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5.関東の争乱と大森氏

 大森氏は駿河国駿東郡の国人で、鎌倉時代中末期以降は北条氏得宗被官だった。室町時代初期、鎌倉府は関所からの収益(関銭)をひとつの経済的基盤としており、大森氏は、駿東郡から箱根道に連なる交通網を押さえる実力者として登場したとみられる。従来、西相模の御家人といえば、土肥・中村・二宮・土屋といった中村一党の勢力が大きく、松田・河村の波多野一党勢力、及び曽我氏などが知られていた。大森氏は上杉禅秀の乱以後、西相模の旧来勢力に代って地盤を当地に移し、小田原北条氏が台頭するまで、西相模の有力豪族として活躍した。以下、関東の争乱の中で、大森氏がどのように駿河国駿東郡から相模国西部に進出し、活躍したかを明らかにする。

(1)建武政権の成立と関東の騒乱

 鎌倉幕府が崩壊して成立した建武政権は、後醍醐天皇の親裁を基本とする政治体制だったが、天皇が出す綸旨ですべてを支配しようとして、その施策は混乱した(*1)。御家人たちの支持を取り付けた足利尊氏は建武政権に反旗を翻し、やがて室町幕府の設立、南北朝内乱へと突入する。南北朝内乱の間には、尊氏・直義兄弟間の戦い(観応の擾乱)も勃発する。さらに、尊氏が関東に設置した鎌倉府も、新たな火種となって、以来関東では絶え間ない争乱に明け暮れた。こうした中で、御家人たちはいずれかの勢力に組みすることになり、西相模では旧来の御家人たちが没落していき、代わりに大森氏が台頭してくる。

*1 その施策の混乱ぶりは、西相模でも例がある。相模国大友郷では、後醍醐天皇が九州の武士詫間別当太郎宗直に、相模大友郷内田地壱町・屋敷の地頭職ほか知行を安堵したが、在地の武士矢田与一から濫妨を受けたため、建武政権の雑訴決断所に訴え、建武政権は関東の実質的権力者足利直義に施行を命じている(小田原市史史料編「原始・古代・中世T」(以下単にTと記す) 128.129.130)。

 さて、建武政権内部では様々な勢力の対立を生じていたが、その虚をついて建武2年(1335)7月北条高時の遺子時行が信濃で蜂起し、鎌倉に乱入した(中先代の乱)。足利尊氏は時行の追討と称して天皇の裁可を得ず鎌倉へ下向、時行勢を破った(*2)が、これは後醍醐天皇への反乱とみなされ、天皇は尊氏を鎮圧するため新田義貞を追討軍として派遣した。尊氏は義貞を破り(*3)、そのまま京都へ進軍したものの、奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞に攻撃を受け、京都を退いて九州に逃れた。しかし、その最中尊氏が発した「元弘没収地返付令」は建武新政を否定し、御家人の所領を元に戻すものであったため、御家人は尊氏の下に結集した。'36年楠木正成を湊川の合戦で破り、尊氏は光厳上皇を奉じて入京、建武式目を制定して幕府を設立した(室町幕府)。後醍醐天皇は吉野に走り、ここに南北朝内乱が始まる。

*2 尊氏は8月14日駿河国府において時行方を下し、17日には時行方大将三浦若狭判官時明と箱根山中で戦った。この戦いは、水飲(三島)・葦河上・大平下(お玉ヶ池付近)・湯本地蔵堂の4箇所で行われた。尊氏勢は時行勢を撃破し、その夜は小田原の上の山で野宿したとある。上の山とは八幡山(城山)と見られる。次いで、翌日は馬入川(相模川)で戦った後、鎌倉へ入った。

*3 戦いは12月11・12日に箱根山と竹之下(小山町)で行われ、義貞は敗北して京都に戻った。新田義貞は後の暦応元年(1338)に越前藤島(福井市)で戦死しているが、小田原市東町の古東海道筋には、様々な伝承をともなった新田義貞首塚や新田明神旧祠、などが存在する。首塚などは室町時代後期のものとされる。別に建武5年銘のある古碑(当時の合戦で亡くなった人々を弔った供養塔(沙弥法明という者が祈願)もある。この間、度重なる戦乱で移動する軍勢に、小田原の重要性が増し、小田原宿が発展したことは間違いない。

