参考 新編相模國風土記稿(幕府編纂地誌、天保十二年完成)小田原城に関する部分

注意:小書きは( )内に示した。


新編相模國風土記稿巻之二十三

村里部 足柄下郡巻之二

早川庄

小田原城 當城は郡の東にあり、其郭中のさま、東を首とし、西を尾とす、本丸・二丸・三丸・外曲輪等備はり、西北は山に據て固とし、東南の二方は平地にて侍屋鋪城下町等軒を連ねて、海濱に至れり、實に天然要害の地なり、當城の地、往古は小淘綾山(古與呂幾也萬)、松平(末津能太比良)、其の後緑尾山(美度里遠夜末)、田城(太志路)と唱へしと云、(門川村民蔵所の古記に見ゆ、按ずるに、今も淘綾郡より此地の海濱を、すべて小餘綾礒と呼り、小田原の唱も、小由留木の文字を草躰に連書せしを謬りしより起れりと云説あり、されど相模國古風土記殘本に、小田原の地名見えたれば、和銅以前の事ならん、もっとも信用すべからず)、築城の始を詳にせず、鎌倉管領足利持氏の頃は、土肥黨の輩居住せしを、應永二十三年、上杉禪秀の亂に與して、沒收せられ、明年正月大森式部大輔(系譜信濃守に作る)頼顯に其闕地を賜り、當城の主となりし事所見あり、(【鎌倉大草紙】曰、應永廿四年正月十七日、持氏鎌倉還御、其の後大森式部大輔に、土肥土屋が跡を賜り、小田原に移る、大森家譜を閲るに、信濃權守親家、頼朝に仕て功あり、駿州鮎澤庄大森を領す、依て家號となせり、親家より六代信濃守頼顯、關東御所に撰ばれて、鎌倉の侍所となり、相州小田原城に居り、西方の警衛となる)、其の子信濃守頼明(家譜に、頼明の時、關東御所より桐の紋を賜はり、子孫桐をもて家の紋とす、法名信誥道號光岩)、其子信濃守頼春、管領足利成氏上杉氏と矛楯の時、父子當城に在て、上杉氏の下知に隨ふ、(【大草紙】曰、庵正二年上杉方大森案斎入道父子も、竹ノ下より蜂起して、小田原城を取立、近郷を押領す、按ずるに、足柄上郡塚原村長泉院鬼簿に、頼春、文明元年正月十八日卒、法名實光院玉山光公と見ゆれば、安斎父子と見へしは、此代のことなるべし)、其の子信濃守(【小田原記】式部少輔に作る)氏頼入道寄栖庵に至り、關東次第に亂れ、兩上杉合戰止時なかりしに、寄栖庵武威盛にして、當城に住し、扇谷上杉氏の御方となり、古河政氏を輔て、管領家恢復のことを謀る、(【小田原記】曰、長享元年、山内顯定、扇谷修理大夫定正を、對治あるべきと聞えける、定正朝良は糟屋にありながら、小田原に大森式部少輔を籠られ、又曰、相模國の住人大森式部少輔入道寄栖庵主と云ものあり、人臣の祖天兒屋根の御末、中關白道隆公胤孫也、文武智謀勝人、今東國の勢多以て扇谷を背けれども、大森父子兄弟相州に居住して、威盛に家富榮へ、兵も多ければ、山内殿も家老等も彼に背かれんことを愁て、交り深くし近付ける、就中式部少輔入道小田原城を取立、伊豆相模の軍兵を催し、扇谷殿の御方をしければ、近邊の軍勢皆彼の下知にぞ隨ひける、大森家譜曰、氏頼小田原の城に住して、相模川より西を領知す、此時關東大に亂れ、諸家相共に國を爭ふ、氏頼しば〃義兵を起し、武功あるに依て、其名を顯す、然に舊主持氏の子孫源ノ成氏、並に政氏たま〃家門再興の時を得て、漸父祖の職を繼り、爰に於て氏頼舊好を忘れず、喜悦するに似たりと雖ども、猶謀逆の臣ありて、成氏・政氏に相随はざる所甚多し、爰に於て再兵を起し、東國を一統して、政氏を主となさんとす、しかはあれど時未至らざるにや、素懐をとげず)、然るに伊勢新九郎長氏豆州韮山に在て、上杉の分國を併呑せんことを企て、先當城を乗取んと、多年謀を廻らす、(【小田原記】曰、伊豆國には、早雲庵宗瑞家老どもを集て語りしは、倩世間の様を見るに、上杉の兩家不和にして、自滅の合戦あり、然れども彼兩家何れも大身なれば、亡る間久しかるべし、今弊に乗り上杉家を亡ぶべきことを案ずるに、大森寄栖庵入道小田原に在て、如何にも叶え難し、然ども箱根山をだに取なば、小田原を亡すべき謀多し、先大森と和睦して、交を深くし、たばかりて討べしと思は如何にとありしかば、家老の面々皆可然とぞ感じける、頓て大森方へ使者を立、種々の送物數を盡しけれども、大森入道約無して、和を請ふもの、謀ありと云ことなりとて、打解ることなし、互に使者をのみにて、さのみ入魂せず)、明應三年氏頼卒去ありて、(【小田原記】曰、明應三年八月廿六日、大森入道寄栖庵逝去、家譜に法名寄栖庵明昇日昇)次男筑前守(初信濃守)藤頼、其蹟を襲ぎ當城の主たり、(家譜を按ずるに、氏頼の長子筑前守實頼、不二庵と號す、小田原の城に住し、父氏頼に先て卒す、長泉院鬼簿に、實頼、文明十八年十月十九日卒、法名C泉院可安道印とあり、實頼早く歿せし故、次子藤頼家督を襲ひしと見ゆ、故に或は實頼を以て、大森氏の末代となすものあり、謬れりと云べし)、爰に於て、長氏謀を以て藤頼に親み、明年二月十六日、(按ずるに、【小田原記】曰、明應三年九月十三日とす、然れども茲年八月氏頼卒後、早雲藤頼と漸く親みより、後には打解て折節の會合ありなど、同書に載たるを見れば、歳月移りしさまなり、故に【鎌倉九代記】に從て、四年二月の事となす)、鹿狩に事寄せ、當城を陥入ぬ、藤頼大住郡眞田城に逃る、(【小田原記】曰、子息信濃守藤頼の代に成て、頻に早雲親み通ひければ、後にはやゝ打解て、折節の會交あり、彌深くぞ語らひける、或時新九郎入道宗瑞、小田原へ使者立て申けるは、此間當國の山どもにて、多日鹿狩仕候、故に他山の鹿箱根山へ集ると見へ候間、此方へ押て追入度存るといへども、貴國の方人數を廻し候はんこと、如何恐入候、由て御免を蒙らばやと申けるに、大森信濃守若輩故に運盡果けるにや、謀計とは不知して、安き御事なりと免じける、早雲大に喜び、武勇かしこき若ものどもを數百人勝り、足輕の勢子になし、物馴たる手たれども數百人、犬引に作立、竹鑓を持せ、夜討の支度をさせ、熱海日金の山より打こさせ、追々石橋や湯本の邊へ隠し置て、其相圖を待居たり、時刻も巳に來りければ、千頭の牛に角ごとに松明を結付、夜に入て小田原の上なる、石かけ山箱根山へ追かけゝ上て、石橋こめかみの邊より、螺を吹上、唄を作り、板橋の町屋へ火をかけたり、小田原の城には折節軍兵ども上杉合戰の加勢に行て、殘る人々少ければ、山々の松明を見て、是は如何にして防ぐべきぞや、敵は何十萬や有らんと、あはてふためく所に、西郡の住人成田某、大森の前に來りて、敵已に山上に滿々たり、用意の兵なくて叶ふまじ、急で岡崎邊へ落させ玉ひ、重て軍兵を催し、城を取かへすべし、急がせ玉へ、某防矢射落し申さんと云も果ず、先陣已に大手の門前まで責近きければ、鎧取り肩に打懸、馬の上にて高ひほしめ、小具足も堅めず、手勢六騎、長刀水車にまはし、敵の中へわりて入、敵の先陣多目玄蕃允が同心、栗田六郎を射て落し、終に討死しける、其間に大將大森藤頼をはじめ、小具足計に切合けるが、深手あまた負ければ、散々に成て落行、同國眞田城に引籠る、又同書.天正小田原落城の條に、氏直高野へ登山あるべきに定り、簾中と互に飽ぬ別を惜玉ふ、氏直肌の守を取出し、抑此守は、五代の祖早雲寺殿、伊豆より打て出、相州を攻平ぐべしとて、明應三年九月十三日、小田原の城主大森藤頼を攻らるゝ、其首途に備たる、搗栗を半食して、其殘を鎧の引合に納めて發向し給ひ、遂に其夜小田原の城を攻取、其搗栗をば、かくの如く錦の袋に入、氏綱氏康氏政より我等まで、代々相傳して、高祖の守と稱せしなり、然るに今家運極り、我既に流人となれば、此守所持して更に詮なし、依て留め置申なり、此後若一家の中、浮世に殘候輩あらば、それへ渡し給はり候へと、返々宣置別れ玉ふぞ痛はしき、【鎌倉九代記】曰、大森式部少輔實頼入道は、只あきれたる體なり、家の子松本次郎、後の門より落し参らせ、身は面に走り出、こみ入敵を門外へ追出す、同國の住人成田市之丞、物の具堅め打て出つゝ云々、松本次郎と只二人、散々に戰ひ討死す、又曰、相州小田原城主大森式部少輔實頼、年來扇谷定正に属し、顯定に楯をつき、定正死し、子息朝良に相隨ふ、明應四年二月十六日、伊勢新九郎長氏に居城を討落され、牢籠の身となりたり、按ずるに、【九代記】實頼に作るは誤なり)、長氏當城に遷りしかば、當國の住人松田左衛門頼重なるもの、最前に馳來て是に属す、(【小田原記】曰、早雲入道小田原の城へ移り玉へば、松田左衛門と云人あり、是は公方家の忠臣たりしゆへ、終に上杉の下知に隨はで、相州西郡にて、度々合戰したりけるが、早雲小田原へ入玉ふと聞、大に喜び、最前に馳來て一つになり、此外群臣積功相隨、誠に武勇の程こそ愛度けれ)、かくて長氏伊豆・相模兩國を平治し、姓を改て北條と號し、永く居城となせり、(【北條家譜】曰、長氏初は伊勢氏なり、伊豆相模を平げて後、北條氏と稱す)、長氏延コ元年薙髪して、早雲庵宗瑞と號す(北條系圖)、永正十六年八月十五日卒す、其子左京大夫氏綱城主となり、天文十年七月十九日卒す、其子左京大夫氏康遺蹟を襲げり、十四年二月、連歌師宗牧、當城に來り、氏康に謁見し、共に長老館にて(館蹟今詳ならず)櫻花を賞し、詩歌連歌等あり、宗牧登營する事都て三ヶ度なり、(【東國紀行】曰、小田原も見え渡る程、幻庵より仰給はり、永田源左衛門所の風呂焚せられ、夕食の仕立、歴々の様ながら、手だに觸られず、太守へ御禮の後、春庵院出、長老館の花見に渡らせ給て、數樹繁櫻開更佳、一觴一詠興無涯、座來知是遠方客、併見長安<コザトヘンに>百上花、今日參加の心ばえならばとて、拝見せられし、果は韻を和し參らせて、杯の春幾巡りけふのまも千代を浮ぶる初櫻花、太守發句をつかふまつるべきよし、再往の御懇望なれば、庭は雪雲を軒端の山櫻、庭前繁櫻の様成べし、伊勢備中入道C辰、長々在國、今度下國再會、殘命のしるしだにはいかゞなど、不辨興行ながら、同心もあれかしと、こまゞゝの事に成て、忘られぬ花も都の恨み哉、月花の興には自然都を忘るゝ折も有べし、去ども偏に昔戀しき心には、此風景も恨めしかるべしと察し侍り、會以後大酒、兵庫頭息八郎殿、舎弟又三郎殿、大和信濃、何れも舊好の事なれば、さながら都の心地して、沈醉ゑひなきもとめ難くて、深更にかへり侍り、此會翌日罷立べきに相定たれば、太守より館花未だ盛なれば、朝夕参上すべき由、御内議あり、君卓のかざられ、庭籠の鳥、かず〃の面白さ、遣水の筧雨にまがはず、水上は箱根の水海よりなど聞侍りて、驚くばかりなり、例の發句、又當座、花の色も鳥の音惜む夕哉、たゞ今の景氣なるべし、此發句にて一折獨吟にすべき由、頻りの御事にて、然れば御脇をなど申出れば、作者にとて、霞に漏るゝこすとのやま、今日は二月廿五日、北野、御神事、右京兆一日千句、萬代不朽の吉日なれば、御稽古の初めに、尤も珍重の由申なして退出、太守へ御暇の事