16.大久保忠真

藩財政の逼迫

 幕藩体制下、江戸時代中期以降は、どこの藩も藩財政が窮乏化していく。商品経済が発展する中、大消費都市江戸周辺では地回り経済が発展するが、農村では銭使いが進行する一方、貧富の差が拡大した。都市では消費生活が拡大し、都市での消費生活に明け暮れる領主層の財政が逼迫していく。

 そのしわ寄せは当然農民への負担増となって現れるが、藩主の家政と藩財政が未分離の中で、藩財政が逼迫していったため、負担は家臣たちにも重くのしかかっていった。小田原藩では、知行高に応じて俸禄米として支給しているが、藩財政の窮乏化に伴い、恒常的に一定額を差し引く処置が採られ、これを「借上(カシアゲ)」と称した。小田原藩ではその処置自体を「減米」と表現し、減米分を差し引いた残りが実際に支給される「手取り米」となる。

 正徳元年(1711)、小田原藩では家中手取り米を五分とする旨を申し渡した(吉岡家由緒書*)。元禄16年(1703)の大地震と宝永4年(1707)の富士山噴火の被害により年貢が減少した上に、物入りが多く借財が嵩んだための処置だ。これが明和年間(1764-72)にはどん底となり、御勝手方不如意に付きという理由で、手取り米はわずか10%未満にまで落ち込んでいる。小給の者は月々の端米を袋に入れて支給したことから、これを「明和の袋米」と称した(同由緒書)。

*吉岡家は知行高340石で、小田原藩家中では上位に属する。吉岡家には大久保家に仕官した寛永19年(1642)から明治5年(1872)に至る由緒書が伝わっている。

 藩財政の窮乏化に対して、藩当局がただ手をこまねいていた訳ではない。

 宝暦7年(1757)、藩主忠興は財政窮乏化の原因が、江戸・小田原の「御暮し方」が根元の不足原因となり、年々借用をもって凌いでいるありさまだとして、その改正を命じた。この時取扱い方を命じられたのが、真名子要右衛門・山田典冶・吉岡太七の3名だった。

 吉岡太七信正は例の「吉岡家由緒書」の家出身で、部屋住みのまま宝暦元年郡奉行に任じられており、そのまま兼任を命じられた。さらに翌8年には「御賄い方御用人」を拝命している。吉岡信正は、腹がすわり物事に対して潔白だったことから、忠興の大のお気に入りだった。その具体的な改正の内容は不明だが、賄い方を拝命した直後に、賄い方御用で上京を命じられていること、吉岡家由緒書に、当時藩が借用していた大量の座頭金(座頭が幕府から許されて高利で貸し付けた金)について、その対応に苦慮している、との記載から、藩の借金の整理が重要な課題であったことは間違いない。

 また、忠興の時代には、請け免制の積極的な採用があった。宝永噴火以降上知された村々は、ほとんどが藩領に復帰していたが、年貢収量という面では、代知が与えられていた期間よりも、被災地が返還された後の方が減収となった。いまだ、これらの村々は復興の過程にあり、充分な年貢が確保できる訳ではなかったからだ。この時期の請け免制は定免制の一種で、田方の各等級ごとの反取り額と年貢の総額を一定期間固定化しようとするものだった。これはすべての村で実施された訳ではなく、その期間もまちまちだったが、藩当局は無理な年貢の引き上げでなく、ともかく確保できる年貢の量を維持することを狙ったようだ。

 同じ時期の宝暦10年10月に出された13か条からなる郷中条目では、博打の禁止・風俗取締り・倹約などの他、特に第2条目で、百姓は何をおいても田畑の耕作に精を出し、年貢を滞りなく納めることを第一に心掛けよ、としている。郷中条目は年貢の完納を第一義として、その基盤となる村々の立直しを意図したものだった。

 宝暦13年(1763)忠興が隠居、忠由(タダヨシ)が藩主になると、御賄い方仕法の改正として、先納金(年貢米の一部を先納させる一種の借金)や御用金(強制的に賦課した借金)を課した。これらは直接的な現金収入ではあったが、藩財政が好転するわけではなく、あくまでも一時凌ぎに過ぎなかった。