(2)観応の擾乱と鎌倉府の成立

 南朝側は北畠顕家(親房長男)・新田義貞が1338年までに戦死、後醍醐天皇は常陸に北畠親房、九州に懐良親王を配したが、翌1339年後醍醐天皇は死去した。幕府では当初尊氏と弟直義が二頭政治を行っていたが、直義と足利家執事高師直との対立から兄弟間の対立へと発展、直義が南朝と結ぶなどした。これを観応の擾乱(ジョウラン)(1350-52)という。

 尊氏は直義を追って駿河に侵攻し、薩垂山(サツタ、静岡県由比町)の戦い(1351)で直義勢を破った。直義は足柄道・箱根道・熱海道に防衛線を敷いたが突破され(*1)、翌早川尻合戦(早川河口)にも敗れて、鎌倉に逃げ帰った。尊氏はこれを追って鎌倉に入り、直義が毒殺され、幕府内の混乱は決着をみた。

 しかし、幕府内の混乱につけ込み、1352年南朝の北畠親房は、東西で呼応して京都・鎌倉の同時奪還を企てた。関東では新田義貞の遺子義興・義宗や北条時行が上野国で挙兵、また宗良親王も信濃国で挙兵した。武蔵野合戦と呼ばれる(*2)。義興勢は鎌倉にいったんは攻め入ったものの、維持できずに敗走した。

 関東での反尊氏勢力の大きさから文和2年(1353)まで、将軍尊氏は鎌倉に進駐し直接統治を行った。この間、武蔵河越直重を相模国守護に、畠山国清を関東管領・伊豆国守護などとした。鎌倉を離れ上京するに際しては、関東公方足利基氏に関八州の知行安堵・充行・処分などの実質的権限と所務沙汰権を与え、ここに鎌倉府が成立した。なお、関東管領の任命権は幕府にあり、鎌倉公方の補佐役と幕府との調停役を担った。

 ところが関東公方足利基氏は、脱尊氏色を掲げ、関東の支持を獲得しようとする。尊氏が延文3年(1358)死去した後、手始めに関東管領畠山国清の追放を行った。畠山国清は康安元年(1361)鎌倉を落ち、小田原宿で土肥兵衛入道の子掃部助が押し寄せ、風上より火を放って切り込んだという。国清は小田原から任国伊豆に逃れ、金山(大仁町)、立野(修善寺町)・三津(伊豆長岡町)などに要害を構えて抵抗した。基氏はみずから箱根山に出陣、伊豆を舞台に大規模な戦いが繰り広げられたとみられる。結局国清は敗れて上京し、翌年頓死したという。貞冶2年(1363)代わって関東管領になったのは、直義・基氏の信任が厚かった上杉憲顕だった。

 基氏によって、鎌倉府は自立と独自の展開を始める。関東の武士たちと直接対峙するためには、何より尊氏路線の修正が必要だった。その対応のひとつが守護の交替であった。上杉氏は武蔵・上野・伊豆・越後と後には上総守護に就任する。相模国守護も国清に味方した河越直重から、以前までつとめていた三浦高通に交替した。

*1 直義は佐竹・彦部らの諸氏に足柄道・箱根道双方の警護を命じ、熱海道は加子宮内少輔を派遣し、伊豆山権現の衆徒をその手に属すよう命令している。それにもかかわらず、直義はこれらの防衛線を突破された上、元旦から2日にかけての早川尻合戦にも敗れた。

*2 関東では直義の影響力が大きかったため、南朝方とはいえ、実態はかつての直義派の人々を巻き込んだ反尊氏連合勢力の蜂起だった。太平記によれば、直義方勢力であった上杉憲顕、三浦高道、西相模では酒匂・松田・河村などの諸氏が義興に味方した。駿河国駿東郡の大森・葛山両氏もこれに応じており、これ故大森氏はすでに西相模と関係を持っていたのではないかとされる。一方の幕府方には足利基氏、畠山国清、仁木頼章、河越直重、西相模では土屋・土肥・二宮・小早川の中村一党、曽我などの諸氏が属した。なお太平記によれば、逃れた義興一族を匿ったのは、松田・河村の者たちで、その場所は河村城や城ヶ尾城・中川城(いずれも山北町)だったという。

