山され、忠隣の室妙賢院の信仰が厚かった。風祭万松院は忠世が遠州より僧厳龍を招き、家康嫡男信康の供養のため建立した。伝統ある寺社に対しては、小田原合戦で荒廃した城下・在地の農民の精神的安定をもたらすため、寺領安堵や保護策を実施した。例えば塚原村長泉院に対しては安堵と寄進状が発給され、北条氏の祈願寺だったといわれる国府津村宝金剛寺には護摩堂領として22石が寄付されているなど。その他にも忠世・忠隣の時代を通じて、多くの寺社の創建、保護政策が行われている。なお箱根神社には、家康が伊豆国田方郡沢地村内2百石を社地不入の朱印状を授けている。これは家康が箱根を信仰の地域として重視したからだ。

 忠世は文禄3年(1594)小田原在城4年にして63歳で死去した。小田原城下の大久寺に葬られ、のち分骨され京都本禅寺(京都市上京区)にも埋葬されている。忠世の領内の復興の施策は忠隣によって遂行されることになる。

大久保忠隣

 忠隣は永禄6年の三河一向一揆平定後、11歳で家康の近習となった。徳川氏の関東入国に伴い、忠隣は武蔵国埼玉郡羽生城主2万石に封じられた。忠隣は常々江戸に詰め、一度も羽生に出向くことがなかった。そのため羽生城の経営を、北条時代の元羽生城主木戸忠朝の遺臣鷺坂道善(道可)に委任している。天正検地の折は、関東の検地の大半が代官頭により行われたが、羽生領も伊奈忠次によって実施された。文禄3年忠世死去により、忠隣が家督を継ぎ、自領を含め6万5千石となった。羽生城の鷺坂道可が文禄4年死去したため、城代は桑原久兵衛らによって継承された。

 忠隣は文禄2年、当時長丸といわれた秀忠の守役を命じられた。秀忠はいく度かの危機を忠隣の機転で救われている。文禄4年秀吉は石田三成・増田長盛らを聚楽第に遣わし、関白秀次を詰責した。このとき秀次は秀忠を誘い、家康の助力を得ようと陰謀を巡らしたのだが、忠隣はいち早く土井利勝らを伴として伏見の秀吉のもとに向かわせ、難を逃れた。また、慶長3年秀吉が死去した際、秀忠は家康の命により伏見を出発し江戸に向かった。これは危急の折、父子が一か所にいるのは得策ではないという配慮からだが(石田三成が家康を討とうとしたとの説がある)、このとき忠隣は自分の輿馬に秀忠を乗せて供奉し、万一に備えたという。関ヶ原の戦いにおいては、忠隣・忠常父子、本多正信、榊原康正を補佐として秀忠は中山道を上って家康に合流しようとしたが、信濃上田城主真田昌幸の攻略に手こずり、決戦に5日も遅れてしまった。家康は怒って秀忠は対面を許されなかったが、忠隣の誠意ある仲介によって、ようやく大津で対面を許されたという。

 関ヶ原戦後、家康は重臣の大久保忠隣・本多正信・井伊直政・本田忠勝・平岩親吉をそれぞれ招いて世子の決定を諮問した。正信は知略武勇ともに優れる次男(結城)秀康、直政は四男忠吉、忠隣は文武兼ね謙遜恭倹の徳を身につけている三男秀忠を推した。一両日後、家康は忠隣の意見が自分の考えにもっともかなっているとして、秀忠の世嗣を正式に決定したという。これ以後、忠隣は小田原城主であるとともに、秀忠を補佐する地位に置かれることになる。

 家康は慶長10年将軍職を秀忠に譲ってからは、大御所として駿府にあって、豪商・代官頭・僧侶・儒者・外国人など多彩なプレーンを擁して全国統治を行った。一方、将軍秀忠は江戸にあって関東領国支配を行った。当初、江戸の政治は大久保忠隣と本多正信の二人が代表するものだった。