 明和6年(1769)生来病弱だった忠由が34歳の若さで死去すると、忠顕(タダアキ)が藩主となる。翌明和7年における各村の年貢割付状を見ると、各村の田方反取り額が一斉に引き上げられていることから、忠顕により年貢増徴策が採られた形跡があり、その後もこの時の水準が維持される。これは家臣に対する俸禄米の支給にいくらかゆとりを与えたようで、「吉岡由緒書」によれば少しずつ回復傾向を示し、下記の天明大飢饉では年貢の減少・上げ米・借米などで俸禄米が一定しなかったようだが、寛政年間では少々増額になったという。後日寛政8年(1796)には、当時賄い方御用人吉岡信郷(信正の子)は、家臣の俸禄米が回復した褒美に、御召上下と白銀3枚を頂戴した。

 しかし、天明2年(1782)7月小田原を大地震が襲い、同3年から6年にかけては全国的に天明の大飢饉が発生した。天明2年の大地震では、小田原城天守閣が30度も傾き、町中の蔵が7割方破壊されたという(天守閣は同5年引き起こされた)。藩ではこの復旧資金として、幕府から5千両の拝借金を受けている。一方、続く天明大飢饉は異常気象によってもたらされた。幕閣では老中田沼意次が、飢饉に有効な対処ができず、世人の恨みを買って将軍家治の死とともに失脚した。

 天明3年の小田原について見れば、5月に長雨、6月に豪雨、7月から9月にかけても雨が続き、土用のうちでも袷(あわせ)を着るほどの寒さであったという。駿河国御厨領(静岡県御殿場市・小山町・裾野市周辺)では、作物の甚大な被害に対して年貢の免除が少ないとして、農民1000人ほどが訴願のために箱根関所まで押し掛けるという強訴未遂事件を起こしている。

忠真の登場

 忠真は、天明元年(1781)江戸上屋敷で生まれた。幼少の頃から英明の誉れが高かった。寛政元年(1789)9歳で、従五位下出羽守に叙任、忠真と名乗る。寛政8年(1796)父忠顕隠居に伴い、16歳で小田原藩主となる(安芸守)。その前年には幕命により、父忠顕に代わって小田原に入部し、6か月にわたって領内を視察してまわった。これ自体異例の措置だが、領民に対して新しく藩主となる若君を印象づける効果とともに、家臣の期待するところも大だった。

 寛政10年(1798)忠真は、藩主としての自戒などを「座右銘」日用十五か条に著わした。例えば「人の我が身に心得違いを申すは少々の言なりとも申させ、少しも申しにくくなき様致し、尚々寛(ゆるやか)に聞き容れ大一の事。」など、人の言葉に耳を傾ける名君を伺わせる。

 寛政12年奏者番。享和3年(1803)旧弊の改革を宣言した。忠真の改革には三つの画期があり、その第一となる(第二文政元年、第三文政11年)。それは改革への所信表明とも言えるものだ。中で忠真は、「累年の財政難で、家臣に迷惑をかけ、領内も困窮しているが、譜代の家柄としては幕府の軍役を果たさなければならないが、それすらも心もとない。これもすべては自分が至らないためだ。家中の末々まで扶助が行き届き、万民が安心して暮らせるように真実を尽くしたいが、自分ひとりでは力が及ばないので、家臣一同ひとつになり、私事を捨て公儀第一と心掛け、心底を尽くして協力してほしい。そのためには旧弊を改め、質素倹約に努めなければならない。」といったような内容を表明した。

 この宣言により、あらためて家臣一同に減米が申し渡され、領内の村むらに対しては、あらためて質素倹約に努めるべき旨の「法度書」が出された。この時には、村むらの風俗や年中行事、出郷役人の接待など具体的で細かい指示が与えられている。また、博打や賭け事などの犯罪の温床になりやすい寺院には、そうした風紀の取り締まりを命じている。しかし、忠真はその後、幕府要職に昇進を続けたこともあり、具体的な成果をみるに至っていないようだ。

