15.大久保氏の再入部と相次ぐ自然災害

大久保氏の再入部

 貞享2年(1685)12月、稲葉正通の越後高田への転封の跡を受け、翌3年正月新小田原城主として、下総佐倉から大久保忠朝(タダトモ)が入部した。当時忠朝は幕府老中の地位にあった。

 かつて慶長19年大久保忠隣改易は、孫の忠職(タダモト)の蟄居と、その苦難は家中全体に及び、旧臣の多くは小田原城明け渡し後離散した。寛永2年(1625)忠職は蟄居を解かれ、同9年(1632)父忠常の遺領である騎西(埼玉県騎西町)から美濃国加納5万石城主に復活した。さらに同16年(1639)には播磨国明石7万石(後8万石に加増)、慶安2年(1649)には肥前国唐津城主へと転じた。

 寛文10年(1670)忠朝(忠職の養子、忠隣の三男教隆の子)は唐津で忠職の跡を継ぎ、延宝5年(1677)老中、翌6年下総佐倉へ転封(9万3千石)、そして貞享2年の小田原への転封となる。この際さらに1万石加増され、10万3千石となった。このときの所領の内訳は、城付領として相模国足柄上・下郡153か村、駿河国駿東郡70か村の計6万石、残る4万3千石は下野・播磨・伊豆・相模(淘綾・高座)などの飛び地だった。その後元禄7年(1694)新たに河内国に1万石加増され、拝領高11万3千石となる。この拝領高は幕末に至るまで変わらない。なお、貞享元年(1684)江戸城内で、大老堀田正俊が稲葉正休に刺殺された際、その場で正休を斬殺したうちの一人が、当時老中だった忠朝だった。

 忠朝の長男忠増は明暦2年(1656)生まれ、寛文10年(1670)従五位下、安芸の守に任じられ、元和元年(1681)奏者番となる。同3年部屋住領として下総・常陸国で1万石を拝領。貞享2年(1685)寺社奉行、同4年若年寄、隠岐守。同5年若年寄離職、部屋住領を返上する。元禄11年(1698)父忠朝隠居、忠増家督を相続し、小田原藩主となる。同13年従四位下。宝永2年(1705)老中、加賀守、侍従となる。正徳3年(1713)病没。なお、弟教寛(ノリヒロ)は、兄忠増から相模国内で新田高から6千石を分与され、後若年寄となり、加増され大名となる。

 忠増が藩主だったとき、元禄大地震(1703)や富士山噴火(1707)、酒匂川氾濫(1708)などの自然災害が発生、領民は度重なる災害に苦しめられた。忠増は老中として江戸にあり、直接指揮がままならなかったためと、度重なる災害で復興資金に難渋し、また、領民が江戸直訴に及ぶなどしたため、藩単独での復興をあきらめ、幕府に救済を願い出た。

 忠増が没した正徳3年忠方が跡式を相続(〜享保17年(1732)没)、その後は忠興が相続した。

相次ぐ自然災害

(元禄大地震)

 元禄16年(1703)11月22日起きた大地震(震源房総半島南端、推定M8.1)は、関東八か国で死者20万人以上を出したといわれる。小田原城は天守、本丸御殿、二の丸屋形を倒壊させた上に火を出した。城門、塀、土居、石垣、家中屋敷、城下の町屋もほとんど倒壊、火は一昼夜燃え続け、城下をほとんど焼き尽くした。伊豆から房総に至る海岸沿いでは津波(*)が発生し、多数の犠牲者を出した。領内の犠牲者(箱根・伊豆・御厨を含む)の犠牲者2261人、潰れ戸数836という。なお、天守閣の再建工事は宝永元年に着工され、同3年竣工した。

*津波は熱海で7m程度の高さと推定される津波が押し寄せ、500戸ほどあった人家のほとんどが流出し、残ったのはわずか10戸程度であったという。伊東では川を遡った津波が水害を及ぼしたという。

