10.北条氏時代の小田原城、支城制の展開、北条宗哲

北条氏時代の小田原城

 北条時代初期の小田原城本丸は、現在の小田原城があるところから東海道線をまたいだ八幡山古郭のうち「本曲輪(ホングルワ)」と呼ばれる部分だ。現小田原高校キャンパスの平坦部がその中心部と見られる。この八幡山古郭からは、北条氏の築城技術の特徴を示す障子掘(ショウジボリ)が発掘されている。おそらく大森氏時代も、この本曲輪部分が居館と要害を兼ねていて、北条氏もこれを継承したと思われる。

 北条時代初期までは城郭部分と町場部分が空間的に隔離していたと思われる。一般に戦国大名ははじめから城と町を一体的に建設したのではない。要害としての城の近くに新しい市を開設して町場を作ったり、城の縄張りを拡大して町場に接近するよう両者を併合させていく、という形が普通だったのが近年の研究で次第に明らかになってきた。小田原の場合は後者にあたり、これは町場部分がもともと宿駅として発達してきたからだ。永享4年関東公方足利持氏の御教書他に「小田原関所」とあって、室町時代中期に小田原は宿として重要性を増し、関所が設けられていた。このため、小田原宿は海辺に近い箱根道に沿って展開し、もっとも古い中心は松原神社前の宮前町付近だった。大森氏時代の城郭は何より軍事的要害であって、その後北条時代に城の縄張りが町場に接近していったと考えられる。

 小田原城が第一期の八幡山古郭から現在の本丸・二の丸を含む地に移ったのは、氏綱または氏康代のいずれかだろう。氏綱死去の10年後の天文20年に小田原を訪れた南禅寺僧東嶺智旺は、太守の塁・高館の壮麗さに驚き、三方に大池有り、と記している。当時城郭の三方が低湿地で自然の沼地があり、それに囲まれて城郭があったことになる。つまり、この時点で城の中心は八幡山古郭から現在の地へ移っていたと考えられる。これが第二期と捉えられ、現在の本丸・御用米曲輪・二の丸一帯を含む。

 三の丸が設けられたのは4代氏政のときだ。永禄12年武田信玄が小田原を攻囲した際、氏政は二の丸総構でこれを防いだが、信玄は蓮池に攻め込み、城下に放火していった。この苦い体験から、氏政は二の丸の外部に三の丸を設け、その外側に堀をめぐらせて三の丸総構とした。三の丸には侍屋敷だけでなく、町屋の一部も取り込まれた可能性があり、戦国の城郭として他に類を見ない規模だった。

 さらに氏直代には、秀吉の惣無事令が発令された天正15年以降、特に秀吉の来襲が決定的になった同17〜18年にかけて、延長9キロという土塁で囲む大外郭が構築されていった。これは城郭と町場をもそっくり収まってしまう巨大なものだ。

支城制の展開

 北条氏は氏綱以降の領国の広大化に伴い、支城制を展開した。支城を中心として一定地域を管轄し、領域支配を行った。支城は軍事拠点であると共に、本城小田原から行政機能を部分的に分与された。北条氏の支城は無数にあるが、その主なものを見てみよう。

(本城小田原城)

 本城小田原城は直接の支配地は相模国西郡・中郡だが、御馬廻衆と小田原衆によって本城と伊豆国の軍事を支配し、すべての支城を総括した。

 相模西郡郡代には石巻氏、相模中郡郡代には大藤氏が充てられている。伊豆国行政は支城韮山城が管轄し、伊豆口郡郡代に笠原綱信、伊豆奥郡郡代に清水氏が充てられた。

 小田原衆筆頭は北条一門に準ずる一族の家格を与えられた松田氏だ。その総知行高は2800貫文に及び、一門の北条宗哲に次ぐ第2位だ。その出自は幕府奉公衆でもある備前松田氏一族の松田盛秀といい、憲秀はその子。憲秀は筆頭家老として軍事・外交に活躍したが、小田原合戦に際して子の政堯が豊臣方に内応しようとして発覚、成敗され、憲秀は監禁された。開城後、憲秀も秀吉に不忠を咎められ、切腹させられた。