 文化元年(1804)寺社奉行(奏者番兼帯)。当時、隠居して楽翁と名乗っていた松平定信のもとに足しげく通い、教えを受けていたという。

 文化7年(1810)寺社奉行から大阪城代へ栄進。これを契機に大坂の豪商鴻池善右衛門と取引をもつようになる。同時に、当時七カ国(相模・伊豆・駿河・武蔵・常陸・河内・美作)に分散する藩領を、小田原周辺と大坂周辺に集中させたいと願い、老中松平信明に内願書を提出した。この件は忠真が幕閣に名を連ねている間の文政10年までに、美作領は摂津・河内に、常陸領は三浦郡に、武蔵領は津久井・大住へと所替えとなり、達成されている。

 文化12年(1815)京都所司代となり、侍従に任官した。京都所司代時代に、光格天皇譲位・仁孝天皇即位の行事にかかわった。光格天皇譲位に伴い、仙洞(セントウ)御所行幸が文化14年3月にあった。仙洞御所の修復に際して、忠真は、領内吉浜村(湯河原町)から、園庭に敷くための石を取り寄せて献上した。この時、質のよい石を集めるために、石1個につき米一升が与えられたことから「一升石」と呼ばれたという。さらに、これらの石は1個ずつ真綿でくるんだ上で俵に詰めるという念の入れようで、その石俵が2000俵献上されたのだった(仙洞御所南池州浜に現存)。仙洞御所に招かれた忠真に対し、光格上皇みずから、在位中に使用していた唐の硯を褒美として与えている。

 一方、仁孝天皇即位(同年9月)に際しては、御所の周りの警固に際して、忠真家臣の装束や統率が優れていただけでなく、みずからも兵庫鎖の白太刀を佩(お)びて参内し、こうした太刀は見たことがないと京人の間で評判になった。これを聞いた関白一条忠良がぜひ拝見したいというので、袋に入れて差し出したところ、その袋さえが古式に叶うように誂えてあったので、忠良はじめ朝廷までが、感心したという。さらに和歌の面でも、その秀逸さから、忠真は「霞の侍従」または「曙の侍従」と称されたといい、京都での忠真の評判は上々だった(松浦静山「甲子夜話」)。

  賑へる 都の民の 夕けぶり 冬ものどかに 霞むとぞ見る(「甲子夜話」収録)

老中としての忠真

 翌文政元年(1818)老中となる(忠真38歳)。老中就任の命を受けた忠真は、京都所司代の職引渡しを済ませて江戸に向かう途中、小田原酒匂川に領内の村役人を集め、六か条の教諭をおこなった。このときの教諭内容については、触書の形で、のちに領内の村むらと小田原の町方に配布された。
 内容を略記すると、@風俗を慎み・・、A奢りを慎み、B本業に励み・・、C分をわきまえ・・、D村役人は油断なく、何事につけ村内のことに心を尽くすこと、E藩役人が出郷の際は無駄な出費を避け、役威をもって無理難題を言われたら訴えよ、といったものだ。これが藩政改革の第二となる。

 この教諭とあわせ、忠真は領内の奇特人や孝人の表彰をおこなった。この時表彰されたのは72名、既に先年に表彰されたと記載された者を除くと実質35名になる。この中には二宮金次郎もいた。ときに忠真38歳、金次郎32歳だった。教諭の内容に感激した金次郎は、これを書き留めるだけでなく、筆写して知人に配っている。

 同じとき城内に訴状箱が設置された。場所は三の丸御用所門の前、隔月ごとの一日に置かれ、記名が原則だったので、効果がどれほどあったかは定かでない。

 翌文政2年には、難渋の村方を救うための「難村助成趣法」という、藩主導の無尽講・頼母子講(*)の類を企画した。内容は一回につき500両を集め(藩からは15両)、当たり籤(くじ)80両と経費30両を差し引いた390両を、難村に10か年季1割の利息で貸し付け、さらに貸付金の延滞補填のため、村むらから日掛銭を徴収するというもの。基本的には在地の資金に依拠した。また、文政3年には、家臣の救済のための貸付金制度を発足させ、同5年には小田原城内三の丸に藩校諸稽古所(のちの集成館)が創建された。