 震災により、小田原宿と箱根宿は宿の機能がほとんど停止した。幕府から小田原宿へ拝借金1500両と米300俵、箱根宿へは拝借金300両・米50俵が支給され、再建が図られた。この地震は酒匂川堤にも少なからぬ影響を与えたと思われ、翌宝永元年(1704)大雨で、大口・岩流瀬(ガラセ)の両堤及び下流の各所の堤が決壊、大水害をもたらした。

(宝永富士山大噴火)

 宝永4年(1707)富士山噴火、領内各地は降砂のため大被害を及ぼした。噴火は11月23日から約半月間続いた。この間の事情は多くの記録があり、状況をつぶさに見て取ることができる。

 市内小船「船津氏所蔵文書」によると、「22日夜1・2度の小地震、23日朝五つ(午前8時)過ぎよりおびただしく鳴り物、四つ(午前10時)過ぎまで平等止まず。家ごとの戸・障子凄まじく鳴り渡り、大地震かと相待つ所に、四つ半過ぎより雷もしきりなり。しかる所に霰(アラレ)の如く降り来たる物あり。すわや霰と見る所に黒石混じりの軽る岩おびただしく降り積もり、−(中略)−。同夜の五つ(午後8時)過ぎより砂降りはじめ、24日には降り砂大雨の如く、雷電・鳴り物はことにおびただしく、砂煙にて闇夜の如く、昼中灯火を用ゆ。」等と記している。

 被災地では小田原藩に被害の調査検分を願い出た。藩主大久保忠増(老中)が江戸の藩役人柳田九左衛門を実情調査に派遣したのは、噴火や降灰が収まった12月11日以降で、柳田の指示によると思われる「今度富士山焼申候石砂検分帳」が各村ごとに作成され提出された。しかし、柳田は砂の除去は農民が自力で行うよう命じたという。そこで、小田原藩領三筋104か村の農民は、12月28日被災地の調査を終え江戸に戻ることになった柳田に、救済を求める嘆願書を提出した。

 また、村むらの代表者たちは今後の活動方針について、正月3日に中之名村に集まり、江戸に出訴すること、江戸に行く前に一応小田原に断る、ことを決め、4日小田原に集結、藩役所に江戸行きの注進状を提出した。これに対して小田原藩は郡奉行大津善左衛門らが対応し、当方にも考えがあるから江戸への出訴はしばらく控えて待機するように説得した。

 領内の農民たちは、名主たちがいまだ小田原に止められているのを聞き、8日朝までに江戸に向けて出発し始めた。そこで自重していた名主たちも、領主に対する作法も心得ぬ者たちが江戸に出ていくのを放置できず、江戸出訴に踏み切った。酒匂・国府津のあたりで、先発の農民たちに追い着いたが、このとき集まっていた農民たちの数を4、5千人と伝える記録もある。まもなく小田原から代官たちも追いかけてきて、話し合った結果、名主たちを江戸に送る代わりに、他の農民たちは村に戻ることになった。

 9日名主たちの一行が高座郡茅ヶ崎村に達したとき、藩主名代として江戸から高槻勘助が到着した。先に柳田が述べたことは藩主の意向に反していること、藩の救済策として、藩主が身を削り工面した救済米2万俵を支給することを伝え、小田原に帰るよう説得した。しかし、名主たちは米2万俵の支給はありがたくお受けするが、肝心の砂除去の手当支給が明確でなければ農民がまた騒ぐとして、ふたたび江戸に向かう行動に出た。名主たち一行が藤沢に到達したころ、江戸から派遣された加納郷助が到着、今度は藩主の御心腹を直接伝えるよう命じられてきたとして、田畑砂掃き金2万7千両を支給する旨を伝えた。これを聞き名主たちは「ありがたき御意の趣」として、意気揚々と小田原に引き返した。