 松田氏には他に、北条氏の進出以前からの国人松田氏がいて、宗瑞の相模国西部進出にあたって大きな役割を果たしたと伝えられる。その直接の後継者は松田康隆と考えられる。

 松田康長は御馬廻衆で総知行高は700貫文。松田憲秀の叔父康定の嫡子。父康定は憲秀の一族・同心衆として編成されているが、康長は氏康の側近家臣として新たに取り立てられ、本宗家から自立した存在になったとみられる。小田原合戦に際して、伊豆山中城の守将をつとめ戦死した。

(玉縄城)

 玉縄城(鎌倉市)は永正10年(1513)宗瑞により、扇谷上杉朝良方の三浦氏を追った(同9年)後築かれた。。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえとしての役割を担い、堅城として知られた。当初氏綱の弟氏時が城主となり、享禄4年(1531)氏時が死去すると、氏綱の三男為昌(当時12歳)がこれに代わった。三崎城・小机城・江戸城・河越城も為昌の管轄下に入れられた。また為昌の下で、綱成(氏綱の婿養子)が玉縄城代、河越城は為昌自身が城代、河越城代官大道寺氏・三崎城代官山中氏・小机城代官笠原信為・江戸城代官遠山氏らが為昌を補佐したと見られる。こうして、為昌の管轄する地域は、相模東半分と武蔵河越を加えた広大なもので、氏綱の時代では嫡子氏康に匹敵するほどの重要な役割を与えられたことが窺える。為昌は天文11年(1542)に23歳という若さで没し、家督は綱成が継いだ。為昌以降の家系を玉縄北条氏という。

 綱成は、父が今川氏家臣の福島正成ということだが、定かでない(黒田基樹や小和田哲男はそういう人物は存在しないとしている)。氏綱は綱成を大いに気に入り、娘を娶わせて北条一門に迎えるとともに、北条姓を与え、氏康代にもその信頼は変わることがなかった。北条氏の「北条五色備え」の「黄備え」を担当、天文15年(1546)の河越夜戦では、半年余りを籠城戦で耐え抜き、この功績で河越城主も兼ねることになったとされる。その後も北条家中随一の猛将として活躍した。元亀2年(1571)氏康が病死すると、綱成も家督を子の氏繁に譲って隠居・剃髪して上総入道道感と名乗った。天正15年(1587)病のため死去。

 氏繁も父同様武勇に優れ、永禄4年(1561)上杉景虎(第1回越山)や永禄12年(1569)の武田信玄の侵攻に際しては、玉縄城に籠城して守り抜いている。氏康からの信任も厚く、下総方面の軍権を任された。天正6年(1578)対佐竹氏の最前線、下総飯沼城中にて病死。後を子の氏舜(その死後は弟の氏勝)が継いだ。徳川氏の時代になってから、玉縄城は家康側近本多正信の居城となった。

(小机城)

 小机城は当時の武蔵国橘樹郡小机郷(横浜市港北区)にあって、最初に歴史に登場するのは享徳の乱の最中文明年間という。その後廃城となっていたが、北条氏綱の手により修復され、笠原信為が代官として配置され、小机衆が組織された。為昌が玉縄城主となった際、小机城もその管轄下に置かれた。為昌が死去してからは、小机・三浦領は幻庵宗哲が継承した。すなわち、宗哲の嫡男三郎が小机城主となったが、永禄3年死去した。三郎には子がなかったため、小机城主は氏康の弟氏堯に継承された。氏堯は早くから宗哲の後見を受けており、そのため小机城主になったとみられるが、数年のうちに死去したと推測され、その後は三郎の弟氏信が小机城主となった。

 永禄11年武田氏が駿河に侵攻すると、北条氏は今川氏真救援のため、氏信を前線拠点蒲原城に派遣した(同12年)。しかし、蒲原城は武田氏の総攻撃にさらされ、氏信とその弟融探をはじめ城兵はすべて戦死した。小机城主はその後、氏康の子で宗哲の末娘の婿となった氏光が継承した。氏光は北条氏の有力な御一家衆として活躍し、小田原合戦後は当主氏直に従って高野山に赴き、その直後同地で死去した。家康の関東入府に際し、小机城は廃城となった。

(江戸城)

 扇谷上杉氏の家宰太田道灌の築城になる。大永4年(1524)北条氏綱は扇谷上杉朝興方で江戸城を守っていた太田資高を内応させ、同城を攻略した。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路の要衝だった。玉縄城主為昌の管轄下に、代官遠山氏(*)が実質支配して、江戸・下総葛西を管轄した。永禄年間前半までは北条領国の最前線基地だったが、岩付城が北条氏支配下になると、その地位を岩付城に譲る。

