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2.律令制

 律令制的行政区画として相模国が成立する以前、神奈川県地域では、大きく三つの版図に分かれていたという。先代旧事本紀(センダイクジホンギ)に伝える相武国造(サガムノクニノミヤツコ)の支配する相武国、師長(シナガ)国造の支配する師長国、及び古事記(景行記)に見える鎌倉別(カマクラワケ)の国だ。

 このうち師長国は一般に足柄平野に比定されている。相武国は相模川流域に展開した。師長国は相武国に比べると、質・量ともに劣っていたのは確からしいので、畿内王権によって師長国は相武国に合併され、相模国が成立したと考えられる。

 大化改新以後整備されていく律令体制の中、国境が定まり、評(コオリ)が置かれていった。大宝律令が施行された大宝2年(702)に評は郡(コオリ)となり、いわゆる国郡制となる。郡の下に里(リ)が置かれ、里は50戸(戸は大家族)で構成された。霊亀元年(715)から天平12年(740)の間は郷里制に変更され、従来の里を郷、その下に従来とは異なる里を置いた。下記「相模国封戸祖交易帳」はこのときのものだ。天平12年頃には、新しい里は廃され、郡郷制に変化し、これが長く続く。

 相模国は8郡67郷から構成されていた。小田原市域の郷の比定地は次の通り。


比定地封戸
足上(アシノカミ)郡高家大井町

桜井市北部

岡本市北西部から南足柄市舎人親王封戸

伴郡(大伴)東大友・西大友四天王寺封戸

余戸


駅家(坂本駅)南足柄市関本
足下(アシノシモ)郡高田高田舎人親王封戸

和戸早川?法隆寺封戸

飯田飯田岡

垂水真鶴町・湯河原土肥?光明皇后封戸

足柄箱根町

駅屋(小総駅)国府津?
余綾(ヨロギ)郡中村羽根尾から中井町光明皇后封戸
*史料は「相模国封戸祖交易帳」、「倭名類聚鈔」(ワミョウルイジュウショウ、10c)による

 なお足柄平野には、古代の条里制が施工されていたらしいことが指摘されている。昭和60年高木勇夫は空中写真、大縮尺図、地籍図によって、条里制地割と認定できるものを抜き出して、その分布図を作成した。それによれば、酒匂川左岸一帯(永塚・千代・高田・中里・酒匂・小八幡など)に集中し、同右岸ではわずかに中曽根・久野地域に検出されるという。

 このため永塚・千代・高田・中里地区は奈良・平安時代、足柄地方でもっとも繁栄した地域であったと推定されている。事実、発掘調査が行われるたびに竪穴式住居や井戸址などの遺構が次々と掘り出されており、かなり広範囲にわたる集落が展開していたのは確かだ。

封戸

 封戸(フコ)とは、皇族・上級官人・社寺などに対し、食封(ジキフ)に指定された戸のことで、位階にもとづく位封、官職による職封がある。天武天皇はその5年(676)、諸王・諸臣の封戸を東国に集中する政策を採った。理由は封主との直接的な関係を結ばせず、天皇が律令的支配を及ぼすことにあった。

 正倉院文書所収、天平7年(735)の「相模国封戸祖交易帳(サガミノクニフコソコウエキチョウ)」は相模にどれだけの封戸が設定されていたかを記したものだ。なお、交易帳によって倭名類聚鈔や延喜式以前の相模国8郡が初見となる。

 交易帳によれば、舎人親王(天武天皇の子で日本書紀編纂者として有名)は封戸の推定総支給2500戸のうち300戸(六郷分)が相模国にあり、足上郡の岡本郷、足下郡高田郷、余綾郡の郷不明3郷、所在不明1郷の計6郷となる。光明皇后(聖武天皇后)の封戸は足下郡垂水郷と余綾郡中村郷に100戸置かれていた。他に四天王寺封戸が足上郡大伴郷、法隆寺封戸が足下郡和戸郷にそれぞれ50戸づつ置かれている。

部曲

 足柄平野における部曲(カキベ)の設置状況は、足上郡に大伴部、丈部(ハセツカベ)、君子部(キミコベ)、足下郡に丹比部(タジヒベ)が存在した。

 丈部は阿倍臣の支配した部民という説や、使部(ツカイベ)・駆使丁(クシチョウ)の前身とみて宮廷や官司の雑用に使役された部民と見る説、大王の命令を地方豪族に伝達する役割を持つ部民と見る説、「杖部」とも書くことから稲荷山古墳鉄剣にある「杖刀人」のように大王の軍事的性格の強い部民など諸説がある。丈部を名乗る人はこの地に多く、丈部小山(余綾軍団の小毅)、丈部造智積(足上郡、孝行を表彰された)、丈部人上(足上郡郡司主帳代)などが見える。