 これを受けて11日「三筋村々百四ヶ村」の名のもとに願書を提出し、農民夫食2万俵の支給、砂掃き御取り懸かり金2万7千両の支給、など藩主の御意向として伝えられたことの確認と、その実行を促した。これを受け取った小田原藩は、12日ふたたび村むらの代表者を召集し、農民側から提出された願書に誤解があることの説明がなされた。それは砂掃き金2万7千両は砂除去にかかる費用の計算がそれだけになるという意味で、すぐに一時金として支給されるものではない、と伝えた。これを聞いた代表者たちは、約束が違うと、役所は大騒ぎとなった。

 しかたなく郡奉行の久保田丈左衛門が江戸に出て再度お願いしてみようということでひとまず事態を収拾し、江戸出訴を主張する農民たちには次の日に発つように申し渡し、自分はその日のうちに江戸に出立した。14日江戸に着いた農民たちに、小田原藩江戸役人熊本助大夫・加納郷助、郡奉行久保田丈左衛門・大津善左衛門らから、藩主は再度の江戸出訴にたいへん立腹され、一度は捕らえて牢舎せよとおっしゃったが、われわれがお慰めし思い止まらせている。藩主は被災地の農民を不憫と思われ、宝物の正宗の太刀を売り砂掃き金に宛て、2万俵のほか「村々飢人扶持米」も下され、さらに及ばざる場合は農民になり代わり藩主みずから幕府にお救いのお願いして田畑の復興をなしとげる覚悟だと述べた。これを聞いて代表たちは喜んで小田原へ帰った。

 その後実際のお救い米の支給について、22日領内三筋の惣名代5、6人が呼び出され、2万俵のうち当面1万俵を支給するものとし、村高と砂の深さに応じた割り付けを示し、残る1万俵は後日通貨で支給する旨を伝えた。惣代たちは2万俵の他に「飢人扶持」まで下さるはずだったとして納得しなかったが、藩側は追々お救いがあり、これを限るというわけではない、と述べている。正月22日、郡奉行から布告されたお救い米支給の例では、「去る冬、砂降り候村々へ、御米二万俵下し置かれ候につき、吟味の上、右帳面に割合の通り候間、頂戴たてまつるべく候」として、村高と砂の深さに応じて配分するという原則が示され、各村ごとの配分額を示している。

 農民たちのその後の運動の展開は詳しく記す記録がなく、不明な点が多い。全領の訴願行動を記録してきたのは川村・松田の五ヶ村で、この時点からこれらの村が他村と共同行動せずに、別行動をとったためと見られる。配分方法をめぐって、領内の村むらには思惑に違いが生じ、訴願行動の足並みが乱れ出したのだろう。

 小田原藩の対応は以上のように、迅速さを欠いたものだったが、領民の訴願行動と藩の対応には大きな特色があったと言える。小田原藩主は常に幕閣の重職にあり、江戸で公儀の職務にあったことが常態化している。このため、重要事項の裁可権は江戸藩邸にあることを、領民が十分承知しており、訴願行動の目標を最初から江戸においていたこと。後日の酒匂川大口堤決壊の際もそうだが、領民の訴願行動に対して、藩当局はそれを恐れたり、武力鎮圧の強硬処置をまったく見せていないこと、むしろ、手を貸すなどしていて、たいへん興味深い。

(被災地の上知)

 被災地小田原が直面している事態の困難さから、幕府はかなり早い時期に、被災地を天領化する決断を固めていたとみられる。「常憲院殿御実記」宝永5年閏(*)正月3日の条に、「この日、武相駿、灰に埋もれし村里にかゝりし所領は、転換なし下さるべしと仰せ出さる」とある。また、同7日の条には、「相州小田原領富士山の焼沙埋没せし地、まづ公料になされ、関東郡代伊奈半左衛門忠順(**)に修治を命ぜらる」とある。上知された村々宛ての申し渡し覚えも、すべて関東郡代伊奈半左衛門の発給文書なので、このとき上知された村々はすべて関東郡代伊奈氏の支配下に移されたと考えられる。ただし、実際に各村々に上知の決定が通告されたのは、閏正月18日だった。