申侍れば、兩度花見猶以殘り多き由仰られて、明る廿七日一續被遊べしとて、當座、花初開、匂ひくる風も侍なん朝露の結べば解る花の下紐、雲端雁、明ぬやと夜渡る雲のはしがきに先見えそむる雁の玉章、一坐以後、新度の小うたども、口々ならさせられ曉方退去、廿八日發足の砌、色々重寶拜領、宮内卿まで御小袖きやもしなる御したて、見る目も匂ひ、あやしきばかりなり、按ずるに、永田源左衛門が宅跡、今詳ならず)、永祿三年六月、氏康落飾して、萬松軒と號し、嫡子左京大夫氏政家督を繼、當城の主たり、四年三月、上杉輝虎鶴岡八幡宮に參詣し、管領の拜賀を遂んが爲、小田原退治と稱し、先當城に發向す、北條方には、籠城の用意にて、悉く城内に引入しかば、(今の谷口門なるべし)輝虎蓮池門まで押寄、魁將太田三樂斎資正をして、城を攻しむ、城兵松田尾張守、小笠原播磨守以下打て出、相戰ふと雖利なくして、城中に引退く、輝虎軈て退陣して、鎌倉に赴けり、(【小田原記】曰、永祿四年三月、上杉景虎東八ケ國の軍兵を催し、其勢九萬六千餘騎、小田原へ發向し、先年養父憲政、氏康に打負、上州を落し耻を雪がんとて披露す、後に聞えけるは、今度發向は、氏康對冶の爲にあらず、管領に成ては、代々若宮へ拜賀あることなれば、鎌倉へ參詣し、管領の悦を遂んと思へども、彼所小田原も無下に程近し、定て勢を出して合戰に及ばゞ、拝賀も叶ふまじ、先小田原對冶と披露して小田原へ押寄對陣し、人衆を出さば合戰すべし、敵籠城あらば若宮へ參詣を遂べしと、内々密談す、小田原方には、此謀略をば不和、由々敷大事なりと評定して、松田・石巻・神尾・大谷・多目・小智・橋本を先として、國府津・前川・一色・酒匂に出張して待懸たり、野村源左衛門・同平氏左衛門・勝部與三・松山吉右衛門・小智彈正・安藤彌兵衛・田中五郎左衛門・藤巻民部以下伏兵に成て、大磯小磯梅津の邊に差遣、敵の隙を伺ひける、去程に景虎巳に華水の川を渡せし注進ありければ、重て軍評定めり、先籠城の用意をして、敵を外になし、馬の足を疲させよ、此方より人數を出すべからずと仰ける、氏政を初め奉り、家老面々最と甘心して、籠城の用意をせよとて、近郷の土民等まで、悉く城に入、或は山入して、在々所々不殘引拂ひ、口々に出張の勢も悉く打入、所々に伏兵かまりをひしと置、敵の體を伺ひ見る、景虎手に障る者なく、小田原表へ馳着、蓮池の門まで押寄す、彼門は松山大道寺堅めければ、無左右押寄るに不能、人衆を備へ對陣す、景虎關東の諸子剛強の威勢を知せんと思ひ、金ざねを紅糸にて威したる大袖の鎧に、萠黄純子に、篠に雀縫たる具足羽織着て、管領より讓りの朱再拝を腰にさし諸手へ乘込下知して敵の矢表南東へ乘わり〃味方を諫め、凡人を塵芥とも不思振舞なり、關東の諸將、上杉家の大やうなる管領の躰にのみ習て、かく景虎のいらひどき振舞を見て、皆舌を鳴しけり、去程に景虎小田原を一旦に責破らんことも、敵堅固の備にて不叶、小田原表を引拂ふ、【北越家書】曰、永祿四年三月上旬、公松山城を出馬あり、相州高麗寺山下宿河原に本陣を居られ、魁將太田三樂斎、小田原蓮池口の四門に向て攻掛る、城兵松田尾張守・小笠原播磨守・安藤豊前守・石巻勘解由・萩蔵人・岡上佐渡守二千餘にて伐て出、火花を散し相戰ふ、太田資正、長尾黨、身を風塵に比して、射れ共突共たじろがず、城兵戈を合せ兼てしどろに成て辟易す、爰に小田原勢遠山丹波守・福島伊賀守・荒川豊前守・多米權兵衛、九百餘の軍勢にて、駈出けるが、松田をば救はず、側に列を立て、只見物して控居たり、其間に松田・安藤敗して亂れ走る、岩築勢餘さじとこれを慕ふ、遠山・福嶋横合より、太田が兵の中を割んと一文字に駆入たり、味方の後陣推掛けて援けんと欲すれども、分内狹き、地にて、大軍の打込なれば、駆引自由成ずして、暫猶豫する間に新手の敵に按立られ、岩築勢披き靡く、朝倉伊豫守・多米權兵衛大に機を得て進み掛る、太田三樂猶疼まず、馬の鼻を敵へ向て、討死は此時なるぞ、蹈留れ〃と自ら鎗推取て、三騎突落し、勇を揮を見て、安田・神藤・竹股・色部・大關・松川千三百餘 北東より備を轉り、手先を捲て正中を破る、太田是に力を得相戰、竟に小田原勢討負て悉退き入る、味方の魁兵勝誇て、蓮池の東門に迫寄、凱を發し兢ひ掛る、其勇鋭天魔波旬も中々當り難く見べし、城内にも究竟の剛弼共數を盡して籠るなれば、弓鐡炮頻に放し、爰を先途と挑み拒む、惣大將景虎公は、白綾にて鉢巻し玉ひ、緋威の鎧に金札の大袖を着け、竹に雀の縫付たる、萠黄段子の胴肩衣を召れ、藏王權現の兜を兜立に建て、身脇の隊長上田能登守に馬上にて捧させ、側に倶せられたる、扨隨鎧は諏訪部次郎右衛門・飯森靱負尉是を勤む、立山臾憲政より譲られたる、朱釆幣を腰にさし、蒼竹の三尺許なるに、隅取紙を結び着て掌に握り、六寸餘の鴾毛の駒三日月と號して太く逞しく半漢たるに金覆輪の倉置紅の厚總掛て輕々と乘縮給ひ、矢面を事ともせず、坂東武者、彌が上に列りたる中を乘分、甲斐々々しく出給ひ、下知せらる、小田原の城中危急なりといへども、流石良將の氏康蟄龍の奄保ち、秘術を盡して指揮せられしかば、寄手單的に功成難く、責口を甘け小磯大磯に陣を張て、日々の迫合ありたるなり、按ずるに【鎌倉九代記】及後記【謙信一代記】には三年三月に作る)、十二年八月、武田信玄當城に押寄せしに、北條方悉く城に籠り、合戰に及ばざれば信玄蓮池門揚土邊まで亂入し、十月に至るまで在陣して、府内町屋及び侍屋鋪等を放火し、同四日退陣せり、(【小田原記】曰、永祿十二年、駿河へ御加勢ありて、小田原の人衆少ければ、信玄其隙を伺ひて、小田原衆の思よらざる方より、碓氷峠を越して、武藏國江戸葛西にかゝり人衆を二手に分て、小田原へ寄る、爰に於て軍の評定あり、先此方の人衆引て籠城可然と申す、地下人町人まで、近郷は悉く城へ入、遠所は皆山に入しかば、信玄手に障る者なく、蓮池門まで攻入、民屋少々燒けれども、取べき兵粮少もなければ、あぐんで見ゆる所を、三浦衆の手より、足輕を出して合戰す、されども城より制して引入ければ、信玄兩三月在陣し、食つまり迷惑しければ、海邊を夜中に人數を風祭湯本の邊へ遣し、民屋少々燒て、それをよきしをとや思ひけん、早々引退く、【甲陽軍艦】曰、八月武田勢惣越に酒匂を越し、小田原へ亂入、既に四ツ門蓮池と云所まで押込、内藤修理同心・本部駿河・町田兵庫・かんな圖書・寺尾豊後・あくつ大學・久保嶋・矢嶋・長沼・屋ぎ原此九人鎗を合せ、頸を取候、其時馬場美濃守より、早川彌三左衛門行戻り共に、鐡炮手二ヶ所負申候、就中小田原悉く燒拂、信玄公は波打際を押通り、早川口を右に見て、湯本の内風祭に陣を取なさるゝ、去程に小田原町屋の事は申に不及、侍衆の家共皆燒つる)、十一月、豆相武三州の人夫を課し、當城修理の事あり、(高座郡田名村民藏文書曰、年内分國中、境目之仕置爲可成堅固、豆相武三ヶ國人足、寺領社領等迄悉申付候、苦勞に存候共御國爲靜謐候之間、田名、人足四人申付、中十日小田原城普請可走廻候、然者鍬簣を持、來廿九日柳小路へ相集、人足奉行へ可相渡、若一人令未進、十日之日數至干不足者、可爲曲事候、任總國掟罪科、普請一日之未進、五日可被召仕、猶入煙可申付者也、仍如件、追而手代一人、十日之間然與指置、毎朝人足奉行可相渡事肝要候、以上、巳十一月廿三日、神尾善四郎殿、安藤豊前守奉、虎朱印)元龜元年十月三日、氏康卒す、天正元年氏政隱居して、截流齏と號し、其子左京大夫氏直家督を襲ぎ、當城の主たり、(北條系譜)三年三月、小曲輪門々開閉等の掟書を出せり(高座郡高田村民藏文書曰、小曲輪、十人内村屋舗へ出門、十人板部岡曲輪、十人關役所二階門、六人同所藏之番、十人鈴木役所之門、以上、門々明立、朝は六ツ太鼓打而後、日之出候見可開之、晩景は入會之鐘を打果を傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可爲重科候、但無據用所有之者、物主中一同申合、以一筆出之、付日帳、御歸陣之上、可掛御目候、相隱自脇妄出入聞届候者、可爲罪科事、毎日當曲輪之掃除嚴密可致之、竹木かりにも不可切事、煩以下闕如之所に於ては、縦手代を出候共、又書立之人衆不足候共、氏忠尋申、作意次第可致之事、夜中何之役所ても□□六時致不寢、土居廻可致、仁裏土居堀之裏上候者芝を蹈崩候間、芝付候外之陸地可廻事、鑓弓鐡炮をはじめ各得道具、今日廿三、悉役所指置、并具足甲等迄然與可置之事、番衆中之内、於妄者不及用捨、假主之事候共、のり付にいたし氏忠可申、定者可有褒美候、若御褒美無之者、御歸馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事、日中朝之五ツ太鼓より八ツ太鼓迄三時、其曲輪より上け一宛可致休息、七ツ太鼓以前悉如着到曲輪へ集、夜中は然與可詰事、以上、右定所如件、乙亥三月廿二日、六郎殿、虎朱印、按ずるに、小曲輪板部岡曲輪等の名今詳ならず、内村・板部岡・關・鈴木等は、皆北條氏の臣なり、七年五月、安藤豊前守良整奉り、鎌倉番匠を召て、城構の修造を加へ、(鎌倉東慶寺大工棟梁、金子氏藏文書曰、御構修覆之御用、來廿八日無風雨之嫌、小田原へ集り、廿九日自早天、御細工可致之、縦相煩候共、先廿八日には、小田原迄參、是非可得御下知、一日令遲參付而者、御法被相定間、可被處嚴科者也、仍如件、己卯五月廿四日、鎌倉番匠源次三郎、安藤豊前奉、虎朱印)、且城内修理の料として、良材を山奉行に課せらる、(愛甲郡煤谷村民藏文書曰、御構曲輪御座敷并塀材木、つが廿二丁、梁長三間二尺、廣七寸、厚五寸、山造六十六人、人足百卅二人、もみつが卅二丁、貫下地長二間一尺、方五寸、山造卅三人、人足六十六人、同廿二丁、棟桁二間一尺、方五寸、山造廿二人、人足四十四人、同十丁、すさす角瓦長二間一尺、方五寸、山造十人、人足四十人、松もみつか二十三丁、貫下地長二間一尺、方五寸、山造十三人、人足四十六人、同二十五丁、棟桁うら木長二間一尺、方五寸、山造二十五人、人足五十人、つか十五丁、棟樋猿頭之木二間一尺、方五寸、山造十五人、人足三十人、つか二十三丁、長押長二間一尺、方五寸、山造二十三人、人足四十六人、四十丁垂木下地長、二間、方六寸、山造四十人、人足八十人、以上二百卅三丁、木數、以上二百七十七人、山造、口養四貫七百九文、板間郷寅歳年貢、秩父前より可出、以上五百五十四人、人足、以上、右來六月晦日を限而、必可爲出來、然者材木之寸方少も無相違様、堅可申付候、若於妄之儀、奉行人可處嚴科者也、仍如件、天正七年己卯五月廿六日、山奉行、板倉代、井上代、安藤豊前奉、虎朱印)、十五年二月、又城内修造のことあり、(鶴岡文書曰、鎌倉杉田之内、鶴岡社領、并荏柄領、人足十一人、鍬簣を持、來晦日小田原へ集