 氏政は天正11年以降武蔵国・利根川水系・常陸川水系の支配を確保し、流通・交通体系を支配を確固たるものにするべく、江戸城を隠居城として政務を執る構想があったとも言われるが、実際には氏政は以後も小田原に居住しており、具体化には至らなかったようだ。

*遠山綱景は江戸衆筆頭、江戸城代を勤め、北条一門に準ずる一族の家格を与えられ、所領役帳では総知行高2050貫文で松田氏に次ぐ三位。宿老として江戸地域の領域支配、軍事・外交の多方面で活躍、永禄7年国府台合戦で戦死、子孫は代々宿老として江戸城将をつとめている。
 また、富永康景は江戸衆として4人の城将の一人で、所領役帳で総知行高1380貫文に及ぶ(役帳中8位)。幕府または鎌倉府奉公衆として宗瑞の伊豆進出以前から、伊豆国西土肥(静岡県土肥町)を本領としている。軍事行動で多くの活躍をしたが、永禄7年国府台合戦で遠山綱景と共に戦死、家督は嫡子政家が継承し、江戸城将をつとめている。

 小田原合戦後、家康が本拠とするため入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した比較的小規模で質素な城であった為、開幕までにそれまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築。また道三掘や平川の江戸前島中央部(外濠川)への移設、それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りを行った。

(河越城)

 河越城は江戸城とともに、扇谷上杉氏の家宰太田道灌が手がけた堅城だ。長く扇谷上杉氏の居城だったが、氏綱により天文6年(1537)攻略された。当所氏綱の三男為昌が玉縄城主兼河越城代、大道寺氏が代官となってこれを補佐した。氏綱が没し氏康への当主交代を捉え、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定は連合して河越城を攻めたが果たせなかったとみられる。翌年上杉憲政は鹿島神宮に願文を捧げ、氏康討滅を祈願している。一方、対両上杉戦略の先鋒であった河越城代為昌が病のため23歳という若さで死去、河越城は氏綱の女婿北条綱成が玉縄城主兼河越城主となって防備を固め、大道寺氏が城代となった。綱成は地黄八幡(黄備*)の闘将として知られ、大道寺氏の部隊は河越衆と呼ばれる。

 天文14年(1545)今川義元が富士川以東の河東地域奪還を目指し、駿河国駿東郡長久保(長窪)城を包囲、同盟関係にあった武田信玄も今川方として参戦した(**)。この動きに呼応し、義元と同盟していた山内上杉憲政は、再度扇谷上杉朝定と共に出兵し河越城を攻撃した。窮地に陥った氏康は、富士川以東の地を放棄することを条件に、義元と講和した。一方憲政は古河公方足利晴氏にも河越出陣を要請、晴氏はこれに同意し、小山・宇都宮・那須・佐野・佐竹・小田・結城ら関東諸氏の軍勢も晴氏の下知に従って参集したため、その総数は8万という大軍に膨れ上がった。しかし戦況は小康状態となり、北条勢は籠城戦で抵抗した。

 翌15年氏康は8千の兵で河越救援の軍を起こし、憲政に籠城兵3千の助命に代え、城を明け渡す旨の交渉を行った。これを計略とみる憲政は断固拒否、北条軍に攻めかかったが、氏康は戦わずに兵を引かせた。そのため上杉軍は北条軍の戦意は低いと判断し、自軍の兵士が多いということもあって楽勝気分が漂っていった。4月20日未明、氏康は兵の鎧兜を脱がせて身軽にさせ、上杉連合軍に突入、上杉軍は大混乱に陥り、扇谷上杉朝定が討死、上杉憲政は敗走した。城内で待機していた綱成はこの機を捉え、足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入、足利軍も散々に破られて敗走した(河越夜戦(ヨイクサ)という)。

 これにより扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏はのちに長尾景虎のもとに逃亡することになった。古河公方足利晴氏も、後に家督を氏綱の孫にあたる義氏に譲って引退、没落した。こうして古河公方・関東管領という旧勢力が実質的に消滅、北条氏は武蔵一円を領国化、次いで上野支配に乗り出していく。