 忠隣は小田原城主として入封後、慶長5年受領名(官名)を相模守と称した。忠世と同様酒匂川治水工事を継承し、足柄平野の新田開発を促進させている。また寺院・神社の保護を積極的におこなった。忠隣の重臣は「相模守様御代順席帳初口之覚」により一部が明らかにされており、大久保忠為(忠世の従弟)、大久保忠長(忠世の弟)、天野金太夫、白旗仁左衛門、田中九郎右衛門、後藤真成の6名の家老その他の重臣が記載されている。

 忠隣は風流を好み、頻繁に茶会を催した。秀忠も茶を好んだが、忠隣も将軍とともに古田織部に茶道を学び、大名茶人だった。江戸・小田原を往復する一方、小田原に休泊する上方大名をよく小田原城で接待したようだ。しかし、そのことが忠隣改易の伏線ともなってしまう。

 酒匂川治水については、大口土手に水神が建立され、慶長4年に完成した。春日森土手・岩流瀬(ガラセ)土手も前後して築造されたと考えられる。また酒匂堰は足柄上郡金手村から酒匂川の水を堰分け、足柄上下13ヶ村に流れる用水路だ。工事が開始されたのは忠隣の慶長年間のことで、普請奉行は大久保権右衛門、天野金太夫など、慶長8年酒匂村妙蓮寺に祈祷の功として忠隣から寺領1120坪が寄進され、完成は慶長14年で、千代村蓮花寺に成就祈祷の褒美として寺領9石余りの除地を給わっている。酒匂川治水工事により足柄平野の開発は急速に促進されることになった。酒匂川治水と連動して新田開発が促進された。北条氏の滅亡により主家を失った浪人たちの移住先として新田が開発され、復興への道も開かれたと考えられる。慶長16年鴨宮新田名主長兵衛に宛て天野金太夫・八木七郎左衛門他連署の通達は、鴨宮新田に浪人に諸役赦免といっそうの新田開発を奨励している。

 また小田原城は忠世・忠隣の時代にも修築がされている。忠隣代には、特に小田原は東海道の要地として、城下町と宿駅の形成が急務であったし、当時の徳川氏の城郭規制は厳しくなかったので、関東各地の城主たちも競って自国の城郭整備に専念した。忠世は小田原城の修築に着手していたと思われ、忠隣はその修築事業を継承した。天守閣やそれに関連する櫓群に当時の城郭整備の傾向を示唆する普請・作事の跡が見受けられる他、三の丸東堀(本町)の発掘調査で、切石の石垣の下から古い玉石積みの石垣が検出され、人名や地名を墨書した遺物も出土している。城内住吉橋周辺には住吉掘の跡が発見されているが、北条氏時代の障子掘の一部を破壊したり接続したりして転用しており、堀の石垣には自然石を粗割したものが用いられている。こうして忠世・忠隣の時代の石垣や堀は、北条氏の時代に存在した堀の形態を利用しながら、江戸期特有の形態を作り出しつつあった。これらは慶長19年の小田原城破却によって崩されたものとみられている。

 話がそれるが家康は鷹狩を好み、関東各地で頻繁に行った。鷹狩に託して軍事訓練を行い、かつ農民の生活状況、代官の民政や家臣の知行支配の実態を視察していたと見られる。平塚には家康がしばしば休息した中原御殿があり、この付近で鷹狩が多く行われた。宿泊には主として藤沢御殿が利用された。家康が休泊に利用した城は、江戸城・小田原城の他、川越・岩槻・忍城、御殿は鎌倉・神奈川・品川・小杉・蕨・浦和・鴻巣・越谷・大川戸・船橋・東金などにあった。小田原周辺でも、しばしば鷹狩が行われている。大久保忠隣も幕府年寄として江戸在住が多かったが、塚原村周辺で鷹狩を行うことがあり、そのときは長泉院を休息所とした。