、十日之御普請可致之、此度小田原普請成就之砌候間、總並如此被仰出候、何も可有馳走旨可申斷者也、仍如件、丁亥二月廿一日、虎朱印、大道寺代)、十六年七月、倉廩(三間梁二百間)を城内に建ん爲に、材木を愛甲郡煤ヶ谷村に課せらる、(煤ヶ谷村民藏文書曰、三間梁、百間、御藏材木、煤谷へ申付分、二百八十本柱、長九尺五寸、方五寸、山造九十三人、人足五百六十人、五十丁棟下大臺、長二間、方四□六寸、山造廿五人、人足百人、六十丁棟木、長二間、方五寸、山造卅人、人足百廿人、百丁短柱、長二間、方五寸、山造五十人、百丁小字立、長八尺五寸、方四寸、此代二貫文、以上五百九十丁、木數、以上百九十八人、山造、口養三貫三百六十六文、以上九百八十人、人足、俵貨十九貫六百文、以上廿六貫九百六十六文、右八月廿日可爲出來、此日限至蹈越、可被掛罪科者也、仍如件、天正十六年戊子七月十三日、板倉殿、安藤豊前奉、虎印)、北條氏多年關左八州を押領し上洛にも及ざれば豊臣秀吉、小田原退治の聞えあり、故に十八年正月より城の内外等大に修造を加ふ、(武藏國都築郡鴨居村民藏文書曰、寅歳大普請、人足一人、鍬簣を持、中十日致用意、來十三日小田原へ集、從十四日可致御普請、一日之遲參、如御定、五日可被召仕間、無無沙汰走廻者也、仍如件、庚寅正月五日鴨井小代官、百姓中、虎朱印、【太閤記】曰、小田原にも、城の内外普請等、夥き支度に見えて、伊豆・相模・武藏・上野・下野・安房・上總・下總の勢四萬有餘、并人足三萬人を以、晝夜を分ず急しかば、仲春には相調けり)、三月秀吉洛を發向あり、(【小田原記】曰、三月十九日關白秀吉小田原北條退治の爲發向)、やがて上方の大軍、駿州邊に押來、充滿せる由聞えければ、城中俄に防禦の手立をなし、大手口を始め、箱根・宮城野・湯本・竹花・井細田・久野・小峯・早川等の口々に人衆を配り、關左八州の軍勢數萬騎楯籠れり、(【小田原記】曰、小田原にも、兼て用意の事なれば、先大手なれば箱根口・宮城野口には、松田入道親子大將にて上田上野介、原式部太夫其外安房里見の人衆、上總萬木・境・小瀧・東金・小金・相馬の勢、一萬三千騎にて堅めたり、同湯本口には千葉介、但し父國胤は逝去して、子息新助幼少にて原名代として八千餘騎、竹之花口北條陸奥守氏照・成田下總守氏長・皆川山城守・壬生上總介一萬五千餘騎也、其外井細田口には、太田十郎氏房、久野口も同人也、其外小峯には、北條左衛門佐氏忠、早川には右衛門佐氏堯大將分にて數萬騎固めたり、其外北條新太郎・同彦太郎・伊勢備中守・同備後守・大和兵部大夫・山角上野介・同紀伊守・四郎左右衛門・同左近大夫・多目彦八郎・山中主税助・福島伊賀入道々粹・石巻勘解由左衛門・南條山城守・同左京大夫・同民部・同左馬助・小西隼人・富永内膳・大藤左衛門尉・依田大膳正・荒川豊前守・大森甲斐守・C水太郎左衛門・遠山右衛門尉・大道寺孫九郎・安藤備前守・同兵部・同彌兵衛・梶原三河守・内藤左近大夫・相馬次郎・上田常陸守・酒井左衛門・芳賀伊予豫守・同伯耆守・朝倉右京進・伊藤左馬助・大森式部大夫・原豊前守・荒木兵衛尉・羽田・安中・佐倉・布川・長南・大須賀・高井・内藤大和尉・小幡・小泉・安中左近小監・由良信濃守・長尾但馬守・木内宮内己下・關東之諸軍勢數萬餘騎小田原の城へ楯籠る、此處北條五代の在城にて、兵粮水木卓山、玉藥矢種もあり、たとひ日本一州責來、五年三年責戰とも、左右なく落城成難くこそ見えにけり)、然るに小田原の老臣、松田尾張守康秀の内通により、上方勢節所を打越、四月三日、御當家の先陣、小田原の地に至りて押寄る、(東遷基業)四日、秀吉石垣山に本陣を居え、攻口の手配ありて、海陸並進て城を圍み、矢炮を放て是を攻む、(御年譜曰、天正十八年四月一日、諸部登箱根山三日、諸軍至小田原而陣干箱根山麓、四日、諸兵圍小田原城、【太閤記】曰、小田原より箱根山へ出置し防ぎの勢、兼ては悉廣言して此節所を翼あるものゝ外、何者か越來らんやと、欺き笑居たりしが三ケ所の役所を上方勢事ともせず、峯より嶺を傳ひ、谷より岡に出、二十六萬騎の勢、時の聲を擧、響き渡り平等に越けれども、一支も支へず、卯月朔日、小田原へ迯入しかば、やうゝ總構の人數賦をぞしける、【鎌倉九代後記】曰、四月一日、秀吉箱根足柄を越て、同三日相州小田原に押よせ、西の高山に俄に城を構へて秀吉の陣所とす、島津義久・大友義統・毛利輝元・并小早川隆景・吉川廣家、次に里見左馬頭義康等、旗本の前後に陣す、左陣は長岡越中守忠興・津侍從織田信兼 浮田宰相秀家・近江中納言秀次・其手中村式部小輔一氏・堀尾帯刀吉晴・一柳監物・山内對馬守一豊、次大垣少將秀勝・松ケ嶋侍從蒲生氏郷・尾張内府信雄・同家中澤井左衛門尉・天野周防守・土方勘兵衛尉雄久・羽柴下總守勝雅、其次大權現の御陣所なり、御家人榊原式部大輔康政・大久保七郎右衛門忠世 酒井左衛門尉忠次・同宮内大輔家次・石川左衛門大夫康通・井伊兵部少輔直政・松平周防守康重・牧野右馬允康成等、各東南の海邊まで陣をとる、其續き海上には、加藤左馬助嘉明・長曾我部土佐守元親・又大權現の舟手の輩、兵船を浮て圍をなす、右陣は長谷川藤五郎秀一・堀左衛門督秀政・池田三左衛門尉輝政等、西南の海際まで陣す、其續海上には、九鬼大隈守嘉隆・脇坂中務少輔安冶等、舟をならべて陣す、【太閤記】曰、卯月二日、四方の攻口を定め、未明よりくる〃と引巻、仕寄を付て、晝夜を分ず弓鐡炮を射入、鯨波地を動し、夜に入ば火矢を四方より射入、鐡炮を艮角よりつるべ初めけるに、しばし有て子の方に打納れば、城中にも負じとや思ひけん、つるべ返し、時を合せしかども多勢なるにや、さのみ勝劣もなし)、城内にも大鳥銃を日夜放ち、嚴く防戰す、(【北條五代記】曰、見しは昔、秀吉公小田原の城を、大軍にて責ると雖も、總構えに大鐡炮をかけ置、晝夜放しければ、鐡の楯をついても取寄がたし、總構廻り五里が内に、一所言葉をかはす程に責寄敵なし、小嶺山の攻口は、土穴を掘入て、矢倉を打返すと雖も、土の底に有て、是もuなし)、八日、皆川山城守廣照私に城中を出、御當家に憑て降參す、(御年譜)五月三日、城兵太田十郎氏房、廣澤尾張守重信をして、蒲生飛彈守氏郷の陣へ夜討せしむ、(【大三川志】曰、五月三日、小田原城の太田十郎氏房、力丸藤左衛門に令して、蒲生氏郷が陣へ夜に及んで火炮を發せしめ、夜半に城兵廣澤尾張守重信、百餘兵をニ隊に分け、氏郷の陣を襲ふ、氏郷が?候町野萬右衛門是を見て、敵の先隊五十人を遮り、矢を發して退く、然れども重信後隊五十人に火炮を授け、道に伏しめ、又先隊をして進ましむ、先隊既に氏郷と土方雄久が兩陣の間の柵を破る、蒲生源左衛門郷成・田丸中務少輔直政・町野左近幸和等馳來て戰ふ、氏郷初より夜襲の備を設け、雜樹茂りたる所あり、此處より敵の夜襲の兵來るべしと備を置く、果して此處より敵兵攻入る、氏郷は大有力なれば、時あって用可しと、作り置ける、一丈七尺の長槍を提げ、柵の隅より陣中に入らんとする敵を、溪へ突落す、續く敵は是を知らず、進み來るを皆氏郷が長槍にて、突落すこと若干なり、氏郷が臣門屋助左衛門馳來る、闇夜なれば、氏郷の在所を知らず、島村某猶氏郷の側に在て、主君は爰に居給ふ、來可しと呼ぶ、敵是を聞き、氏郷の戰ふことを知り、驚て敗走す、氏郷が先備の兵是を追ふ、嚮に廣澤が伏せ置たる火炮の卒、是を見て火炮を發す、氏郷の兵走る、廣澤槍を把り敗兵を集め、氏郷と槍で接ゆ、蒲生左衛門郷可・同五郎兵衛郷冶・北川土佐・佃又右衛門等氏郷に並て槍を交す、氏郷は廣澤を撃たんとす、敵兵來り重つて、氏郷が槍を打落さんとす、廣澤兵を収て城に入んとするを、蒲生郷可附け入にせよと大に呼ぶ、敵これを聞て、兵を城内に引入れ、急に門を閉ぢ、火炮を發す、氏郷本陣に歸り、甲冑を見れば、鎧の胸板及び下算に、槍創四つ、鯰尾の兜に、矢二つ長槍の柄に、刀の切込五つあり、氏郷常に用るは鎌槍なるに、一丈七尺の長槍を作りたるを、諸士大に怪みしに、是夜敵を溪中に突倒すこと三十餘人なり)、十五日、東照宮兵を進められ、當城の築地に御陣を移さる【大三川志】十八日夜、秀吉の命に因て、諸陣數萬の鳥銃を一時に放て城中を劫す、城兵も同く鳥銃を放つこと徹夜なり、(【北條五代記】曰、秀吉加程軍勢を揃へ、鐡炮を用意せし事幸なるかな、時刻を定め一同にはなさせ、敵味方の鐡炮のつもりを御覽ぜんと仰有て、敵方より呼はりけるは、來五月十八日の夜、數萬挺の鐡炮にて惣攻して、楯も矢倉も打崩すべしと云、氏直も關八州の鐡炮を籠置たる事なれば、敵にも劣るまじと、矢狹間一つに、鐡炮三丁づゝ、其間に大鐡炮をかけ置、濱手の衆は舟に向て海際に出、十八日の暮方より放ちはじめ、敵も味方も一夜が間放しければ、天地震動し、月の光も烟に埋れ、ひとへにくらく闇となる、御年譜曰、六月二十六日、秀吉命諸部一時發火銃而劫小田原城兵、按ずるに、五代記と月日違へり(注25)、何れが是なることを知らず)、六月五日、城兵和田三浦の輩百五十人、其營を自燒して遁出、(御年譜)、松田尾張守憲秀、巳が持口より敵兵を引入るべき隱謀を企つ、次男左馬助秀冶の内訴により事覺して禁獄す、【小田原記】曰、松田尾張守入道内通して、彼が持口より、人衆を引入べき由議定す、同十四日の晩、一味の族笠原新六郎・二男松田左馬助・三男彈三郎・松田聟内藤左近・松田肥後守をふるまひ、尾張守、新六郎此事を語り、面々其用意をせよ、明日長岡越中守・池田三左衛門・掘久太郎が人衆を、我等が役所へ引入べき由申す、ニ男左馬大に驚き、こはそも何事にかやうに淺間敷事被仰ぞや、普代相傳の主を傾け、何程の榮花をか開くべき、只思召留り給へと苦々敷申す、新六郎を始父入道大に怒り、加様に思立も、汝等を世にあらせんと思に、不忠不考の申様かなと、以の外に腹立す、左馬助迚も此事通るまじと思ければ、先申延んと存知、さらば御同心可申、乍去十五日は不成就日なり、十六日の夜可然と申、當座の人々も可然と云、されども左馬助には氣遣をして、横目を付置ければ、可登城様なし、我寢室に入、風氣とて籠居して、小姓を近付、鎧櫃の中に被入かの小姓を付て城へ荷はせ參り、座舗にて櫃より出、此由被申上、氏政氏直大に驚、又は左馬助が忠を感スし、則江雪齋を使とし、松田入道父子を呼上、召籠て役所へは、人衆を置替しかば、上方衆相圖時刻に成て、押詰しかども、朝より旗の色も替り、中々可引入様なし、たばかりにや申けんとて、中々用心きびしくしたりける、【大三川志】曰、八日、掘久太郎秀冶、秀吉の命を奉じ、松田尾張守憲秀へ計策文を贈て曰、嚮に密に計し如く、彌心を決し裏切し、我兵を城内へ引入れ、北條父子を亡すに於は、武藏・相模兩國を憲秀に授くべしと達す、十五日北條氏直松田憲秀を本城に招き、北條陸奥守氏照、板部岡江雪齋を