 天正18年小田原合戦に際しては、河越城将の大道寺政繁は上野国碓氷峠を越える街道上の松井田城(群馬県松井田町)まで出陣して、上杉景勝や真田昌幸ら北国勢に対したが、結局降伏、政繁は降人となり、以後北条方諸城の案内役として前田らに協力したと伝えられる。松井田陥落により、上野の防衛体制は一挙に崩壊した。政繁は前田利家に助命されたものの、秀吉はこれを許さず、氏政・氏照・松田憲秀とともに切腹させられた。

*北条五色備え
 笠原康勝(白備)、多目元忠(黒備)、富永直勝(青備)、北条綱高(赤備)、北条綱成(黄備)。

**北条氏と今川氏とは従来密接な政治関係を築いてきたが、天文6年義元はそれまで対立関係にあった武田信虎との同盟へと外交政策を一転させ、信虎の娘を正室に迎えた。この挙に怒った氏綱は同年駿河に出陣、河東地域を支配下に収めた。この抗争を「河東一乱」と呼ぶ。同14年(1545)義元は河東地域の奪還を企図して出兵した。

(岩付城)

 岩付城(埼玉県岩槻市)は、「岩槻市史通史編」によれば永享の乱のとき、扇谷上杉方の軍事的施設が置かれていたとしている。天文15年河越合戦により太田資時(資時死後は弟資正)は北条氏傘下に入ったが、永禄3年(1560)長尾景虎越山に際し、資正は直ちにこれに呼応した。永禄7年資正の子氏資が反北条を唱える父資正を追放して岩付城主となる。永禄10年氏資が戦死すると、氏資の娘を娶って太田氏の家督を氏政の子源五郎(氏直の弟)が継いだとみられ、北条氏の直轄領となった。しかし、源五郎は天正10年(1582)死亡、次いで氏房(源五郎のさらに弟、未亡人である氏資の娘と婚姻を行った可能性もあるが定かではない)が城主となった。

 小田原合戦に際しては、岩槻城は家臣に守らせ自身は小田原城に籠城した。岩付城は小田原城開城に先立って5月20日に陥落、氏房は小田原陥落後、氏直に従い高野山に入るが、のち肥前唐津城主寺沢広高に預けられ同地で死去した。

(八王子城)

 北条氏照により元亀2年(1571)頃より築城される。典型的な中世の山城で、縄張りは東西約3km・南北約2〜3kmの広大な範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用している。

 氏照は氏康の三男で、国人大石氏に養子に入り家督を継承した。氏照ははじめ大石氏の滝山城(八王子市)に拠っていたが、天正15年(1587)頃八王子城を本拠とした。その領域は当所旧大石領の八王子周辺だったが、永禄4年頃青梅市付近に勢力を持った国人三田氏(*)が景虎越山の際景虎に従属し、後北条氏に滅ぼされたため、旧三田領を併呑して広大な支城領を形成した。さらに氏照は永禄11年下総栗橋城(茨城県五霞町)城主となっている。

*三田氏は武蔵勝沼城に拠った国人で、政定の時大永年間(1521-28)初頭に北条氏に従属、享禄4年(1531)には小田原に参府している。その子綱定は所領役帳に他国衆として酒匂郷に所領が見えるが、北条氏から在府料として充てがわれたものと推測される。天文22年に同郷代官として見える岡部出雲守広定はこの綱定の家臣だ。しかし、綱定は永禄3年(1560)長尾景虎の侵攻に伴い北条氏から離反、翌4年北条氏に滅ぼされた。

 永禄12年(1569)には、氏邦と共に輝虎方沼田城主松本景繁を相手として、越相同盟の交渉の窓口となった。また、奥羽伊達政宗とも濃密な外交関係を築くなどしている。同年10月武田信玄が小田原に攻め寄せた。小田原城を包囲した信玄は、城下に放火した後時を移さず小田原を退去するが、甲斐へ帰国途中、北条氏照・氏邦の北条軍と武田軍の間で三増峠(ミマセ、愛川町)の戦いが行われた。緒戦は北条有利に進展したが、武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転、小田原から追撃してくる氏政の軍勢は戦いに間に合わず、武田軍の大勝に終わった。