 足上郡大伴郷には大伴部が居住していたと考えられる。大伴部は大伴氏を伴部(トモノミヤツコ)とする朝廷の親衛軍で、交替で朝廷の警備等にあたった。関東だけで人名が明らかな者は36人を数える(当地には明らかな者はいない)。

 君子部や丹比部は天皇家の経済基盤たる子代であったと思われるが、一方で君子部は投降・服属した蝦夷に多数与えられた姓で、彼らは俘囚と呼ばれ、組織化された。足上郡の君子尺麻呂という人は丈部造智積と共に孝行を表彰されている。足下郡丹比部国人(防人上丁)という人は万葉集に防人歌がある。

古代交通

 五畿七道制は、大宝令の制定を契機として、駅伝制を持つ官道として整備されていったものだ。官道三十里(約16Km)ごとに駅家が置かれた。東海道は駿河国横走駅(静岡県御殿場市)から足柄峠を越えて相模国に入る。

 足柄峠を越えて最初の駅が坂本駅(南足柄市関本)、そこから小総駅に至り、箕輪(平塚市四ノ宮付近か)、浜田(海老名市浜田付近か)、武蔵国店屋(東京都町田市)へと達していた。小総駅の正確な位置は不明だが、大和物語に「海辺になむありける」とあって、市内酒匂から国府津の辺りにあったと思われる。

 早くには「新編相模国風土記稿」が酒匂村を小総駅の比定地としたが、鎌倉時代に入る頃に酒匂宿の名が「吾妻鏡」他に見えることから、さかのぼって平安時代にすでに宿駅として発達していたことを推定したと思われる。
 しかし、古代の官道が平野部では直線ルートであったこと、市内千代台地付近が当時の先進地域であったと考えられることなどから、坂本駅から足柄平野を横断して千代に至り、小総駅に通じていたとすると、小総駅の比定地は国府津付近となる。また、坂本駅から狩川に沿って南下し、酒匂川との合流地点で東に折れ、小総駅に通じていたというルートも考えられ、飯泉から国府津に向かって直線にのびる巡礼街道が古代条里に由来するという可能性もある。この場合も国府津が小総駅の比定地となる。
 なお、小総駅の位置を国府津付近と考えると、その故地として国府津森戸川周辺に展開する三つ俣遺跡が想定される。

 坂本駅や小総駅の運営については、在地の有力者が駅長となり、駅屋郷の農民が駅戸となって、駅馬を引いて待機し、駅使を次の駅まで送り、食料を供給した。駅戸は徭役(庸と雑徭)を免除されたが、一般の公戸より負担が重かった。また、駅制を補完するために伝馬の制度があって、国衙と郡衙を結び、駅馬が緊急を要する連絡に使われたのに対し、伝馬は国司の赴任など日常の用途に使われた。

千代廃寺

 千代遺跡では多くの古瓦を出土し、「千代廃寺」と呼ばれて、かねてから神奈川県内には数少ない古代寺院址と想定されていた。本格的な遺構確認のための発掘調査は、昭和32年から神奈川県・小田原市共催により4次にわたって実施された。結果は、千代大地の一角に8c始めの頃(奈良時代始め)に、瓦を使用した建築が作られ、それは奈良時代を通じて存在した後、火災で失われたと見られる。これが寺院と称すべきものであったかどうかは決められないが、仏像破片、瓦塔などから、仏殿と考えられるものがあったことは確実である、ということだった。

 なお、千代廃寺が東大寺式伽藍配置の大規模な寺院で国分寺址、と主張したのは堤雄半という人で、昭和18年刊行の「郷土神奈川・相模飯泉観音」の中だった。この号では千代廃寺について、様々な人が多角的な考察を加えている。
 堤説は、国分寺は国府近傍に置かれるケースが多いことから、すなわち国府址ということになる。相模国府は12c中頃大住郡から余綾郡に移ったことが分かっている。大住国府は伊勢原市内や秦野市内に比定する説があったが、現在では高林寺遺跡など官衙関連施設と考えられる遺跡が複数存在する平塚市四ノ宮付近とする説が有力だ。一方、余綾国府は大磯町国府本郷に比定されている。
 つまり、国府址というのは大住国府に先行する初期国府を想定しているのだ。その所在地として高座郡(海老名市)と足柄下郡説が古来より出されている。これらの説が背景として想定しているのは、弘仁10年(819)の国分寺火災や元慶2年(878)の関東大地震ということだが、いずれも明証を欠いている。

 現在有力なのは、千代廃寺は郡衙(グンガ)に伴う郡寺だったろうという指摘だ。近隣の下曽我遺跡からは、昭和30年代に官衙遺構を思わせる発見があった。ひとつは、井戸址から発見された木簡で、米の貢進に用いられた付札木簡の可能性が高く、そこは官衙施設ではなかったかということだ。いまひとつは、8cの則天文字(則天武后が690年制定した独特の文字郡)を記した墨書土器で、一般に官衙・寺院関係遺跡から出土する例が少なくないという。