、以て秀吉に二心あること敵方より告る者あり、速に告ぐべき旨を告ぐ、憲秀が曰、それは敵の謀にて、我君臣の間をして疎ならしめ、國家を亂の間計なり、兩士の曰、汝が子左馬助が告る所なり、爭ふ事なかれ、憲秀辭なくして、屈服す、則憲秀を獄に下し、其子笠原新六郎政堯は、再犯の重科なるを以て、斬罪す、云々、此餘十四日憲秀一族等と謀反の評議ありし事は、【小田原記】と同じ)、十六日夜、池田三左衛門尉輝政・細川越中守忠興・堀左衛門督秀政等、憲秀が内應に因て、城邊に到ると雖、守兵の換りたるを察て空く引退く、(【大三川志】曰、十六日夜、池田輝政・細川忠興・堀秀政等、松田憲秀が内應により、西早川表松田が守禦の所に到り、其旌旗を見るに、松田等が旌旗にあらず、因て松田が計策露顯し、守兵換りたるなりと察て、共に兵を返す、按ずるに、早川口は北條氏堯の持口にて、憲秀はその西に續たる箱根口を固めたり、故に西早川表とは記せしならん)、又成田下總守氏長、秀吉に歸降の約ある事露顯して、禁錮せらる、【大三川志】曰、六月廿日、秀吉祐筆山中橘内長俊、數年氏長と書翰を往復し、交り親きを知り居たれば、長俊に命じ、此日書を贈り、歸降を勸めしむ、氏長長俊が書を見て歸降の事を許諾し、返書を送る、秀吉是を神祖へ贈り、神祖より此返書を、氏直へ遣はされ、氏直に歸降の事を勸め給はるべしと請ふ、神祖則氏長が返書を氏直に遣はされ、今八州の諸城悉く秀吉に屬し、小田原城中の諸臣此の如く内應する者あり、早く降を請はるゝこと然るべしと勸め給ふ、氏政父子是を見て大に驚き、氏長を糺問せんと招けども來らず、氏直彌疑ひ、再三是を糺問す、氏長辭することを得ず、我が忍の城大軍に圍れ、城中の士女を見ながら是を殺すに忍ず、秀吉に降を乞ふと云、氏直大に怒り、氏長が官舎に柵を結び、氏長を禁錮し、兵士をして守らしむ)、當城東方蘆子川表は、御當家の御責口なり、此川表に當て、篠曲輪(捨曲輪とも呼ぶ)、と名付る出丸あり、山角上野介父子の持口なりしを、同廿二日井伊兵部少輔直政、松平周防守康重等攻入て合戰す、(詳なることは、山王原村篠曲輪蹟の條に見えたり)、七月二日夜、太田氏房春日左衛門尉同八郎二人を隊長として、再び蒲生氏郷の陣を襲はしむ、(【大三川志】曰、七月二日夜、太田氏房敵陣を襲て、城兵の惰氣を驚さんと、春日左衛門尉・同八郎を隊長として、氏郷の陣に向んとす、伊賀の長者町田輪之丞、氏房の陣を伺ひ、城兵の襲來んとするを察し、歸て氏郷に告ぐ、氏郷令を發し關右兵衛尉一政及び蒲生左門郷可・弟上坂源之丞郷冶・佃又右衛門・北川平左衛門これに備ふ、氏房兵百六十人を率ひて氏郷が陣を襲ふ、氏郷が兵敗す、銃隊の長蒲生源左衛門郷成・寺村半左衛門・森民部少輔・門屋助左衛門、弓隊の長蒲生忠右衛門・梅原彌左衛門、輕卒を指揮し、敵の火繩の火を見當に連發せしむ、佃又右衛門奮戰し、川北彌次郎城兵を斬る、蒲生郷可謂て曰、夜戰は誤て我兵を斬る者なり、速に其處を退くべし、川北則退く、氏郷衆に先つて進む、上坂源之丞これを諫め、郷可兄弟、佃、北川と四人先に進で戰ひ、大に呼で曰、前の敵を撃べからず、後の敵を破り附入にせよと、城兵是を怖れ、三隊になって退く)、其後秀吉中使を以て、和睦の事を調議す、(【北條五代記】曰、秀吉公武略の大將、戰はずして勝事をめぐらし、和平の計策專らなり、氏直舎弟太田十郎氏房は多勢故、井細田口より久野まで、百八十間の持口、此面責よる敵は、羽柴下總守なり、此井細田口より取寄て、扱とぞ聞えける、【小田原記】曰、爰に羽柴下總守雄利方より、太田十郎氏房へ、小田原和談の使ありて、互に持口より出合、扱の相談あり、武藏・相模兩國安堵にて、氏直上方へ參勤あるべきと相定られ、則和談相調、【大三川志】曰、六月八日、堀久太郎秀冶、秀吉の命を奉じ、北條氏直へ武藏・相模兩國を安堵の事を以て、和を請はゞ然らんと告ぐ、此頃秀吉、黒田孝高入道如水、羽柴下總守勝雄を城中へ遣はし、北條氏邦に據て諭せしむるは、氏政父子歸降せば、伊豆・相模兩國に封ず可し、此事能調はゞ氏邦に上野を與ふべしと云、氏政父子是を聞き、我元八州を領す、今僅に二州を領せんより、戰死するに如ずと敢て聽かず、氏邦苦諫すれどもこれを用ひず、宇喜田秀家は攻口の城將太田氏房に矢留を乞ひ、麾下の將一人を出し、久く守禦の勞を問ふ、足下守禦の配兵能調ふ、感に堪たり、守城の鬱蒙を慰せんと、樽酒十荷、鯛魚十尾を送る、氏房是を謝し、凡武士は大將の令に依て攻伐するときは、劔戟を交ゆと雖も、厚志の訪問厚く是を領すと、其使の將を返し、氏房よりも兵士一人を遣はし、秀家の芳志を謝し、豆州の醇酒を送る、其後秀家より屡贈答し、又戸川某と云へる少年を、湟の邊へ出し、使命を傳へ、氏房を慰す、氏房の曰、唯使命のみにして謁見せず、干戈の際に、猥りに戰死せんも本懐ならず、願くば城を隔てゝ謁見せん、秀家其請に應じ、秀家は湟の邊に立て氏房は城樓に座して謁見すること暫時にして退く、秀家密に使を以て、氏房へ云ひ送て曰、大軍郷國を離れ、遙に東國に下り、長陣に勞倦し、城兵も頗る困苦するなるべし、昔年コ川氏すら殿下と和平あって今に異心なし、北條氏も各封國を保つべしと相約し、和順を遂られ、當時の困苦を免れんや、幸にコ川氏も在陣なれば、宜く相議せらるべしと、氏房も又封國を元の如く保たれば、和順の事然るべしと、老臣輩よりも氏政父子に和順を勸め、氏房より又秀家の陣へ使を以、彌和順の事を告ぐ、秀家是を聞き、然らば殿下へは、我竊に達すべし、城中よりは、改てコ川氏へ達し頼まるべしと答ふ、因て氏政父子質子を出し和順すべきの旨を神祖へ達す、黒田如水も家士井上平兵衛を以て城中へ酒二樽、糟漬魴十尾を贈り、守城の困苦を勞ふ、北條氏輝、氏政の命を受け謝辭を述べ、城中より謝禮として、炮藥十貫目、鉛十貫目を贈る、如水肩衣袴を着し、一刀をも帯せず、城に入り、氏政に謁し、和融の事を議し、氏政父子許諾し、日光一文字刀及び【東鑑】の書白海螺と云陣螺を如水に與ふ)、既に和談調し後、秀吉城中に使して、氏政父子一旦出城あるべき由を告ぐ、(秀吉又城中へ使を遣し、和融をなすに因ては、一旦は出城すべき旨を告ぐ、氏政父子是を聞き、嚮に約する所は、城に住し、領國恙なかるべしと約す、然るを出城と云へること何ぞや、秀吉が曰、此事領諾無は、速に守城すべし、我も又和順の約を破り、急に攻撃せん、氏政父子老臣を集め、思慮を盡すと雖も、諸城多陷り、後援の助もなく、將卒も甚疲勞すれば、如何ともすべき計なし、氏直嚮に禁固したる松田憲秀を呼び、今度の亂根偏に汝がなす所なりと罵り、自ら、是を誅す)、五日、氏直尾張守康秀を誅し、潜に出城して秀吉の軍門に降り、氏政以下の助命を乞、且明る六日出城すべしと約して歸城す、(御年譜曰、七月五日、氏直私出城入羽柴下總守之營而謝罪【小田原記】曰、六日、尾張守父子を生害させ、氏直山上強右衛門ばかり御供にて、家康卿の陣所へ入て、内府信雄相談し、關白家へ出仕ある、【大三河志】曰、五日、氏直山上郷右衛門顯將、諏訪部宗右衛門定吉を從へ、潜に城を出て、神祖の御陣營に來り、降を告ぐ、神祖曰、足下は我壻なり、我是を謀らんこと、爲し難きことに非ずと雖も、同じくは羽柴勝雅が陣に到り、降屬の事を秀吉に告ぐ可し、氏直則勝雅が陣に到りて曰、氏直運拙して、今殿下の軍門に降る、父氏政以下城兵の助命あらば、明日城を出べし、秀吉是を諾す、氏直城に歸る、案ずるに、【北條五代記】に、氏直六日卯刻出城すと記す、其文下に注記せり)、六日北條美濃守氏規、東照宮の御陣營に來り、和融の事を議し、且秀吉の誓書を得て、入城せんとせしが、氏直既に降参の由を聞、空く韮山に歸る、(【北條五代記】曰、氏親韮山を出城し、敵の陣中に入て、小田原和睦の内談す、伊豆・相模・武藏三ケ國に於は、前々の如く氏直修領せらるべき事、いさゝか相違あるべからず、其上互に證人を取かはし、時日を移さず、歸洛あるべき旨、秀吉公の證文を請取、氏親七月六日卯の刻、澁取口より小田原へ入、氏直は此儀を知らず、老將の謀計におとされ、十郎持口井細田口より、氏直七月六日卯の刻出城なり、同日同刻兩將出入違逆する事、全私の儀にあらず、是ひとへに天のなす所なり、按ずるに、氏親は氏規と誤なり、【大三川志】曰、六日北條氏規小田原より神祖の御陣營に來り、和融の事を議し、秀吉の誓書を得、即日澁取口より小田原に入んとするに、氏直既に神祖の御陣營に到り、降を乞と聞き、空く韮山に歸る)、此日東照宮より井伊兵部少輔直政・榊原式部少輔康政・本多中務大輔忠勝、秀吉の臣脇坂中務大輔安冶・片桐東市正直盛等をして、當城を請取しめらる、(家忠日記追加曰、七月六日、大神君の臣榊原式部大輔康政、秀吉の臣脇坂中務大輔安冶及片桐東士正直盛をして、小田原の城を請取らしめ給ふ、御年譜曰、六日、公遣榊原康政・井伊直政・本多忠勝等、得小田原城、寛永本多系譜曰、七月六日、氏直降參するに依て、九日に大權現小田原の城を請取給ふ、【大三川志】曰、七日、小田原城請取として、神祖より井伊直政・本多忠勝・榊原康政秀吉の監使として、片桐市正直盛・脇坂中務少輔安冶を遣し、城を請取る、按ずるに、當城請取の日、諸書異同あり、今姑く御年譜、家忠日記追加等に據て、六日の事とす、されど寛永譜も全く誤とは云べからず、【小田原記】に、城は則家康卿拝領、本多中書 