 小田原合戦に際して氏照は徹底抗戦を主張し、八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原に駆けつけ籠城した。戦後、秀吉から主戦派と見なされ切腹を命じられた。享年51歳。一方八王子城内には、城代の横地監物らわずかの将兵と、領内から動員した領民約3000人が立て籠ったに過ぎなかった。上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千に攻められ、小田原合戦中稀に見る激戦の末その日のうちに陥落したが、氏照正室を初め城内の婦女子は自刃もしくは御主殿の滝に身を投げた。城代横地監物は城を脱出後切腹した。後八王子城は家康によって廃城とされた。

(鉢形城)

 氏邦は氏康の4男で、河越合戦の後、国人藤田右衛門佐康邦の女婿となり、藤田氏邦を称した。当時、藤田氏は天神山城(埼玉県秩父郡長瀞町)を拠点として、その所領は広大だった。藤田氏を継いだ氏邦はその後、天神山城から鉢形城(埼玉県寄居町)に移り藤田氏領を支配したため、氏邦の所領はのちに鉢形領と称され、武蔵北西部に支城領を形成した。永禄4年長尾景虎の越山に際して、藤田氏は景虎に馳せ参じた派と北条派に分裂したらしい。景虎が麾下に属した関東諸将の幕紋を把握するため作成した「関東幕注文」の中に藤田氏が一族の飯塚・桜沢氏らとともに収録されている。

 天正6年上杉氏の内訌「御館の乱」に乗じて沼田城を入手、小田原の氏政・氏直は用土新左衛門重連(藤田康邦の子)を沼田城代に任じた。兼ねてより、氏邦は藤田氏領支配にとって重連を邪魔な存在と思っており、氏邦は沼田城において重連を毒殺した。これを知らない氏政は、後任の沼田城代に重連の弟信吉を任じた。一方、兄重連の死の真相を知った信吉は、みずからの将来に不安を感じ、真田昌幸の誘いに乗って武田勝頼に通じ、改めて勝頼より沼田領を安堵された。天正十年(1582)織田信長の甲斐侵攻で武田氏が滅亡、沼田領は信長家臣滝川一益に与えられることになった。これに反発した信吉は、越後に奔って上杉景勝に仕えるようになった。

 天正10年本能寺の変で信長が死ぬと、氏政・氏直は滝川一益を追い、信濃領有をめぐって徳川氏と抗争することになった。また、家康と連携した佐竹氏ら北関東諸将が上野・下野に侵攻するなどしたため、織田信雄の勧めもあって、北条・徳川両氏は和睦を結ぶこととなった。信濃佐久郡・諏訪郡は北条氏から徳川氏に割譲され、徳川方の真田氏が領有する上野吾妻・沼田二領は北条氏に割譲された。しかし、真田氏領の北条氏への割譲はただちに実行されなかった。

 天正14年秀吉は「関東・奥両国惣無事令」を発し、天正16年には秀吉は氏政・氏直いずれかの上洛を北条氏に要請した。これに対して北条氏は上洛の交換条件として、真田氏との沼田領問題の解決を要求した。秀吉は、北条氏が自力で沼田領を経略し得なかったという経緯を踏まえ、北条氏には同領の2/3のみを割譲し、真田氏が割譲する分の替地は家康が与える、旨の裁定を行った。

 しかし、天正18年氏邦の重臣で沼田城主となった猪俣邦憲が、真田氏に留保されていた利根川対岸の名胡桃(ナグルミ)城(群馬県月夜野町)を攻略した。立腹した秀吉は沼田領問題裁定に対する重大な違約行為として、ただちに氏政の上洛と事件の張本人猪俣邦憲の成敗を要求、さもなければ来春北条氏討伐することを表明した。氏直はなお言を左右したため、秀吉はついに北条氏追討を決意した。

 氏邦は小田原に参じたが、籠城戦に反対して大規模な野戦を主張して容れられず、鉢形城に戻って抗戦、しかし前田利家等の率いる大軍に攻められて降伏する。鉢形城攻撃には、途中から駆けつけた家康の家臣本多忠勝が持ち込んだ大砲が威力を発揮したという。当時の大砲は弾頭が炸裂するわけではないが、音がすさまじかったので城内はパニックになったらしい。氏邦は城兵の命と引き換えに開城した。このとき、上杉景勝の下にあった藤田信吉は、氏邦夫妻の助命運動を行った。一命を助けられた氏邦は、前田利家に預けられ、知行1000石を与えられて慶長2年(1597)病没するまで金沢で生きながらえた(享年57歳)。