*閏月:旧暦(大陰太陽暦の一種)においては、新月から新月までを1月とし、大の月が30日、小の月が29日で、太陽年とのずれのため、3年弱ごとに1年を13ヶ月にする必要があった。この余分に付加された月を閏月という。日本では暦法は幾度となく改められ、明治5年太陽暦に移行した。

**関東郡代伊奈半左衛門忠順:伊奈家は家康の関東入府以来、忠次が代官頭として地方(ジカタ)支配を担当、関東など直轄領の広大な領域を支配した。3代半十郎忠冶から関東における諸代官の統括、河川改修・築提工事に与かることを命じられた。忠順は7代目、この時点では直轄領となった飛騨を合わせ、支配領域29万石に及んでいる。12代忠尊のとき、伊奈家当主の地位をめぐる御家騒動が発生、寛政4年(1792)郡代罷免・改易された。

 上知決定の通告に際して、各村々に目だった混乱はなかった。正月22日に藩から通告されたお救い米の半分1万俵の支給もどこまで実行されたか疑問だが、上知の目的が被災地の復旧と普請のためであること、民衆側にもともと幕府による救済処置への期待が強かったこと、が冷静に受け止められた理由かもしれない。また、上知に際して、郡代を支配する勘定奉行萩原重秀から出された触書に、「石砂取り除き候儀、または川筋埋れ候につき川辺御普請これある間、右の村々当分御代官所に成さる、・・・ただし、御普請相済み候て、又小田原領へ相渡すべく候」と明確にうたわれていたことや、伊奈氏が村々を支配するにあたって、閏正月18日に出した「申し渡し覚」でも、第3条で特に「人夫等急用の節は、小田原役人中より触れ次第、先規の通り違背なく相勤むべし」として、上知後も小田原藩の潜在的領主権を尊重することを明確にしていた。

 このとき上知された小田原藩領は、足柄上郡・同下郡・淘綾郡・高座郡のうち4万4千石余、駿河国駿東郡のうち1万2400石、計5万6400石、他に新田高として9600石だった。替地として小田原藩領に組み入れられたのは、美濃・三河・伊豆・播磨国などで計5万6400石だった。替地は表高に対して用意されるものだからだ。

 「常憲院殿御実記」7日の条ではさらに、先の記事に続き、「灰砂ふりつもりし村里賑恤の事あれば、こたび各国役金を課せらる。公私領ともに100石に金2両づゝのさだめもて上納すべし」と、幕府が降灰被災地救助のため諸国に国役金の賦課を命じたことを記している。また、幕府は相州の川筋に堆積した砂の川浚いを、大名御手伝い普請として岡山藩など五藩に命じ、その執行を関東郡代伊奈半左衛門に取り扱わせることとした。これらの方針決定からいくばくもない3月14日、大久保忠増は勝手掛老中を拝命、緊迫する幕府財政に責任を負う立場となった。なお、幕臣向山誠斎の編集した「蠧余一得(トヨイツトク)」によれば、全国から集められた金48万両の国役金収入のうち、救済資金として投じられた金額はわずか6万数千両に過ぎず、残る40万両強は逼迫していた幕府財政の救済に役立ってしまった。

(酒匂川堤の決壊と氾濫)

 もともと酒匂川は、戦国時代には幾筋にもなって足柄平野を流れていたが、初期大久保時代の文禄2年(1593)以降、足柄平野を開発するために流れの1本化を行なった。この結果、平野部の開発は大いに進展した。しかし、大口・岩流瀬の堤は流路変更の一大地点で、ひとたび川が増水すれば、堤は決壊する恐れが常にあった。すでに慶長年間、この辺りの堤が決壊し、大久保忠隣がこれを修復したとの記録がある。