榊原式部大輔入替るなど見えたれば、九日は御當家へ請取らせ給ひし日なるも知べからず)、明る七日より九日に至り、三日の間、七ケ所の城門を開き、諸卒悉く出城す、脇坂安冶・片桐直盛是を監せり、(【太閤記】曰、氏直ス入旨にて、七日より九日に至て、小田原七口を開き、上下無異議出しけり、脇坂淡路守・片桐市正守奉行とし附置、下々狼藉なき様に制せられしかば、悉く安堵の思ひをなし、おのがさまゝになり侍りしなり)、九日、氏政及弟陸奥守氏照出城して、醫師田村安齋が宅に移れり、(【小田原記】曰、九日氏政氏照は城を出、醫師の田村安Cが宿所に移り給ふ、【大三川志】同じ)、十日東照宮當城に遷らせらる、(家忠日記追加曰、十日、大神君小田原の城に移り給ふ、國朝大業廣記同じ、【大三川志】曰、七月十日、神祖小田原城蘆子川口の内廓に入給ふ)、十一日夜に入、田村安齋が宅に檢使を遣し、氏政氏照兄弟に生害せしむ、(安齋の宅蹟は、侍屋敷の内安齋小路にあり、氏政氏照生害の始末は、其條に詳載す)、北條長氏明應四年、當城を攻取り、城主となりしより次第に武威さかんにして、關八州を領し、氏直に至るまで、都て五代、其間九十六年にして、終に滅亡に及べり、十二日、秀吉の命に依て、氏直紀州高野山に發路す、一門以下近臣三十人從卒凡三百人と云、此時東照宮當城總門におひて、氏直出城の體を御覽ぜらる、大道寺内藏助某氏直に從ひ、路次を警衛し行を感ぜられ、すなはち召て拝謁をたまはり、後刀一腰を賜へり、又榊原式部大輔康政をして、氏直を高野山に送らしめたまふ、(【大三河志】曰、十二日、秀吉北條氏直を紀州高野山へ送る、太田十郎氏房・北條安房守氏邦・同美濃守氏規・同左衛門佐氏忠・同右衛門佐氏堯・大道寺内藏助・松田左馬助秀治・内藤左近大夫・福島伊賀入道々粹・塀和左兵衛・依田大膳師冶・山上郷右衛門顯將・諏訪部宗右衛門定吉・大道寺孫九郎直正・廣澤尾張守重信・弟關根織部勝直・菊地七兵衛等長臣三十人、從卒凡三百人、氏直に從て共に高野山に行く、神祖小田原城の總門に於て、氏直の出城を見させらる、此時阿部伊豫守正勝、牧野半右衛門を以て、大道寺内藏助が路次警衛し行くを召させられ、拝謁を賜り、忠志を感ぜられ、後遠山左太郎を以て刀を賜ふ、秀吉氏直へ米五百人の扶持を贈る、神祖氏直路次の送りとして榊原康政を遣はさる、秀吉旅中警衛の士、驛路の傳馬、途中賂賄を命ず、【太閤記】曰、廿日、氏直高野山へ上り可被申旨に因て、供し侍る人々云々、又曰、氏直翌年三月、大阪へ被召寄織田常眞公の屋形に白米三千俵、其外十五種積並恩賜あり、同き臘月始て御城へ被召寄御對面、來春於西國一ケ國、可被成扶助旨被仰渡しが、少し程經て、疱瘡を煩出し、三十三歳を期とし、終り給ふ、【小田原記】曰、法名松巖院大圓徹公、文祿元年十一月四日、三十一歳にて卒す、按ずるに、氏直當所出立の日異同あり、今【大三河志】によって十二日とす)、十三日、秀吉城に入、關東八州を以て東照宮に參らせらる、(家忠日記追加曰、十三日、秀吉小田原の城に入、此日秀吉關左八州を以て、大神君にまいらせらる)、是に於て松平因幡守康元(本氏久松、初名三郎太郎)、台命を受け、今月より十一月まで、城内にありて、萬事の仕置を掌り、又北條氏浪士の内、名ある士を召抱べきとの内命を蒙れり、(松平諸家譜、因幡守書上曰、因幡守康元、小田原落城の後、七月より十一月迄、小田原の城に被爲置、萬事御仕置等の事をも被仰付、其節東照宮仰に、北條者數代武功之家に候間、名有侍多有之間、相尋召抱可申旨、有御内意、依之抱候家士、横P肥前・同彈正・大石善左衛門・大藤主税・白石八郎左衛門・木下源太左衛門等也)、廿九日、東照宮當城を御進發あり、(國朝大業廣記、按ずるに、十日より今日迄、當城に御滞留有しなり)、八月一日、武州江戸の城に遷らせ給ふ、(家忠日記追加曰、八月一日、大神君兵を率して、武州江戸城に移り給ふ、是を俗に關東御入國といふ、【武コ編年集成】【大三河志】同じ)、此月大久保七郎右衛門忠世に當城を賜はり、四萬五千石を領す、蓋秀吉のすゝめまいらせしに因て賜りしとなり、(家忠日記追加曰、八月、大神君采地を御家人に賜る、相州小田原城、采地四萬石後五千石加増、大久保七郎右衛門尉忠世、【寛永譜】曰、天正十八年、忠世を小田原城主となし、領地四萬五千石を賜ふ、按ずるに、追加に據ば、五千石は後に加恩の地と見ゆ、【大三河志】曰、秀吉神祖に謂て曰、大久保忠世は、コ川家股肱の臣也、小田原城に筥根山を添へて與へらるべし)、文祿元年朝鮮の役に、東照宮二月五日、中原御宿殿より、當城に着御し給ふ、(家忠日記追加曰、秀吉朝鮮國征伐せんと欲す、二月二日、大神君是を援んため、江戸を御首途あり、三日藤澤、四日中原、五日小田原に着御)、二年十月、御歸國に赴せ給ふの時、十月廿三日又御着御あり、(同二年十月、大神君洛を出て、御歸國に赴せ給ふ、廿三日小田原に着御、廿四日藤澤に着御)、三年九月、忠世卒し、(家譜曰、九月十五日歿、時年六十三、法名日脱)、嫡子相模守忠隣家督を襲き、當城の守となり、七萬石を恩賜す、(【寛永譜】曰、忠隣、從五位下冶部大輔、相模守、文祿二年、大權現忠隣をして、台コ院殿に仕まつらしめ、執事となし給ひ、忠世死して後、忠隣相續て小田原城を守り、領地七萬石を恩賜す、【城主記】には、忠隣家督して、四萬五千石を領す、父忠世存生の内、忠隣別地二萬石、武州羽生領は、家男忠常に讓與すとあり)、四年五月、東照宮關東御下向の時、二十三日、當城に着御あり、(【東武談籔】曰、五月十四日、家康公關東御下向、京都を御發駕、廿二日三嶋、廿三日小田原)、七月、關白秀次隱謀の聞えあり、御上洛の時、又御宿城となる、(家忠日記追加曰、四年七月十五日、大神君秀次の逆謀に依て、江戸の城御首途、洛に赴せ給ふ、十七日藤澤、十九日小田原に着御)、慶長五年六月、上杉景勝御征伐の時、廿七日當城に着御、忠隣の嫡子加賀守忠常奔走し奉る、(六月十六日、大神君大阪の城を御首途、東國に御進發あり、廿七日小田原に着御、【大三川志】曰、慶長五年六月廿七日、神祖小田原に到り給ふ、城主大久保忠隣が嫡子加賀守忠常饗膳を獻ず)、九月、上方の凶徒御追討として、御進發の時、三日當城に御着陣あり、(家忠日記追加曰、九月一日、大神君上方の逆徒御征伐として、江戸の城御出途あり、二日藤澤、三日小田原の城に着御、【東武談籔】曰、三日小田原御着陣、此時コ永法印へ御書を賜はる)、此時山内土佐守一豊、(【寛永譜】曰、大權現野州小山に進發し給ふ時、一豊供奉す、石田三成謀叛を企つる由、其聞にあり、一豊言上すらく、速に御出馬ありて、賊徒を御退治あるべし、先掛川の城并に人質を渡すべしとなり、大權現御喜色あり、則内藤信成を以て、掛川の城并に人質を受取、小田原にさし遣し給ふ)、有馬玄蕃頭豊氏人質を當所に參らす、(大權現景勝を征し給ふ時、豊氏供奉して、野州小山に至る、大權現石田が謀叛を聞召し、軍を歸す、豊氏横須賀の城を、御家人衆へ預け、家臣二人は小田原へ遣して人質とし、御進發に先立、濃州赤坂に陣取)、十年二月、台コ院殿御上洛の時、二十六日當城に着御、(家忠日記追加曰、台コ院殿江戸の城御首途、洛に赴せ給ふ、供奉の輩十萬餘人、廿五日藤澤、廿六日小田原に着御)、十月、東照宮關東御下向の時、廿五日當城に入らせらる、(九月十五日、大神君伏見を出給ふ、十月廿五日、小田原に着御、廿二日藤澤に着御)、十五年十月、御放鷹の時、廿日着御、(【東武談籔】曰、十月廿日、小田原に着御、廿一日武州に狩し給ふ)、十六年十月、駿府より江戸入御の路次、九日當城に着御在せられ、忠隣を被召出、息加賀守忠常が所勞を御尋あり、本多佐渡守正信迎として、此所に參着、(十月八日三島、九日小田原、【駿府記】曰、慶長十六年十月九日小田原、城主大久保相模守忠隣被召出、令門息加賀守所勞給、其後當年雁白鳥等多否有御尋、別而多之由言上、本多佐渡守爲御迎出向、有江戸御雜談、幕府御後見也云々、或書曰、十月十日、大久保加賀守忠常於小田原卒去、三十二歳、是御當代無雙の出頭人也)、十一月御放鷹の路次、廿日又着御、忠隣喪明の憂にかゝり、御前に出仕せず、(【駿府記】曰、慶長十六年十一月廿日、御鷹野、鶴三、鴈三十、鴨二十令摯之給、御着小田原、城主相模守忠隣嫡男加賀守去頃卒去、依有其憚、而不出御前云々)、十七年三月十四日台コ院殿當城に着御、(三月十三日、幕下江戸御首途、着御藤澤、十四日幕下着御小田原)、十八年九月、東照宮御放鷹の時、廿一日着御、本多佐渡守正信、加藤助左衛門御迎として、江府より參上、(九月十七日巳刻、爲御鷹野駿府御動座、廿一日小田原着御、本多佐渡守、加藤助左衛門自幕下依仰爲御迎參、御機嫌甚快然云々)、十二月忠隣をして京都に遣され、切支丹宗門の徒を追斥すべきの命あり、よりて忠隣江府を出て當城に歸り、旅装を支度す、(十八年十二月十九日、伴天連門徒、爲可有御追拂、大久保相模守京都可遣之旨被仰出、廿六日相模守爲用意、歸干小田原城)、十九年正月十七日、忠隣洛に赴けり、(家忠日記追加曰、慶長十九年正月十七日、大久保相模守忠隣鈞命奉て洛に赴き、吉利支丹の法を禁ず)、然るに忠隣故ありて御勘氣を蒙り、十九日忠隣の罪科を定め給ふ、(【駿府記】曰慶長十九年正月十八日、江戸新城還御、藤堂和泉守出仕、大御所召之有御密談、十九日召本多佐渡守仰曰、今度大久保相模守與山口但馬守結婚姻不得上意、依之相模守子右京主膳、御追放、安藤對馬守被遣於小田原、城郭受取、相模守從者可追放之由被仰出云々)、廿二日、安藤對馬守重信到着して、當城を受取、(【東武談叢】曰小田原の輩は、去る廿二日、安藤對馬守到着して、城を渡し、公命を承りてより後、主人相模守の罪跡を知らざる故、駭き騒ぐこと限なし)、高力左近大夫忠房、本多出雲守忠朝、牧野右馬允忠成等も共に此事を奉れり、(【寛永譜】曰、高力左近大夫忠房、慶長十九年正月、大久保相模守所領沒收の時、仰に依て、本多出雲守牧野右馬允等と同じく、相州に至り、共に小田原の城を請取、制法を定置、家忠日記追加には、廿一日の事となす、曰、安藤對馬守重信・本多出雲守忠朝・淺野釆女正長重・松平越中守定綱・高力左近大夫忠房等に命じて、大久保忠隣が小田原の城を受取らしめ給ふ)、此日東照宮江府を出御あらせられ、廿四日當城に渡御あり、(【駿府記】曰、慶長十九年正月廿二日藤澤、廿三日中原、廿四日中原出御、路次御鷹野、鶴一、鴈數多令摯給、未刻小田原着御、家忠日記追加曰、廿一日大神君江戸を出給ふ、廿四日小田原に着御)、今朝老臣連署の状を忠隣に遣はす、(【駿府記】曰、廿四日、今曉佐渡守・上野介・帶刀・大炊助・對馬守連判状、遣大久保相模守云々)、廿五日、台コ院殿にも渡御あらせられ、御閑談あり、(廿五日未刻、將軍着御小田原、秉燭之後有御對面、御閑談移刻、佐渡守、藤堂和泉守在御前、餘人不進之)、事畢り城内二丸へ還御、(將軍家還御二之丸【東武談叢】曰、事終て秀忠公は、小田原のニ丸へ還御)、廿六日、外郭を破却せらる、(【駿府記】曰、廿五日、大御所仰曰、明朝自早天此城破却可有之云々、仍江戸駿府の諸卒、崩石垣壊大門、依此騒動自江戸駿府馳參小田原輩、不可勝計、【東武談叢】曰、廿五日、大御所公仰に明日早天より、此城を破却すべしとの御事也、依て翌廿六日より、江戸駿府の諸卒集りて、石垣を崩し、大門を毀つ、故に所々騒動して、江戸駿府より諸勢雲霞の如く駆集る)、安藤次右衛門正次奉行たり、(【寛永譜】曰、安藤次右衛門正次、慶長十九年相州小田原の城外郭破却の時、奉行となる)、淺野釆女正長重、(長重、慶長十九年忠隣叛逆の時、鈞命を蒙り、夜遁に一番に小田原に至る、兩御所是を感美し給ふ、則彼城破却して普請を勤む)、松平越中守定綱、(相州小田原の城を毀時、定綱一組の頭となる)、西郷若狹守正員(慶長十九年、大久保相模守配流せらるる時、正員鈞命依て、相州小田原に赴く)、等是を助く、廿七日、東照宮當城を御首送あり、駿府に還御、台コ院殿にも江府に歸御あり、(家忠日記追加曰廿七日、大神君小田原を出給て、三島に着御、此日台コ院殿にも江戸の城に還り入給ふ)、二月二日、忠隣江州に謫せらる、(二