*頼母子講・無尽講:金銭の融通を目的とする相互扶助組織。組合員が一定の期日に一定額の掛け金をし、くじや入札によって所定の金額の融通を受け、それが組合員全員にいき渡るまで行うもの。もともとは信仰結社として鎌倉時代に発生し、のち相互扶助の金融システムとして江戸時代に普及した。

 文政7年浅田兄弟の敵討ちというのがあった。発端は足軽浅田只助が同僚の成滝万助に殺害され、その後万助が牢から脱走したことに始まる。只助の子鉄蔵(養子)と門次郎兄弟は、敵討ちの許可を文政3年8月藩主経由で幕府から得、4年の歳月をかけて水戸藩領(茨城県大洗町)に潜んでいた万助を探し出し、見事に仇を討った。水戸藩主徳川斉昭も、その後の兄弟の態度が立派だったことを激賞し、忠真も御家の外聞にもよろしいということで、鉄蔵を50石の知行取として正式の士分に取り立てた。

 中央政局に話を転ずると、忠真が老中となる前年、小姓上がりで側用人の水野忠成(タダアキラ)が老中となっていた。文化年間は老中松平信明や牧野忠清ら、いわゆる「寛政の遺老」によって改革の政治基調が堅持されていた。しかし松平信明死後、将軍家斉は忠成を側近として親政、「水の出てもとの田沼になりにける」と風刺されたように再び賄賂政治がはびこることになる。忠成が行った政治に金銀の改鋳(純度を下げた)がある。これは幕府に莫大な財政収入の増大をもたらしたが、折からの商品生産拡大・流通規模拡大で社会的な貨幣需要の増大があり、幸いにも物価騰貴や金融市場の混乱には至らなかった。しかし、家斉が大奥で羽根をのばして多くの側室・子どもを設けたため、忠成は将軍家の婚姻斡旋に力をそそいで出費がかさみ、幕府財政はかえって悪化していった。賄賂政治の横行も、こうした婚姻斡旋で忠成に権力が集中したことによる。

 忠真はといえば、忠成とは距離を置いていたとみられる。かつて、寺社奉行時代には松平定信に教示を受け、定信に連なる人脈として孤立していた面があったのではないかと想像される(小田原市史・通史編)。水戸藩主徳川斉昭も、幕府内部で硬骨漢と評判の忠真に期待した一人だった。斉昭は忠成の不正を弾劾して幕政の刷新を促したが、忠成はつねに油断なく用心しているので手を下すわけにはいかない、と忠真は述べている。また、天保5年(1834)忠成が死去した際も、世間では「水野引き加賀出て困る林かげ」と落書が詠われ(林かげは若年寄林忠央)、それはそのまま忠真(加賀は忠真の官途名)への期待を表すものだったが、やはり忠真は手出しができなかった。このときには、忠成に代わって後に天保改革を行う水野忠邦が老中となり、忠成のやり方を踏襲していた。われらが忠真は天保6年には老中首座となったが、翌年には病に倒れた。この間、天保大飢饉(天保4〜8年)が発生しており、何よりも飢饉対策に終始してしまっていたのだろうか。

 老中の職にあった忠真は、積極的に人材の登用をはかったことで知られる。大坂町奉行・勘定奉行・江戸町奉行を歴任し水野忠邦の天保改革に反対した矢部定謙(サダノリ)、樺太探検の間宮林蔵、ペリー来航以後勘定奉行として幕末政局に活躍した川路聖謨(トシアキラ)などだ。聖謨が晩年に著わした「遊芸園随筆」の中で、忠真の人物像を回顧している。忠真について世間の人々が感服していることが三つあったという。第一にすべてのことを直裁にして少しも家臣の手にかけないこと、第二に書き物さえも祐筆の手に委ねないこと、第三に少しも遊山がましいことに興味を示さず御用向きばかりに励んでいること、の三つだ。逆に聖謨は、その一途さが忠真自身の体を蝕んで病を引き起こすのでは、と懸念したという。不幸にしてその予感は的中してしまった。