北条宗哲(久野北条氏)について

 北条宗哲とその子孫は久野に居城し、久野殿と称された。宗哲は伊勢宗瑞の末子で、幼名を菊寿丸という。幼少のときより箱根権現に入り、その後継者に位置づけられていた。永正16年に隠居後の宗瑞から与えられた所領注文によれば、その所領は箱根権現領別当堪忍分、箱根権現領菊寿丸知行分、宗瑞譲与分から成り、知行高4400貫文にのぼる。大永2年(1522)から近江三井寺上光院(滋賀県大津市)に入り、同4年に出家、ほどなく帰国して箱根権現別当に就任したらしい(別当として確認できるのは天文3年(1534)〜同7年まで、前後の歴代別当は海実−宗哲−融山)。宗瑞は菊寿丸を箱根権現別当の地位につけ、小田原城支配のため、城域周辺の地を知行させたとみられる。箱根権現は小田原地域に広大な所領を持っており、その別当は室町時代以来、政治・軍事に大きな実力を持っていた。箱根権現領は宗哲が別当でなくなった後も、宗哲の所領としてその支配下におかれた。宗哲はその後久野に屋敷をもち、天正17年頃まで長寿を保って北条一門中で重きをなした。

 宗哲は二つの法名をもっていた。すなわち長綱と宗哲で、長綱は真言宗系の法名で、箱根権現は真言密教系と関わりが深く、箱根権現別当として見えている場合は長綱の法名を用いた。この法名は天文15年までの使用が確認されるにすぎず、以後は使用されていない。一方の宗哲は父宗瑞と同じく臨済宗大徳寺派の法名で、父宗瑞が「早雲庵」の庵号を有し早雲庵宗瑞と称したように、宗哲は「幻庵」という庵号を有し幻庵宗哲と称していた。

 箱根権現別当に就任したからといって、宗哲は単なる宗教人・文化人ではなく、北条氏の軍事行動の一翼を担う武将でもあった。天文4年甲斐山中合戦や同武蔵入間川合戦では氏綱・氏康・為昌とともに大将の一人として出陣している。天文11年為昌が死去すると、為昌の玉縄・三浦・小机・河越の所領のうち、義兄綱成が為昌の養子として家督と玉縄・河越の所領を継承し、小机・三浦の所領は宗哲が継承している。

 宗哲の発給文書は、直径6.5センチの「静意」の印判で、幻庵印判または久野殿印判と称され、天正9年までの使用が確認される。こうして甥為昌の死去を契機に、宗哲は北条氏の領域支配に参加し、また有力な御一家衆として活動することとなり、後には長老として君臨した。

 宗哲の嫡男とみられる三郎は、弘治から永禄年間初頭まで小机領を継承した。役帳では小机衆筆頭として1620貫文の知行高を有している。三郎は小机城主の立場にあったと見られ、宗哲の指揮下に属していた。しかし永禄3年死去し、風祭宝泉寺に葬られた。三郎には実子がなかったため、家督は弟の氏信が継承し、小机城主の地位は氏康の弟氏堯に継承された。氏堯は早くから宗哲の後見を受けており、宗哲の嫡子三郎の死去を受け、後見する氏堯に譲渡されたと見られる。永禄4年上杉謙信の来攻にあたって、河越城に籠城してその守将をつとめ、同城を死守した。しかし、氏堯も永禄5年の発給文書を最後に史料上から姿を消す。おそらく、その数年のうちに死去したと推測される。

 宗哲の次男氏信は兄三郎死去の際家督を継承、さらに数年後氏堯死去により、その跡を受け小机城主となった。永禄11年武田氏が駿河に侵攻すると、北条氏は今川氏真救援のため、氏信を前線拠点蒲原城に派遣した(同12年)。氏真とその妻子は北条氏に引き取られた。しかし、蒲原城は武田氏の総攻撃にさらされ、氏信とその弟融探をはじめ城兵はすべて戦死した。この融探は箱根権現に入寺しており、将来的には父宗哲のように別当職を継承する予定だったと推測される。融の字は宗哲から別当職を継承した融山の一字を請けたものだ。