月二日、忠隣江州に謫せらる、井伊右近大夫直俊が領内に蟄居す)、是より御番城となり、藤田能登守信吉、松下石見守重綱、(【管窺武鑑】曰、大久保相模守佐和山へ被遣に付て、藤田能登守水戸城を、笠間城主松平周防守に渡之、相州小田原城を請取、秋元但馬守を被相添、御目付は稻垣平右衛門被遣也、能登守小田原城を、松下石見守に渡し、里見の居城、房州館山を請取、在城仕也、家譜曰、能登守信吉、小田原城在番勤之)戸田丹波守康長、(貞享書上戸田譜曰、二月二日、謫忠隣干江州三月使康長守小田原城、五月自小田原歸)、牧野右馬允忠成、北條出羽守氏重、戸澤右京亮政盛、(【寛永譜】曰、大久保相模守御勘氣を蒙り、小田原の城を除かる、時に八月、氏重小田原に赴き、牧野右馬允に替り、城番を勤ること、四十日にして、戸澤右京亮に替り、氏重江戸に歸る)、近藤平右衛門(後石見守)秀用、高木肥前守正成、(【元和日記】曰、慶長十九年、大久保忠隣を井伊掃部頭直孝に預けらる、小田原の城は、近藤石見守、高木肥前守正就在番す)、等相代て在番す、又大坂の役に、十月八日、松平右近將監成重、(【寛永譜】曰、成重大坂陣の時、鈞命に依て、相州小田原の御城番を勤む)、戸澤右京亮政盛、(戸澤右京亮政盛、慶長十九年、大坂御進發の時、鈞命を蒙り、相州小田原の城を守る、【御撰大坂軍記】曰、小田原城在番、十月八日被仰付、下野板橋一萬石、松平右近將監成重、常州多賀郡四萬石、戸澤右京亮政盛)、松平越中守定綱(【寛永譜】曰、慶長十九年、大坂陣の時、鈞命によりて、相州小田原の御城番を勤む)、等命を蒙り、在番を勤む、廿三日、台コ院殿江城を御出馬、廿五日當城に御着陣あり、(家忠日記追加曰、慶長十九年十月廿三日、台コ院殿師を帥て、江戸を御進發あり、廿四日藤澤、廿五日小田原に着御)、元和元年二月、台コ院殿洛を御下向の時、十四日當城に御止宿、(【東武談叢】曰、秀忠公御參内、御歸路にて、二月十四日小田原、十五日藤澤)、大坂夏の役に、西郷若狹守正員、當城を守る、(【寛永譜曰、西郷若狹守正員元和元年、大坂再亂の時、小田原城本丸の御番を勤む)、十日、台コ院殿江城御發駕、十二日當城に御着陣あり、(家忠日記追加曰、四月十日台コ院殿師を帥て、江戸の城を出給ふ、十一日藤澤、十二日小田原に着御)、九月、東照宮御放鷹の爲に、駿府を出御あり、十月四日當城に着御、(【駿府記】曰、元和元年九月廿九日、駿府城出御、本多上野介・松平右衛門・秋元但馬守・板倉内膳正、其外供奉百餘輩、十月四日、小田原渡御、安藤對馬守・近藤石見守・箱根迄爲御迎參向、五日中原渡御、家忠日記追加曰、十月四日、大神君小田原に着御、此日、台コ院殿の御使、酒井雅樂頭忠世、小田原に來て、大神君に謁す)、十二月、駿府へ歸御の時、十三日御着城あり、(【駿府記】曰、極月四日、大御所江戸御動座、十三日中原出御、小田原着御)、三年二月、神柩久能山より日光山へ遷御の時、十八日當城へ御帯留あり、廿日中原に移らせ給ふ、(家忠日記追加曰、元和三年二月十八日、靈柩小田原に至る、此地に一日留る、二十日靈柩中原に至る)、按ずるに元和元年より同五年まで、近藤石見守、(当時平右衛門と稱す)、秀用御城代たりしと見ゆ、(此事家譜に漏すといへども、今小田原領諸村に五年の間、秀用及其家僕等が出せし證書數通存す、又【金城録】に、慶長十九年より、元和六年まで、御番城、近藤石見守秀用等在番と見ゆ)、茲年閏十二月、阿部備中守正次に賜り、五萬石を領す、(【寛永譜】曰、正次、元和五年大多喜を改て、相州小田原の城に移り、二萬石の地を加へ賜はり、總て五萬石を領す、【萬年記】曰、元和五年閏十二月正次賜小田原城、按ずるに、貞享書上に據ば、正次元和五年二萬石加恩、上總大多喜より當城に移り、五萬石を賜ふ、内三萬石は城附、二萬石は大多喜とあり、然れば二萬石の地は、舊領を因循せしこと知らる)、九年五月、大猷院殿御上洛の時、當城御旅館となる、此夜内藤三十郎・鎭目半彌の二人、御勘氣を蒙れり、(【元和日記】曰、九年五月大納言家御上洛、小田原御旅館の夜、未だ御夜詰過ざるに、不計御番所の所に、永井十左衛門直定組、内藤三十郎・鎭目半彌眠り居て、出御を知らず、是に依て内藤鎭目遠島に配流せらる、寛永阿部譜曰、台コ院殿及將軍家御上洛の時は、小田原に渡御あり)、今年正次武州岩槻城に得替せらる、(【寛永譜】曰、元和九年、正次小田原を改め、武州岩築の城を給り、五千石の地を加へ賜ふ)、是より又御番城となり、寛永元年、近藤石見守秀用御城代たり、(近藤平右衛門秀用、寛永元年、相州小田原城番を勤む、同二年從五位下に叙せらる、石見守に任ず、同八年二月六日卒す)、二年御居城を此地に築かるべき爲、阿部四郎五郎正之仰を蒙り、當所に來る、翌三年又來ると雖、終に其事止らる、(正之、寛永二年、仰により相州小田原に至る、翌年二たびゆく、御居城を彼地に築かるべき爲なり、しかりといへども、事ならず)、八年、高木主水正正成御城代となる、(高木主水正正成、寛永八年小田原の城代となる、按ずるに、【元和日記】曰、寛永元年三月、今年相州小田原城爲御番城、高木肥前守正成勤番、但在番之間八年也と見ゆれど、家譜には載せず)、九年十一月、稻葉丹後守正勝に賜り、八萬五千石を領す、(【寛永譜】曰、九年、正勝野州眞岡四萬石を轉じ、相州小田原の城を賜り、四萬五千石を加倍し、キて八萬五千石を領す、且公役を以城壘を修理す、又鈞命を受て、箱根の關を守る、是要地たるによりてなり)、此時土屋市丞勝正使節を奉り、當城を武勝に渡せり、(土屋市丞勝正、寛永九年御使番となり、同年十一月廿六日、嚴命により、使節として、小田原の城を稻葉丹後守に渡す)、是に於て正勝仰をうけ、城壘を修理す、(【寛永譜】前註に載す、【慶長寛文間記】曰、寛永十年正月廿日、晩寅の刻に大地震ゆり候て、人馬數多死し申候、家の儀は、一つも不殘、夫より小田原町割御座候、是城普請に、古より有る松木を切申たるによりてと申ならはし候、此木は北條三代目、氏康公の髪置の松と申候、それ故か小田原城石垣へ掛り候者は、皆々果申候、城主丹後守殿御煩にて、御果被成候、奉行は、黒川八左衛門高野へ參り候、町人、大坂の米屋彌右衛門後成敗、江戸八町堀石屋甚兵衛籠舎の上、親子御成敗、京の盛甫と申候者は、江戸拂はれ申候、是は根來多兵衛と申者、石垣坪數盗み申候と訴人仕候故也、乍去右の松木切申罰にて、皆々死申候由に候)、十一年正月、正勝卒す、(【寛永譜】曰、正勝寛永十一年正月廿五日卒、歳三十八、法名紹大道號古隱、養源寺と號す)、其子美濃守正則遺跡を相續し、城主となる、(美濃守正則、寛永十一年正月廿五日、井伊掃部頭、酒井雅樂頭、土井大炊頭、酒井讃岐守等鈞命を奉り、正則をして遺蹟を繼しめ、小田原の城并に八萬五千石の地を賜ふ、時に十二歳)、六月、大猷院殿御上洛の序廿二日當城に着御あらせられ、正則御膳を獻ず、(同年六月、將軍家御上洛の時、小田原の城に渡御あり、時に正則御膳を獻ず、還御の時も又然り)、將軍家和歌を詠ぜしめ給ふ、(【柳營上洛記】曰、寛永十一年甲戌の年水無月の中の十日に、江府の柳營を出御ならせ給ひ、廿二日の暮つかた、小田原の城に入せ給ひ、堪ぬ暑に端居させ給ふに、折しも庭の白洲に水そゝぎ侍りけるが、御前間近き若き人々、水かけ草のたはぶれるに、ぬれそぼちければ、其有様ども上覽ありて、空にしらぬ夕立降らず庭の面に暑さ忘るゝけふの夕暮、寛永後上洛道中尊譽には、空に知らぬ夕立來る庭の面に暑さを流す水の音哉に作る)、林道晴信勝御前に伺候し、一絶を賦す、(【羅山詩集】曰、寛永甲戌六月廿二日、幕下入洛之路次、相州小田御前即席、豆相境致氣晴奇、台覽彌高惜日移、佳景猶呈太平象、海山増色晩涼時)、翌 廿三日御逗留あらせられ、又御咏吟あり、(柳營上洛記】曰、廿三日は、人馬の足を休させ給ふとて、小田原に御留座有けり、此夜とり〃御物語りなど申上、宿直仕し次でに、上意ありけるやうは、尊賤しき人をわかず、時に隨ふ習にて、世を過すものなりと宣ひて、則其心を御咏吟なり、心有も心なき身もおのづから時にならへる人の身のはて、尊咏には人の世の中に作る)、關東御下向の時にも、又御宿城となる、(【寛永譜】前注に見ゆ)、寛文三年二月八日、正則に一萬石を加賜せらる、(家譜)延寶八年正月十二日、又一萬五千石の御加恩あり、新田を合せ都合十一萬七千石を領す、(家譜曰、内七千石新田)天和三年閏五月廿七日、正則領邑の内、一萬五千石を、庶子四人に分配して、隱居す、(家譜、近代城主記曰、天和三年閏五月廿七日、高十一萬石餘の内、七千石次男出羽守正喬、三千石、内ニ千石新田、三男毛利外記元矩、新田三千石、四男主水正辰、ニ千石、五男大學正冬配分)、息丹後守正通家督を襲ぎ、十萬ニ千石を領す、(家譜)貞享二年十二月廿一日、越後國頸城郡高田に移封し、(家譜、并近代城主記)、三年正月廿一日、大久保加賀守忠朝に當城を賜はり、十萬三千石餘を領す、(家譜及城主記共曰、元佐倉九萬三千石、今般一萬石を加賜す)、元祿七年四月廿一日、一萬石を加賜し、十一萬三千石餘を領す、(家譜)十一年十月十六日隱居し、息隱岐守(家譜曰、寛永二年加賀守と改む)、忠増家督、十一萬三千石餘を領し、新田一萬石を弟二人に配分、(忠増、元禄十一年家督を繼時、新田六千石を弟長門守教寛、同四千石を弟宇津出雲守教信に配當)、十六年十一月廿一日、地大に震し、當城囘祿に罹り、城下家士の宅及民屋悉く覆倒す、(家譜)寶永四年、富士山焚燒の後領邑砂礫に埋まれしを以て、五年閏正月、五萬六千三百石餘の地他所にて替地を賜はれり、(家譜)正コ三年七月、忠増卒し、(家譜)九月息加賀守忠郁遺跡を繼ぎ、十一萬三千石餘を領す、(家譜)六年三月、先に富士山焚燒の後賜りし替地を、官に還入して、舊地を賜ふ、(家譜)此より子孫相繼で今の加賀守忠眞に至れり、凡城垣の要害地理に至りては、禁忌に係れるを以て、詳にするを得ず、今古圖及び舊記に載するものを鈔撮して、其大概を編録する左の如し、