 さて関ヶ原合戦前の慶長5年(1600)家康は上杉景勝を討伐するため大阪城を出発、小田原に到着した折には忠隣の嫡子忠常が接待にあたっている。家康は下野小山において石田三成の挙兵の報に接し、急遽江戸へ戻り、同年中関ヶ原合戦で勝利、覇権を確立した。これにより、天下は実質的に豊臣から徳川の政権へと移行した。また、慶長8年征夷大将軍の宣下を受け、武家の棟梁として江戸幕府を開設した。忠隣の嫡子忠常は関ヶ原合戦の戦功によって、慶長6年(1601)羽生近くの騎西(キサイ)城主2万石に封ぜられた。その家臣団の助力によって羽生の町造りの基礎ができたという。

 しかし、忠隣は慶長16年から不運に見舞われるようになる。この年家康が鷹狩のため駿府を出発した折り、小田原に立ち寄って城主忠隣を召し、嫡子忠常の病状を見舞っているが、翌日忠常は病死した。忠常は当代無双の出頭人とまでいわれるほど、将来を嘱望されていただけに忠隣の落胆は大きかった。家康が翌月帰途に小田原城に立ち寄った際には、忠隣は子の喪に籠って拝謁しなかった。また病床に伏せるなどして、勤務もとかく怠りがちとなったらしい。こうした行為に対して、本多正信は公私混同といって非難したと伝えられている。

 忠隣と本多正信の確執を深めたのは翌17年の岡本大八事件だ。これは正信の子正純の与力でキリシタンの岡本大八が、キリシタン大名有馬晴信から多額の賄賂を受け取ったことに端を発した事件で、有馬晴信は切腹、岡本大八は火刑に処せられた。これを裁いたのが代官頭大久保長安で、その庇護者たる忠隣に対し本多正信は対抗意識を高めたに違いない。またさらに翌18年山口重政の所領没収事件が起こった。これは重政の子重信に忠隣の養女が嫁したのだが、この女は実は忠隣の室の甥石川忠義の娘で、実父に横暴な行為があって将軍から勘気を受けていた。にもかかわらず伺いも立てず嫁したというので、忠義の父石川重政の所領が没収された。この処置を不満とした忠隣はいっそう出仕を滞らせ、大御所家康と次第に意志疎通を欠くことになった。これに対して本多正信は一段と信任を増し、忠隣と正信の疎遠・対立が風聞されるようになったという。

 忠隣と大久保長安はきわめて密接な関係にあった。長安は猿楽師の子で、父が武田信玄の猿楽衆として仕えたことから長安は士分に取り立てられた。武田氏滅亡の後は、本能寺の変後家康の甲斐経略の際、絵図を元に桑木の風呂を作ったのが家康の目に止まり、徳川氏家臣として登用され民政を担当するようになった。家康の甲斐経略においては大久保忠世・忠隣の功績が大だが、この時期に長安は地方巧者として、その傘下で行動していたと見られ、後忠隣によって大久保性を与えられたという。また長安は忠隣の従姉妹を妻にしており、忠隣の庇護が厚かった。長安は総代官頭として上級家臣団の知行割、灌漑・治水工事、八王子をはじめとする町の建設や市の新設、街道の整備、石見・佐渡・伊豆などの鉱山開発、諸国総代官として百二十万石に及ぶ支配を行い、幕府草創期の財政基盤確立に大きな実績を残した。

 慶長18年大久保長安が病死した。家康はその死の数日後、生前の不正蓄財を理由に突然長安の葬儀中止を命じ、遺子7名は各大名に預けられた後死罪となり、縁者も処罰された。しかしその罪状に関する信憑性はきわめて疑わしい。家康が早急に極刑をもって臨んだのは、大久保長安が全国的に支配を拡大し、幕閣に危機感を抱かせたものであったと同時に、幕府が代官頭の職権の拡大を阻止するためのものであったろう。