 藩政に話を戻そう。藩財政は忠真の時代にはさらに悪化していた。忠真は勝手方役人を上方や江戸に派遣して、借入先の多くの商人に対し、元金据置き・利息引き下げ・新たな低利の融資等を、個別にかつ粘り強く交渉させている。一方で「融通積金趣法」という、先の「難村助成趣法」と同じくやはり無尽講・頼母子講の類を藩として主催し、借金の返済に充当しようとした。これには伊豆韮山代官所も関与している。後には、「大成積金趣法」「惣益積金趣法」といった家中をも対象としたもの(前者)、江戸商人をも対象としたもの(後者)、さらには「上方趣法」として上方商人を対象としたものまで、手を広げている。こうした無尽・頼母子講的な趣法は、集まった金(万両単位)を返済や、積極的な運用に宛てるということでは、単なる借金の積み重ねよりましだったが、満会(趣法の払い戻し時期)の際にはそれらのツケを一挙に清算しなければならない、という点では一時しのぎにしか過ぎなかった。

 文政11年(1828)、忠真は御勝手向きの改革を宣言した。藩政改革の第三となる。積り積った借財の減額を最優先課題とし、藩財政を再建するためで、財政収支という「土台」を定め、それに応じて10か年の間、上下あわせて一層の倹約に努めようというものであった。この改革では、藩役人の大量削減と役職の再編が行われた。

 一方、先の「惣益積金趣法」だが、幕府は表向きこうした武家講を計画すること自体を禁止していた。この頃、武家講の摘発は上方において厳しく、のちに幕府に反旗を翻すことになる大塩平八郎が摘発を担当していた。そのため幕閣にまで広がる金権体質への批判が蜂起の一端であったという。そうしたこともあり、天保3年(1832)小田原藩は「惣益積金趣法」の破講を決定した。破講は出資者に対する打ち切り金を支払うことで話しが進められ、これが掛け金よりも少ない金額に設定されていたため、借金は二万両ほどが一時に消滅したという。

 天保4年(1833)から同8年まで全国的に天保大飢饉が発生した。これは冷害を要因とした飢饉で、特に東北地方で被害が甚大だった。小田原藩でも、天保4年8月の大風雨によって諸作が大荒れとなり、領内の村から8割方の「検見願い町歩」があり、見分の上で三分五厘(35%)が免除されたという。大飢饉ピークの天保7年には、小田原でも、3−7月まで雨が断続的に降り続き、夏でも袷を着るほどだったという。さらに8月には大風雨が重なって、大凶作を引き起こした。そのため、「検見願い町歩」も95%に達した。藩はこれに対して40%の減免を認めているが、所によっては暮らし向きが立たなくなり、仙石原村では4割の家が離散したという。しかも米価が全国的に高騰し、世上不安を反映して、藩領に隣接する大磯宿では大規模な打ちこわしが起こり、甲州郡内地方で起こった一揆に対しては、幕府の要請を受けて藩兵を出動させている。天保8年(1837)忠真は、こうした状況を打開するため、二宮金次郎に対して領内における報徳仕法の施行を正式に命じた。

 しかし、忠真は天保7年後半から、口中の病(悪性の腫瘍か)を発して床に伏せり勝ちだった。金次郎に仕法の実施を命じたときには、直接声をかけるつもりだったが、目通りすら叶わない状態だったという。こうして3月、忠真は江戸藩邸で帰らぬ人となった。世上では「小田原がばったり消て元のやみ」という落書が詠まれたという。忠真を小田原提灯に見立て、その灯りが消えて元の闇にもどってしまったというのだ。幕閣の最高責任者となってまだ二年もたっていなかったが、結局は文政期の幕政は水野忠成と共に運営していたことは間違いなく、それまでの政治路線を自身で改革するには限界もあり、また天保飢饉のさなかもあって手腕を振るう段階にも至っていなかった。

 忠真の死後5月に、家督は摘孫の仙丸(のちの忠愨(タダナオ))が9歳で継いだ。

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