○本丸 東北二方に門あり、西方に三重のコウ(土へんに侯、以下同じ)樓あり、(【主圖合結記】に本丸は、二丸より地形七間高しと云、天正落城の時、氏直室(東照宮の姫君)、を此所に置奉り、板部岡江雪齋を留て、守護せしむ、江雪齋すなはち姫君を家人に渡し奉る、(【大三河志】)△摩利支天社 コウ樓の下にあり、○二丸 本丸の東に續けり、南北二方に門あり、南にあるものはショウ(言に焦、以下同じ)門なり、巽隅に二重のコウ樓あり、(【主圖合結記】に、二丸は三丸より地形一間高しとあり、○三丸 二丸の東に續けり、東方に大手口ありて、ショウ門を設く、坤隅の一門を、欄檻橋口と云、(門外は欄檻橋町なり)、或は箱根口とも云り、北方に一門あり、幸田門と云、(門外に幸田の地名あり)、永祿四年、上杉輝虎當城を攻し時、この門外まで押寄し事見ゆ、(【北越家書】曰、味方勝に乘て北るを逐、小田原の城下へ押迫り、大手幸田口を初として、諸將攻口の丁場を定め云々)、乾隅の一門を谷ッ口と云り、(此門を出れば、谷津村に至る)、古へ蓮池門と云るは、此門なるべし、永祿の亂、上杉輝虎小田原蓮池門まで押寄、此門は大道寺駿河守政繁持堅めしこと所見あり、(【小田原記】曰、景虎小田原表へ馳着、蓮池の門まで押寄す、彼門は松山大道寺堅めければ、無左右押寄るに不能、人衆を備へ對陣す)、此時輝虎が魁將、太田三樂門外に至り、城兵と挑戰へり、(【北越家書】曰、魁將太田三樂齋、己が人數を三隊に作り、東の方蓮池口の四門に向て攻掛る、城中にも弓鐡炮の手垂を撰て、高櫓塀の狹間より矢炮を連貫、透をあらせず打出し射出しけれ共、味方の兵些とも白まず、死骸を蹈競ひ進む、長尾黨下知して、城の矢狭間を開んが爲、三十目の玉を以て、百挺許一同に打掛たるに、塀櫓を打崩され、城兵難儀に及ぶ云々)、同十二年、武田信玄亂入の時も、蓮池門まで攻入、對戰に及しことあり、(【小田原記】曰、信玄手に障る者なく蓮池門まで、攻入、【甲陽軍艦】曰、武田勢小田原へ亂入、既に四つ門蓮池と云所迄押込、内藤修理同心九人、鎗を合せ頸を取候、寛永森山家譜に武田信玄兵を進め、小田原四門に至る時、森山石見守俊盛、先陣小山田備中守が旗下に屬し、戰功を勵す、是より先、上杉の攻寄し條にも、蓮池口の四門と【北越家書】に見ゆ、今按ずるに四ッ門と記せしは、則谷津門の轉訛なるべし、【鎌倉九代後記】には、蓮池揚土邊まで責入とあり、【關東古戰録】に、蓮池口上ヶ土門の邊まで押詰と見ゆ、今谷津門外は、侍屋敷にて揚土と唱へり、然れば蓮池門は、果して今の谷津口門なること知らる)、此郭内に侍屋敷あり、
○辨天社 三ノ丸西方に沼地あり、其中嶼に祀れり、大永二年北條氏綱勸請して、城内の鎭神とす、(【小田原記】曰、大永二年九月の初、武藏の淺草觀音、辨才天堂の邊より、錢涌いづることあり、氏綱を初奉り諸人不思議と云處に、蓮乘院法印語り申けるは、辨才天は、觀音御分身北條家の守護神、御紋はこれ辨天の鱗とかや、御當家には、殊更御崇敬最也と演説ず、依之御城北の堀の内へ、法印を以、江島辨才天を移し奉り、當城の鎭守と崇め奉り、武運の長久を祈られけり、今の辨才天の宮是なり、按ずるに、大工町蓮上院舊記に、大永二年、當寺十三世法印亮海、辨才天本地垂跡の由來を、氏綱に演説し、氏綱郭内に一島を築き、辨天を勸請せしとなり、
○城米曲輪 本丸の北に續けり、南に一門あり、本丸に達す、巽に木戸門あり、ニ丸に通ず、○鷹部屋曲輪 二丸の西寄につゞけり、坤隅に二重のコウ樓あり、○厩曲輪 二丸の南に續けり、西北二方に門あり、東南隅に二重のコウ樓あり、此郭の東門を出て三丸に至る、巳上の諸郭は、皆四方土居を築廻し、塀をかけ、壕塹あり、○雷曲輪 鷹部屋曲輪の西につづき、地形漸く高く、三方空塹を廻し固とす、○鹽ショウ(火へんに肖)曲輪 城米曲輪の北にあり、爰も地形高く、枯壕を廻して要害とす、按ずるに、板橋村舊家石屋善左衛門の家乘に、天正小田原落去の後、東照宮城内を歴覽し給ふ時、小田原石もて疊み築きし焔硝庫を上覽あらせられ、其工人を召れしかば、中興の祖善左衛門拝謁せしこと見ゆ、盖當時此郭内にありしなるべし、○鍛冶曲輪 雷曲輪の西北にあり、田園など開けり、△八幡社 此郭の乾の邊山上にあり、北條氏康の建立と云、除地を附す、宮前町玉瀧坊進退す、
○小峰 鍛冶曲輪の南にあり、明應中大森氏城主たりし頃、一族當所に住せしこと、武州多摩郡氷川村舊家の家乘に見ゆ、(舊家峯次郎家乘曰、明應中、相州小田原の城主、大森式部少輔氏頼の次男宗頼は、小田原の小峯と云所に住せり、北條新九郎氏茂が爲に亡され、兄弟ともに沒落せしとき、宗頼が子肥後守頼定は、この地へ落來り、氏を小峯と改む云々、按ずるに、宗頼の事大森家譜に所見なし)、天正籠城の時、北條左衛門佐氏忠固めし所なり、(【小田原記】曰、野州佐野の城は、北條左衛門佐氏忠の城なり、氏忠我身は小田原の小峯に居住して、佐野の城には舊臣共を籠置)、寄手此口より人夫をして地中に堀入、櫓一箇所を崩せり、(【北條五代記】曰、天吉公小田原の城を秀軍にて攻、小嶺山の攻口は、土穴を掘入て、矢倉を打返すといへども、土の底に有て、最もuなし、【大三川志】曰、秀吉金堀を集め、小嶺山の攻口櫓下より堀入り、櫓一つ倒す、然れ共人夫等土石に打れ、死する者多し)、落城の後豊臣秀吉より子城小山を、大久保七郎右衛門忠世に附與せしこと、大久保家譜に見えたり、則此處なるべし、(【寛永譜】曰、秀吉小田原城を圍む時、大權現兵を率て、共に赴給ふ、城の落るに及て後、秀吉より其子小山を、直に忠世を呼て、これを授く、其後大權現忠世を、小田原の城主となし給ふ、
○濱手門 大手口の外、宮前町に出る路頭にあり、門内に番所を置、△更鐘 門内西方にあり、寶永四年の鑄造なり、
○江戸口 府内東方の入口にて、東海道の大路に値れり、木戸門を設け、門内に番所あり、古へ山王口と云、或は酒匂口とも呼り、(門を出れば、山王社あり、山王原村の屬)、天正の役に、御當家の御責口にて、本多豊後守康重仕寄を付しなり、(本多越前守覺書曰、天正十八年、小田原陣の時、豊後守康重山王口より仕寄致、城を攻申候、此時康重矢疵一ヶ所負申候)、又榊原式部大輔康政伏兵を置敵兵を討つ、(【寛永譜】曰、秀吉北條氏を征伐の時、大權現も發向し給ふ、榊原式部大輔康政先駆をうけ給り、四月五日相州酒匂口に於て、兵を伏置、敵兵の城に入んとするものを討走らしむ)、此口の邊に出丸あり、山王笹曲輪と云し事當時の記に往々見ゆ、(事は山王原村の條に詳載す)、
  ○上方口 府内西の出口にて、木戸門あり、門内に番所を置、古は箱根口といへり、(箱根山中に達する口なり)、天正籠城の時、松田尾張守入道鳳栖父子、將帥として、此口を固む、(【小田原記】曰、先大手箱根口宮城野には、松田入道父子大將にて、上田上野介、原式部大夫、其外安房里見の人衆、上總萬木・境・小瀧・東金・小金・相馬の勢一萬三千騎にて堅たり)、此頃の物に、湯本口と載たるも、今の地形を以考ふれば、同所なるべし、されど正き考證を得ず、盖天正の役に、千葉新介氏胤が陣代、原郷成此口を固めしが、最初に破れて上總刑部なる者討死す、是より諸方の口々破れて、皆城内に引退、(湯本口には、千葉介、但父國胤は逝去して子息新介幼少にて、原名代として八千餘騎堅たり、【大三川志】曰、四月、宮城野の守將、松田憲秀、上田朝廣、竹浦口の守將、北條氏輝、皆川廣熈、湯本口の守將、千葉氏郷が陣代原郷成、其餘畑・湯坂・塔峯・松尾嶽、皆勢に恐れ、悉く持口を捨て、小田原城へ逃入る、東遷基業曰秀吉は八萬餘の兵を以て、湯本口の千葉が陣追崩し、上總刑部討れければ、一番に此口敗れ、宮城野・竹浦口を固めたる勢も崩れたてゝ、皆小田原の城につぼみけり、
○水ノ尾口 上方口の北につゞきし口なり、(此口を出れば、水野尾村に至る)、古へ宮城野口といひしは是なり、天正の籠城に箱根口より此口迄の間、松田尾張守の持口なり、(【小田原記】上方口の條に註記す)、松平周防守康重、此口に向て合戰し、敵の首級多く得たり、又小笠原安藝守信元も、同く功あり、(【東遷基業】曰、松平周防守は、佐野口より進て、宮城野に向ひ、敵の首八十餘級討取、小笠原信元も、又多く首を取)、
○早川口 箱根口の南につゞき、(早川村に出る口なり)、熱海道に値れり、永祿十二年八月、武田信玄、當城に寄る時、此口の前を押通りし事あり、(【甲陽軍鑑】曰、信玄公は、浪打際を押通り、早川口を右に見て、湯本の内、風祭に陣取らる)、天正の籠城に、北條右衛門佐氏堯此口を固む、(【小田原記】曰早川口には、右衛門佐氏堯大將分にて、數萬騎固めたり)、寄手には、脇坂中務少輔安冶・九鬼大隈守嘉隆・加藤左馬助嘉明等船手の大將として攻寄たり、(寛永脇坂家譜曰、秀吉四月二日小田原の城を圍み攻む、下田へ使者を遣し、脇坂・九鬼・加藤三人を小田原へ召れければ、三人は船に乘、海上より小田原へ廻り、城の南の濱手早川口を固む、 ○井細田口 外郭北の出口なり、木戸門を設け門内に番所あり、(此門を出て、荻久保村を過り、井細田村に至る)、甲州海道に値れり、永祿十二年武田信玄當城に押寄し時、石巻下野守康敬福島伊賀守入道道隨此口を堅む、(【小田原記】曰、永祿十二年八月、武田信玄小田原亂入の時、石巻下野守九島道隨入道井細田口を持堅む)、天正の籠城に、太田十郎氏房の持口なり、(井細田口には太田十郎氏房)、寄手は羽柴下總守雄利受取れり、(【北條五代記】曰、氏直舎弟、太田十郎氏房は多勢故、井細田口より久野迄、百八十間の持口、此面攻よる敵は羽柴下總守なり)、此口より和議を調へ、(此井細田口より取寄て扱ひとぞ聞へける)、氏直出城あり、(十郎持口井細田より、氏直七月六日卯尅出城なり)、遂に落去に及びしを以て、土俗破れ口と呼なせり、○谷津口 井細田口の西につゞけり、(谷津村より郭外に出る口なり)、古へ久野口と云しは是なり、天正の籠城に、武州岩槻の城主太田十郎氏房、井細田口より此口までを固む、(【小田原記】曰、久野口も太田十郎氏房、【北条五代記】曰、氏房は井細田口より久野まで、百八十間の持口なり)、今も此口の内岩槻臺と唱ふる地あり、(事は谷津村に出す)、巳上所載は、皆外郭の虎口なり、此餘天正籠城に、竹ノ花口は、北條陸奥守氏照巳下諸持固し事見ゆ、(【小田原記】曰竹ノ花口、北條陸奥守氏照・成田下總守氏長・皆川山城守・壬生上總介、一萬五千餘騎)、今其地詳ならざれど、府内竹花町の邊、井細田口の南につゞきし所なるべし、又澁取口にて、敵兵夜討の時、筧助兵衛爲春、敵の鑓を奪取し事あり、(【寛永譜】曰、爲春、小田原陣にも菅沼が許にあり、志保取口において、敵兵夜討のとき、爲春敵の鑓を奪取る、菅沼その鑓を取て、大權現の高覽に備ふ、こゝに於て御勘氣を許さる)、又城兵鈴木大學繁修、此口に於て討死せし事所見あり、(【北條五代記】曰、氏直旗本の弓大將に、鈴木大學頭と云者、精兵の大矢づかを引、上手の名を得たりき、小田原籠城の時節、しぼとり口の役所にあつて、矢倉へ日々あがり、敵を目の下に見て、鈴木大學頭と矢じるしを書付放つ矢に、あだ矢は一つもなし、敵大學を討んと心掛しが、終には鐡炮にあたつて果たり、酒匂村民新左衛門の家系に、祖先鈴木大學頭繁修、天正庚寅五月六日、小田原澁取口に於て討死すと記す)、和談の時、北條美濃守氏規此口より入城せんとせしことあり、(詳なる事は、前に見えたり)、澁取は、山王口の北につゞきし口にて、(其口の内に、今も澁取の地名あり)、北條氏の頃は、櫓を置しと云傳ふ、(今も其邊の地中より銃丸など得る事まゝありとなり)、此口何の頃か廢せり、凡外郭の固めは、外塹を廻らせしかど、稻葉美濃守正則領主たりし頃、田圃に開墾して、今は土居を廻らせるのみなり、