 稲葉氏時代には寛文10年(1670)の決壊の他、延宝8年(1680)と天和元年(1681)に2年連続で出水に見舞われている。後期大久保時代に入っては、元禄元年(1688)、宝永元年(1704、前年元禄大地震による影響)と決壊を繰り返した。特に宝永5年(1708)の決壊は、富士山噴火により河川にたまった砂が、増水により押し流されたため、前代未聞の大災害となった。その後も享保19年(1734)、寛政3年(1791)決壊した。

 大口堤が決壊するより前、幕府は河床にうずたかく積もった土砂を警戒していた。宝永5年閏正月、酒匂川砂灰除けの御手伝い普請を、関東郡代伊奈半左衛門を普請奉行に岡山藩・小倉藩など5大名に命じた。しかしこの普請は、砂を十分に除去できないまま終了してしまった、との記録がある。

 宝永5年(1708)6月22日、大雨で増水した酒匂川は大口堤付近で決壊、富士山噴火で河床に堆積していた大量の土砂を一気に下流に押し流した。田畑は残らず押し流され、川筋がつき、地形が一変してしまった。追打ちをかけるように7月2日、再び溢れ出た水が被災地を襲った。大口堤真下にある斑目・岡野・千津島・儘下・竹松・和田河原六か村の被害が特に甚だしく、みずからを「水損家立六か村」と自称した。その後も、正徳元年(1711)7月、復旧の努力が続けられていた被災地を三度目の洪水が襲った。

 この六か村に限らず、支流の川音川でも宝永5年6・7月堤防が破れ、金子・金手村で屋敷地・田地が砂に埋まり、後には川筋も変わり、これまでの土地が川原のようになってしまった。押切川(中村川)でも堤防が決壊し、流出した砂が流域の田畑を埋めた。

 当初、どこから手をつけてよいか見通しも立てられなかった中、水損家立六か村から翌6年4月府川村御林の拝借願い、同5月被災地の再開発願い、などが出された。しかし、それが認可されるのはさらに翌7年秋のことだった。さらに、拝借地での開発も条件が劣悪ではかどらなかったり、酒匂川下流域の村からは、新川筋の流れを新たな水利秩序として望むなどの動きが出たりもした。この動きに対しては水損家立六か村から、即座に反対の願書が提出された。破堤状態の長期化が、問題をますます複雑化しているわけで、早期の治水回復が望まれた。

 ようやく幕府は宝永6年7月、河川復旧のため大名普請の方針を明らかにした。勘定奉行中山時春・荻原重秀、目付河野通重の3名を普請奉行とし、御手伝い普請を津藩藤堂家・浜松藩松平家に命じた。この普請の場所ははっきりしない。津藩が分担した丁場は川音川1700間の他中村川付近、浜松藩は駿河・相模の内というだけで詳細不明だ。現場指揮は関東郡代伊那半左衛門がとったと考えられ、翌7年4月までには、普請は完了したと見られる。しかし、肝心の大口堤は言及されておらず、結局実質的な効果を発揮することはできなかった。翌正徳元年7月、再び被災地を洪水が襲ったのは、先に見た通りだ。

 この後、享保7年(1722)まで、大口堤は決壊したままだった。この間の享保元年(1716)、天領となっていた旧小田原藩領足柄上郡・下郡のうち足柄平野東部酒匂川左岸一帯(東通り)と駿東郡南部を小田原藩に復帰させ、美濃・三河・伊豆などの替地を上知した。一方、享保3年幕府勘定奉行水野守美の意見聴取に際し、水損家立六か村の代表は、「斑目村より蓮正寺村迄二里ほどの場所を掘り、左右の堤を普請さえすれば、必ず川筋を元にかえすことができ、農民も立ち戻り田畑は開発され、年貢上納もできるようになる。工事は出水期を避けて、九月〜三月とし、この普請工事を六か村に請け負わせてくれれば、ちりぢりになった百姓どもも立ちかえる」などと願い出た。それでも幕府は動かなかった。