 千代廃寺と飯泉観音が関係ありという話がある。称徳天皇(元孝謙天皇)に寵愛された道鏡が下野薬師寺に左遷されたときの話だ。飯泉山勝福寺縁起によれば、道鏡が関東に下向したとき、足柄下郡千代郷に到泊し、大地の静かなさま、人民の純粋さに感動したので、ここに称徳天皇から賜った観音像を安置する金堂を建てようとした。そして金堂・講堂・仁王門を創建し、寺を勝福と号した、という。それから60年後、千代の百姓の夢見から酒匂川・狩川の合流地点が交通の要所で、仁王般若の法にもかなうので、ここに移転することになった、と述べる。要するに千代廃寺とは、道鏡の建立となる元の勝福寺ということになる。

 勝福寺縁起が江戸時代に成立していることから、多分に創作された話のようではあるが、道鏡と千代の地がまったく関係ないわけでもない。千代は足下郡高田郷に属したと思われるが、その隣には足上郡大伴郷が位置し、大伴郷は四天王寺の封戸だった。道鏡政権の下では、その四天王寺に対しては各所に封戸を与えるとか、その家人及び奴婢に爵を給うなど、特別な待遇を与えていた。そのわけは、四天王寺にはかつて蘇我氏に滅ぼされた物部氏が奴婢として入れられており、弓削氏(道鏡の出身の氏)と物部氏は姻戚関係にあったからだ。そういうわけで、道鏡にとって千代周辺は、多少のつながりがある土地柄だったようだ。

律令制下の軍団

 律令制下の軍団制は、正丁3〜4人のうち1人を兵士として徴発し、各地の軍団で軍毅(グンキ)という指揮官のもとで訓練を行い、その一部は衛士(エジ)や防人(サキモリ)として京や九州に送った。相模国には余綾(ユルキ、ヨロギ)郡と大住郡に軍団が置かれていた。

 防人については制度的変遷があり、元来東国の兵は勇猛と思われており、東国を主な供給源としつつも、西国や北陸道からも徴発されていたが、天平2年(730)以降はもっぱら東国からのみ派遣されることになった。同9年いったんそれが廃止されたとき、足柄峠を1000人を超える多数の防人が越え、相模国へは230人の防人が帰ってきた(駿河国正税帳)。その後天平勝宝年間(749-57)に再び東国防人が復活するが、結局彼らの生活が成り立たないことから天平宝治元年(757)に再度東国からの徴発を止め、現地調達主義に転換した。

 ところが、東国の農民が防人役から解放された直後、天平宝治2年から対蝦夷軍事行動が活発になる。この年、坂東の騎兵、鎮兵、役夫、夷俘を徴発して桃生(モノウ)城(宮城県)・雄勝(オガチ)柵(秋田県)を作らせよという命令が出された。その後、宝亀5年(774)桃生城が蝦夷に侵されると、多賀城(宮城県)を拠点として征討活動が活発化する。こういう状況下で坂東からは多くの農民が兵士として徴発され、また軍需物資が徴発されていった。

 そのため、坂東諸国では一般農民の窮乏が激しくなり、兵士は弱体化してもはや戦いに堪えなくなったため、延暦11年(792)農民兵で構成された軍団兵士制は一部の地域を除いて廃止された。代わって郡司子弟からなる健児(コンデイ)制が施行される。相模国でも余綾・大住の2団が廃止され、100人の健児が国府や兵庫などの守衛にあたることになった。

足柄関

 嘉祥元年(848)上総国で俘囚(フシュウ)の反乱があった。この反乱に対して上総国ばかりでなく、相模など五国に対して兵士の派遣が命じられた。この反乱はすぐに鎮圧されたようだが、その後も坂東各地で移配した俘囚の反乱や群党の蜂起が繰り返し引き起こされた。近隣諸国でのこうした動きに相模国の兵が動因されたことはしばしばだったろう。9c以降には軍団は廃止されているので、国司が徭役として臨時に徴発したと考えられる。

 こうした俘囚の反乱を含めた対蝦夷軍事行動において、就馬(シュウバ、正しくはニンベンに就)の党が登場する。軍役から逃れ、駄馬による運送活動を行って成長した坂東諸国の富豪の輩であった。彼らは東海道・東山道の間で運輸に携わり、時として略奪行為(駄馬を)にも及んだ。彼らが出現する背景には、蝦夷征討だけでなく、調物の都への貢上方式がそれまでの律令制的運脚制から駄馬や舟運を利用した請負制へ変化していたことが推測される。

 昌泰2年(899)就馬の党の出現によって、東山道の碓氷と、東海道の足柄に関が置かれることになった。関所の設置により、治安もある程度回復したようだが、その後も武蔵など各地に群党が出没し、足柄関が以後も存続したことから、治安回復は容易ではなかったものと考えられる。