侍屋鋪
城の東南北の三方を擁して、各居宅を設け軒を連ぬ、其地域は城下町三分の二に當れりと云、地名逐一採録するを得ず、今姑く故事に關係するもの、或は町の比隣に接する地名を抄撮して其大概を録する左の如し、
 ○大手小路(於保天故布冶) 大手前の大路にて唐人町に達す、
 ○唐人町(多宇自武地也宇) 大手小路の東につゞきて、末は新宿町に至るまでの直道を云、永祿九年、當國三崎の浦に著船せし、唐人居住せし所なり、(【小田原記】曰、永祿九年の春、三浦三崎の浦へ唐人著船、買賣の利を得て歸國しける、其中に唐人あまた、斯る目出度所へこそ住べけれとて、歸國に能はず、當所に留まる、則小田原に居住、町屋を給り商人と成、今も其子孫あまた小田原にありとかや云々、土人の話には、北條氏の臣安藤豊前守三浦三崎へ至り、當所へ連來りしと云)、此大路則將軍家御上洛の御成道なり、
 ○安齋小路(阿武左以古夫冶) 東海道の大路より南に折れ、欄干橋及筋違橋兩町の界に入、茶畑町より侍小路を經て海濱に至るまでの横町を云、
 △田村安齋(古記には安Cに作る)、宅跡 今其跡慥に傳へず、天正十八年落城の時、七月九日北城氏政氏照兄弟出城して、此宅に移り、(【小田原記】曰、同七月九日、氏政・氏照は城を出、醫者の田村安Cが宿所に移り給ふ、【太閤記】曰、昨日七日迄は、數萬騎の主として有しが、今日は引かへ、七月八日醫師安Cが宅に移り、浮世の日數迫り來て、時を待有様、物に越て哀なり)、十一日の晩生害す、(思もよらざるに、同十一日の晩、石川備前蒔田權之助・佐々淡路・堀田若狹守・榊原式部大輔檢使として切腹可有となり、無念の次第なり、兼てかくと存なば、城を枕に討死すべきに、運盡てたばかられ、氏政今年五十三歳、從四位下左京大夫平朝臣、號截流軒、氏輝陸奥守從五位下平朝臣、號心源院、兄弟自害し給ふ、介錯は舎弟美濃守氏規、首を討て落し、則自害に及ぶ處に、井伊兵部走寄、懐捕て助け申、【太閤記】曰、關白殿仰けるは、今度是迄數十萬騎來りしも、北條家を可打果ためにて有ぞかし、然るに氏政以下悉く助なば、兼ての言葉も空きに似り、氏政・氏照には、切腹させ、氏直兄弟は、可相助旨、家康卿へ御相談ましませば、尤も宜き御事に奉存由に付て、檢使をぞ定られける、然るにより十日の晩、石川備前守・蒔田權佐・中卿式部大輔・佐々淡路守・堀田若狹守、家康卿より榊原式部大輔檢使として、安C軒が宅に來り、其有増を云出さんも、痛はしく思ひ侍りし體を、氏照令推察、行水の暇を芳情あれよといはれしかば、いかにも緩々と御文なども調られ候様にと、何れも申けり、頓て行水をも沙汰しつゝ、斯ぞ續けられける、北條左京大夫氏政、天雲の覆へる月も胸の霧も拂ひにけりな秋の夕風、又、我身今消とやいかに思ふべき空より來り空に歸れば、舎弟陸奥守氏照、天地のCき中より生れきてもとのすみかに歸るべきなり、如斯侍りて、切腹の形勢、さすが北條家代々相續有しゝるしかなと思はれて、殊勝にも思はる、兩人の面を、秀吉公へ、家康卿御持參有しかば、不恐天命者の事なれば、洛の戻橋に掛置、可申旨、石田冶部少輔に被仰付にけり、【北條五代記】曰、氏政七月十一日生害に臨ですける道とて、吹と吹風な恨そ花の春もみぢの殘る秋あらばこそ、北條系圖曰、氏政五十三歳、法謚慈雲院勝岩傑公大居士、
 △北條陸奥守氏照邸蹟 今其蹟慥に傳へず、山角町傳肇寺、昔し筋違橋町大蓮寺の東隣にありし頃、(今の安C小路の内、水主長屋の地なり)、其比隣に氏照の居第ありし事、傳肇寺、所藏の文書に見ゆ、(曰、奥州屋敷構要害之内へ不入而雖不叶地形候、寺内可鑿事無心候付而云々)、氏照は、左京大夫氏康の次子にして、大石源左衛門定久の養子となり、初由井源三と稱す、武州八王子の城主なり、小田原の役に、當城に籠り、落城の後、兄氏政と同く生害す、時に年四十九、(法名心源院透嶽宗關居士)、
 ○狩野小路(可能古布冶) 筋違橋町の大路より南折する横街をいふ、北條氏の臣、狩野氏宅跡の邊なるを以て、此名ありしならん、
 ○西海子(左伊加地) 山角町の南裏にあり、
 ○御花畑(於波奈婆太介) 山角町の大路より南折して至る、稻葉美濃守正則在城の頃は、花園を設けし所なり、後一圓侍屋鋪となれり、
 △松田尾張守康秀入道鳳栖宅蹟 今侍屋鋪となれり、稻葉氏在城の頃の圖に、花畑と題し、東西八十六間南北七十二間と記せし處、即宅蹟なるべし、(近世の紀行に、小田原濱ばたに、松田尾州が屋鋪跡あり、今とても亂臣の汚名をいみ、田畑にだにせず、馬蹄の塵とのみあれゆくとあり)、永祿十二年武田勢亂入の時、城下を放火せしに、康秀が宅のみ燼餘に免れしかば、馬場美濃守信房承り、一炬の焦土となせり、(【甲陽軍鑑】曰、永祿十二年八月、武田勢小田原に亂入、小田原町屋の事は申に及ばず、侍衆の家共皆燒つるに、松田尾張屋敷計殘りたるを、信玄公聞し召、我屋敷計燒かせざると、松田尾張いんけん申べき事必定なり、是を燒殘したるを、機にかけて、信玄公仰らるゝ、そこにて馬場申上るは、此度某は信州御留守居に定めらるれども、御法度を背き、小田原御陣見物に參り候へば、御旗本前備に罷在、何事にも構不侍、客人にて候、客人分に松田屋敷を、我等燒可申候と申上らる、信玄公聞召、馬場美濃此度は、唯五十騎召連候に、跡によき者を數多置、若き者ども四五十騎にては、如何と仰らるゝ、馬場申は、左様には候へども、ならずは元の物と思召候て、仰付られ候はゞ、惣手より萱木を侍一人に一把宛、馬場方へ持てより、美濃に渡せと御意なされ候へと申に付、?(虫に玄)の指物衆、或は廿人衆頭、御中間頭に觸させなされ候へば、即時に萱木を持よる、小田原町燒拂たる道筋毎に、城より出る所を勘辨し、今の萱木をつませ、唄をならし候聲を聞候はゞ、火を付よと、奉行に置者共を一所へ呼其理究を申訓へ、美濃守は馬乘十騎、足輕三十連を、松田屋布のきはへ行き、鐡炮で打掛候へども、屋布に人聲なければ、そこにて唄を吹立、口々の萱木に火を付させ、少し有て後、松田屋布を悉く火を掛燒拂申候、信玄公御ス喜なされ候、)康秀(或は村秀、又憲秀に作る、氏康の一字を賜はり、康秀と改む、)の先祖左衛門頼秀、明應中北條早雲に仕へし以來、累世老臣輔佐の職たりしに、小田原の役豊臣秀吉に内通し、隱謀を企て、事露れて誅せらる、
 ○厩小路(宇萬也故夫冶) 山角町の大路より南折せる熱海道の通衢を云、
 ○大久寺小路(駄以幾宇慈古不冶) 山角町の西方、大路より南折して大久寺門前に達す、
 ○手代町(天駄伊麻地) 大工町、甲州道の大路より北に入る横町なり、
 ○三軒屋(佐武計牟也) 手代町東背の小路なり、
 ○八段畑(波津他武婆多) 大工町の東北にあり、古へ此處に大雲軒と號せし寺あり、大永五年、谷津村に移轉す、(後又板橋村に移、興コ寺と號す、同寺記録曰、昔は小田原八段畑と申處に有之、大雲軒と申候由、大永五年北條氏康中興其砌谷津村當時新藏屋敷へ替地云々、)
 ○花ノ木(波奈乃伎) 大工町連上院の所在を花ノ木と唱へ(【小田原記】にも、花ノ木連上院と見ゆ、)山號にも稱す、新宿町より同院に達せる横町を、花ノ木横町と呼り、同町稱往院の山號も、古は花ノ木と云しとなり、今按ずるに、【北條役帳】に花ノ木隱居、或は花之木など見ゆ、盖當所に住せし人なるべし、(曰、買得、九十貫文、東郡津村内花ノ木隱居、又曰、花之木、百貫文、中郡小磯、百十貫文、同恩名及川、百五十貫文、東郡一ノ宮之内、四十六貫文、下中村惣領分、以上四百六貫文、此外三百八十一貫六百文、金子郷寄子給、又朝倉平次郎知行豆州梅名ノ内五十貫八百文、花之木隱居、永代買得と見ゆ、)
 ○澁取(志夫登里) 花ノ木の北方につゞき、府内構土手の内なり、古へ此地に虎口あり、澁取口と唱ふ、(事は城の條に詳載す、)今は土手外、中島村に接せる所に、大工町の持添新田あり、こゝをも澁取と唱ふるは、其名の波及せしなるべし、大工町舊家與助の家乘に、祖先は天正中澁取に蟄居し、落城の後、東照宮城内御巡見の砌、御馬前に謁し奉り、宅地(七反餘、)を免除せられ、澁取の支配を命じ給ひしとなり、其後稻葉氏城主となりし頃、一圓侍ひ屋敷となれり、
 ○大新馬場(於保之武波々) 竹花町甲州道大路より東に折る横町なり、
 ○中新馬場(奈加志武波々) 竹花・須藤兩町の界より、東に入る横町なり、
 ○幸田(加宇駄) 幸田門外にて、須藤町の西にあり、上幸田・下幸田と分唱ふ、按ずるに、北條氏の臣に幸田氏あり、(【北條役帳】に、幸田右馬助・幸田源左衛門、古文書等に、幸田與三・幸田大藏丞などの名見ゆ、)盖當所に居住せしを以、地名となりしならん、
 ○揚土(安計都知) 谷ッ口門の外にあり、永祿十二年十月、武田信玄當所亂入の時、揚土邊まで責入と見えたり、(【鎌倉九代後記】曰、十月信玄小田原へ押寄、蓮池揚土邊に至る、【古戰録】曰、信玄備へを督して、蓮池口上ヶ土門の邊まで押詰、閧を發して攻掛ければ、城中にも閧を合て、三浦衆打出たり、)寛永十一年、稻葉美濃守正則當城を賜はりし時、年尚幼なるを以て、親屬齋藤佐渡守利光當所に來住して、後見をなせしことあり、(稻葉家譜曰、稻葉正則、寛永十一年繼家督、拜領小田原城、時十二歳、依祖母春日局願、正則大叔父齋藤佐渡守利光、與力十騎、同心五十人召連來、居住干小田原城中揚土、大小事指揮之、爲後見云々、
 ○新藏屋敷(志武久良也之岐) 揚土の邊なり、古竹花町法授寺、板橋村興コ寺當所にありしと云、興コ寺は大永五年八反畑よりこゝに引、承應二年今の地に移る、法授寺は、明暦三年今の地に轉ずと云、
 ○鍋釣小路(奈倍都留古父知) 是も揚土の邊なり、
 ○金箆小路(加奈倍羅古父知) 同じ邊にあり、
城下町
城の東南を擁し、凡十九町あり、數内新宿町・万町・高梨町・宮前町・本町・中宿町・欄干橋町・筋橋町・山角町の九町は、通町と號す、(東海道の大路に連ぬるを以てなり、)茶畑町・代官町・千度小路・古新宿町の四町は、通町の南脊にあり、物町・一町田町・臺宿町・大工町・須藤町・竹花町の六町は、甲州海道に連れり、此十九町を總て小田原宿と稱す、此他谷津村といへる村落あり、農民の住せし所にて宿驛の事に預らず、十九町一村を統て、小田原府内と稱せり、其詳なることは、各條記せり、又府内の略圖を縮寫して左に載す、但城下町の如き、今親しく目撃する所なれば、頗る信を取に足と雖、侍屋鋪及谷津村に至りては、古圖に據り、大綱を撮擧し、沿革の大略を示すのみなり、