 享保7年(1722)8月に至り、幕府はようやく、天領のままになっている酒匂川西部(西通り)を7年の期限付きで預かり地として小田原藩に戻し、小田原藩自身が復旧事業を行うという政策決定を行った。この政策決定の裏には、幕府の財政収支が逼迫し、その再建が急務となっていたことがある。吉宗は、それまでの老中月番・合議制の慣例を破り、老中水野忠之を勝手掛り老中として財政・民政を専管させ、また、町奉行大岡忠相に異例の地方御用兼務を命じるとともに、年貢増収を目指し新田開発の奨励に乗り出した。これを受け武蔵野新田の開発が大岡忠相の責任の下、始まっている。こうした流れの一環として、西通りの小田原藩預かり地化があったと見られる。

 小田原藩は旧川筋を復旧させるという基本方針で臨んだ。また、「天領時代の普請が失敗した理由は、高砂の上に土手を築いたため、出水に耐えられなかったためだから、今後しばらくは大口から分水を続け、旧川筋に埋もれていた砂を1、2年かけて流し出し、それをまって大口堤を締め切る」とし、復旧の遅れている亡所村(水損家立6か村と炭焼所・小台・新屋・柳新田・清水新田・穴部新田の12か村)と半開発村(58か村)にはできるだけの免除措置を与えてもいる(「村々への申し渡し覚」)。その後の普請の進行状況は十分に明らかになっていないとはいえ、享保8〜10年(1723〜5)に書写された「大河通り惣堤間数改帳」中「寅の年(享保7年)より出来土手分けの覚」という記録によれば、この間に藩が修復した堤は、酒匂川の東西両岸で7514間に及ぶなどとある。従来、小田原藩預かり中の普請事業はあまり注目されてこなかったか、あるいは否定的だったのだが、小田原藩の復旧計画は、もともと砂除去に十分な時間をかける覚悟で臨み、大口堤再建の条件づくりをしていたわけで、この期間の普請は重要な役割を果たしていたと考えられる。

 享保11年春、7年の予定で小田原藩に任せられていた川除け普請は、急遽切り上げられ幕府の手に引き戻された。この理由は定かではないが、幕府は大岡忠相配下の田中休愚などに普請場を検分させており、終始小田原藩の行っている普請の進行に注目していた。旧川筋への復旧などの方針が確立し、先が見えてきた以上、一気に解決を図りたいというのが幕府の本心だろう(小田原市史)という。

 新たな幕府の普請は田中休愚の下、急速に進められた。田中休愚はもと東海道川崎宿名主で、隠居後享保5年それまでの経験にもとづき経世の書「民間省要」を著した。酒匂川の治水についても、前代の幕府の大名手伝い普請のやり方を批判していた。この書は忠相を経て吉宗に献上され、休愚は幕臣に取り立てられ、享保8年から治水巧者の井沢弥惣兵衛の下で荒川の普請にたずさわった。その力量が確かめられ、今回の登用となったわけだ。

 田中休愚の指揮の下、2月後半に始まった普請は、早くも4月中に堤の封鎖を完了、6月には「小田原川除け普請功成る」(「近世小田原史稿本」)という手早さだった。この堤を「文命堤」と呼ぶ。

 休愚が築いた堤は、大口堤付近の工事のみで、宝永被災以前に比べても特に大きいというわけではなかった。ただ、「弁慶土俵というものをこしらへ、俵の中に五郎太(ゴロタ)石を入れ、・・(中略)・・一万ほどの俵を、時の間に投げ入れて」(「有徳院殿御実記付録」)という、それなりに頑丈なものだったと考えられる。なお、完成した堤の上に、建設の由来や治水の心構え刻んだ碑を建て、治水に業績を残したとされる中国の王、兎(文命)を祭る社を建立して、民衆の水防意識の高揚に努めた。しかし、大口堤の封鎖で水量を増した旧川筋は、各所に危険箇所を生み出す結果となり、早くも7月2箇所ほどで出水してしまった。そのため、大岡忠相は休愚に出水箇所の緊急普請と、酒匂川両岸の普請継続を命じ、工事は12年5月までかかった。