 氏信戦死により、宗哲は氏康の末子西堂丸を末娘の婿に迎え、氏信の家督継承者とした。西堂丸は宗哲のもとで元服し、仮名三郎(宗哲の嫡子のそれ)を襲名した。この三郎は元亀元年、越相同盟締結にあたり上杉輝虎(謙信)の養子とされるに至る。三郎は同年、上野沼田城において輝虎と対面、輝虎の本拠春日山城で養子縁組をして、輝虎の初名の景虎の実名を与えられた。以後上杉三郎景虎と名乗る。また上杉氏へ入嗣に際し宗哲の娘とは離婚、輝虎のもう一人の養子景勝の妹を妻として一子を設けたが、天正6年輝虎死去により景勝と家督をめぐる抗争を展開(御館の乱)、敗北して妻子ともに自害した。

 離婚して小田原にとどまった宗哲の娘は、氏康の子氏光(実は氏堯の子と推測される)に再稼した。氏光は元亀3年から小机城主となったが、小机城は宗哲の管掌するもので、三郎−氏堯−氏信と宗哲関係者により継承されており、氏光がその城主となったのも、宗哲の末娘を娶ってその婿となったからと見られる。この後、氏光は北条氏の有力な御一家衆として活躍し、小田原合戦後は当主氏直に従って高野山に赴き、その直後同地で死去した。

 宗哲が後見をつとめた北条氏御一家衆として、もう一人吉良氏朝がいる。吉良氏は武蔵世田谷(現世田谷区)を本拠とする足利氏の御一家で、領主的規模は小さいが、きわめて高い家格を有していた。北条氏の江戸進出によりその麾下に属したが、高い家格の故に北条氏からは対等以上の待遇を与えられていた。北条氏綱は吉良氏を自身の姻戚とすることで、内部に取り込もうとしたと見られ、氏朝の先代頼康は氏綱の娘を妻とした。頼康の養子が氏朝で、永禄4年吉良氏家督を継承した。氏朝は氏綱の娘と堀越六郎との間の子で、堀越氏は遠江見付城(静岡県磐田市)を本拠とする遠江今川氏の嫡流で、駿河今川氏に服属していたが、河東一乱において北条氏に組して今川氏に敵対したため、今川氏によって滅亡させられた。滅亡後堀越六郎夫妻は兄氏康を頼り、伊豆山木(韮山町)に所領を与えられたと見られる。こうして氏朝の吉良氏継承は、実体は北条一門による同氏の継承だった。おそらく今川氏は吉良氏の分家筋にあたるため、今川氏出身の氏朝に白羽の矢が立てられたのだろう。氏朝も北条氏の娘を妻に迎えた。輿入れにあたり、宗哲が様々な心得等を記し与えたのが「宗哲覚書」だ。漢字交じり仮名文で全24条にわたり、内容も多岐にわたっているため、当時の大名家の奥向きの様子や教育等についての重要な史料とされている。氏朝の妻となった北条氏の娘は、従来氏康の娘とされてきたが、宗哲が息女の希望により永禄10年太平記を書写して与えていることから、宗哲の実の娘だったと見られる。また、氏朝は宗哲から武蔵大井郷(埼玉県大井町)を与えられており、宗哲の女婿としてその後見を受けたと見られる。氏朝は小田原合戦後は徳川家康に仕え、これを契機に隠居して家督を嫡子氏広に譲っている。

 また、今川氏滅亡後の今川氏真の動向だが、氏真と妻(氏康の娘、早河殿)は北条氏に身を寄せ、駿河沼津に移り、氏政の嫡子国王丸(氏直)を養子として、名跡を譲り渡した。後には小田原早河に移ったといわれる。この駿河沼津の所領、及び氏真の家臣の一部は宗哲の管理となった。早河も宗哲の所領だ。ただし、後氏政が一転して武田氏と同盟を締結したため、氏真夫妻は小田原を退去し徳川氏のもとへ身を寄せた。氏真の旧臣の一部三浦・大草氏などは、氏真退去後もそのまま宗哲の家臣として編成されたようだ。

 宗哲は天正11年を最後に史料上から姿を消す。おそらく次男氏信死去後はその嫡子氏隆(幼名菊千代)の後見をつとめていたと見られるが、氏隆成人後(天正10年頃)に隠居し、所領等すべてを氏隆に譲渡したと思われる。同17年(13年頃とも)死去した。氏隆は小田原合戦後、当主氏直に従って高野山に赴き、翌19年出家して釣庵宗仙と号し、讃岐の生駒氏に仕え、慶長14年(1609)死去したという。子がなく、久野北条氏は断絶した。

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