 これら一連の政治的事件の延長線上に忠隣の失脚がある。失脚の発端は、慶長18年家康が鷹狩のため江戸に向かった(このとき忠隣は沼津・富士あたりまで家康を出迎えている)が、中原御殿や江戸周辺で鷹狩を行い、その帰途のことだ。武田氏穴山梅雪の旧臣で小田原城に蟄居を命じられていた馬場八左衛門という80歳の老人が目安を提出し、忠隣に豊臣との内通の異心あることを訴えたことに始まる。家康はこれを受け、本多正信に忠隣の身辺調査を命じた。折り返し江戸からの使者として土井利勝が来訪、家康は江戸に急遽引き返した。

 同年12月忠隣は突如、京都周辺におけるキリシタン活動を禁圧するために上洛を命ぜられた。このとき忠隣は不測の事態を予感してか、家老天野金太夫に対し、いかなる事態が発生しても上意に叛かないように命じたと伝えられている。翌19年正月忠隣が上洛の途につくや、忠隣の小田原城は突如、収公されることになった。翌月家康と秀忠は小田原城に赴き、本多正信・藤堂高虎らと協議、小田原城の破却を決定すると共に、京都駐在中の忠隣に対して、小田原城の収公と近江への蟄居が伝えられた。忠隣改易の直接の理由は、忠隣の養女が山口重信との婚姻を上裁を得ず、無断でおこなったというものだ。しかし、この時点で武家諸法度はまだ作られていない。

 「大徳院殿御実記」では、忠隣と正信の確執を暗に指摘し、馬場が80歳という余命いくばくもない齢の末に何事を怨望し、また何者に托せられたのか、無限の妄説を訴え、ついに良臣を讒害するに及ぶ、と記している。幕府徳川実記編纂者は事件をこのように理解していたことは注目してよいだろう。馬場の訴状を利用し、家康が本多正信との密談で、旧豊臣政権の完全消滅を図り、上方大名と親交のある忠隣を処分を断行したという政治的思惑があったのかもしれない。この年11月大阪冬の陣が起きている。

 小田原城は本城のみ残し、石垣や大門が壊された。小田原城破却に当たり、天野金太夫は上使の安藤重信に対し毅然たる態度で望み、平穏のうちに城明け渡しを行って、後世賞賛されている。その後天野金太夫は「二君に仕えず」といって小田原を去り、他家に嫁した娘のもとに赴いた。一方忠隣は、上使として板倉勝重が京都の旅宿に赴いた際将棋をさしていたが、少しも動揺せず指し終わって行水し、衣服を改めて命に服したという。

 忠隣はその後近江国栗太郡中村郷に配流され、5千石の知行を与えられた。配流先から小田原若宮八幡宮に虚実を訴えた願文を奉納している。また、南光坊天海を通じ不忠の志しなきことを訴えたが、配慮は示されなかったという。他にも身の潔白を訴えた上書を幾度か提出したが、家康はこれを認めなかった。元和2年忠隣は家康死去の報に接すると、剃髪して道白(ドウハク)と称し、隠遁生活をするようになり、配流先も近江国左和山(彦根市)に移された。将軍秀忠は積極的に恩赦を考えたらしいが、忠隣は固辞して受けなかったという。寛永5年76歳で没し配流先に葬られたが、大久保家再興後は小田原城下大久寺(市内南町)に移された。

 忠隣の亡き嫡男忠常の遺児仙丸は幼少のため、しばらく閑居後武蔵国騎西(キサイ)2万石を拝領し、後小田原城主(忠職タダモト)として返り咲く。忠隣の室妙賢院は月俸200人扶持を与えられ、幼少の六・七男と共に小田原谷津に住まわされた。他の重臣の動向としては、大久保忠為が元和4年美濃国大垣新田藩主となり、その子孫は下野国烏山藩主や旗本などになった。大久保忠長の四男は旗本となり、白旗仁左衛門は浪人となって尾張に赴いたという。また一部の重臣は、そのまま重臣としての地位を引き継いだと思われる。なお、忠常の長女を室に迎えた安房国館山城主里見忠義は、この事件に連座し、領地没収改易となって館山城は破却され、忠義も配流先で29歳で病没、ここに房総の名門であった里見氏は滅んだ。