 以後酒匂川西岸では、大岡忠相配下の代官岩手藤左衛門指導の下、水防組合が編成されるなどした。一方、東岸は享保元年から小田原藩領に復帰していたが、大口堤の復旧直後から酒匂川・川音川合流地点付近で出水が発生し、13年8月には同じ付近の川音川堤防が決壊、さらに16年5−6月には酒匂川の土手も決壊した。金手・西大井・鬼柳・桑原村など被害の大きかった村は16年7月、幕府に西岸と同様の普請を願い出た。小田原藩でも出訴を快く認め、添え状を与えて江戸へ送り出した。享保17年3月、幕府は東岸で被害の大きい9か村の上知を決定、大岡管轄下に組み入れた。

 酒匂川両岸が天領化し、大岡の下で一本化した普請事業が行われるようになった矢先、末代まで切れることはないと考えられた休愚の大口堤が、享保19年8月もろくも決壊する。これを修復したのが蓑笠之助だった。

 蓑笠之助は、元越後高田藩家臣の子で、猿楽師蓑兼正の養子となり、農政・治水に通じ、田中休愚の娘を妻とした縁で、酒匂川の普請にたずさわるようになった。享保14年(1729)から大岡忠相の配下に入り、大口堤の普請をはじめとする酒匂川の治水と周辺地域での荒地開発を担当した。17年から支配勘定格となり、岩手藤左衛門に代わり、西相模の幕府領支配を任せられるようになった。享保19年「農家貫行」を著し、みずからの支配所において、村役人に対する財政指導に用いた。後、元文4年(1739)から代官となり、後支配地は7万石に及んだという。

 蓑笠之助の対応は迅速だった。被災地の復旧普請を求める声に「早速水留め仰せ付けられ」と即座に回答、村々から出された訴願手続きも即座に伺い済みとし、直後に着工した。堤は暮れのうちに仮締め切りを終わり、翌年2月本普請に着工、5月中に竣工した。また、その堅牢さは「所々より古敷へ二尺・三尺掘り込み、長五、六間に一尺二寸角二本づつ接立て土台にして、その上に大石をしやち(鯱)にて巻き、六、七十人にて釣り持ち、大石にて高さ四間余りに二段に御築き立て遊ばされ、・・」(「大口堤沿革史」)というように、当時最高水準の技術による築堤工事だった。

 その後も長く水との闘いは続くが、最大の難所が蓑笠之助の普請によって果たされたことで、治水の安定度はそれまでに比べてはるかに高くなり、被災地はようやく復興へと再出発し始めた。

 延享2年(1745)5月、大岡忠相は関東地方御用を解任され、関東地方御用は大岡忠相から勘定奉行神尾春央(カンオハルヒデ)に交替した。同年9月将軍吉宗は隠居、次男田安宗武を将軍に推した老中松平乗邑は失脚し、このとき、幕府領となっていた旧小田原藩領は、足柄上郡16ヶ村、同下郡5ヶ村、駿東郡15ヶ村を除き、小田原藩に復帰した(残りも足柄上郡8ヶ村を除き、天明3年(1783)小田原藩領に復帰)。蓑笠之助は、大岡忠助から神尾春央の配下に移され、その中で年貢収納法が改められ、百姓の強訴事件が発生した。幕府領における年貢皆済期限の繰上げは、他の幕府領でも布告されていたことだ。しかし、蓑笠之助は寛延2年(1749)責任を問われた形で代官を罷免され、閑職の小普請入りを命じられた。もっともその死後、生前の業績が再評価され、子孫は代官職に取り立てられている。
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