鎌倉公方系図
尊氏2義詮(将軍)─3義満4義持5義量






6義教7義勝








8義政────9義尚







義視─────10義稙







政知(堀越公方)┬茶々丸









└義高(11義澄)12義晴

基氏(鎌倉公方)─氏満満兼持氏─────┬春王丸










├安王丸










└成氏─政氏高基─晴氏┬藤氏








(古河公方)義明└義氏










(小弓公方)

(3)鎌倉府の経済基盤と大森氏の登場

小田原大森氏系図
(1)頼明―┬(2)頼春―┬(3)憲頼─成頼

└証実├実雄


└(4)氏頼─┬(5)実頼



└(6)藤頼

 頼明の前代までに、すでに生土城(駿東郡小山町)・足柄城・浜居場城(南足柄市内山)を築いたていたと思われる大森氏だが、頼明のとき内山村(南足柄市内山)に春日山城を築いて本拠とした。酒匂川岩流瀬に面し、対岸の河村城に対する「対の城」として作られた。よって頼明以後を、小田原大森氏と称し、藤頼まで6代とする(中野敬次郎)。頼明は、応安5年(1372)平山村(内山村と隣接、山北町平山)に浄光寺を開基したという。また、応永2年(1395)宗我神社に神馬料15貫文を寄進した(尾崎一雄所蔵文書)。

 箱根権現・伊豆山権現は、源頼朝の時代から二所詣での対象となり、鎌倉幕府から所領の寄進を受け、室町時代になってからも鎌倉府はその慣例にならっている。鶴岡八幡宮についても同様だ。この結果、室町時代初期には、西相模に伊豆山権現領と鶴岡八幡宮領が圧倒的に多い。室町時代初期の様々な史料から、所領関係をまとめると、以下のようになる。

 伊豆山権現    早川庄池上郷、中村郷、千葉郷(千代)、柳下郷(鴨宮・小八幡)、厩河村(前川)、恐らく長墓郷(頼朝?寄進)
 鶴岡八幡宮    早川庄久富名、桑原郷、大友郷、恐らく高田郷・田島郷(頼朝寄進)
 法泉寺(鎌倉)  下曽比郷
 浄光明寺(鎌倉) 狩野荘沼田郷・怒田郷

 以上のような実態は、鎌倉府が有力寺社と密接な関係を有していた結果だ。また寺社の造営工事は、寺社の保護とともに、権力の公共性発揮の場でもあった。その造営費用には、所領寄進とともに関所の賃銭(関銭)が宛てられた。以下の事実が知られている。

 応安7年(1374) 関東公方足利氏満は、焼失した円覚寺の再建費用として、「大森・葛山関務半分」を与えた。
 永和2年(1376) 円覚寺造営費用として、箱根権現別当に認めてきた箱根山別当関所(箱根道に属する関所か)の徴収権を3年間差し置いた。
 康暦2年(1380) 「大森・葛山関務半分」('74)の代わりに、大森氏に、新たに箱根葦河宿辺りに関所を設け、3年間の関銭徴収を認めた。
 応永13年(1406) 円覚寺に、箱根山水飲関所の関銭徴収を認めた(翌月伊豆府中関所に変更)。
 それより後年(と推定)鎌倉大蔵稲荷社の湯本関所の関務が、同社の修理料として安堵された。
 応永14年(1407) 伊豆山権現の「小田原并関所」の知行をめぐり大勧進某と対立した。関所の場所は古新宿町と考えられ、伊豆山権現の知行に委ねられていた(「関東管領上杉憲定奉書」、小田原関所の初見史料)。
 永享4年(1432) 関東公方持氏が大森信濃守に、小田原関所の関銭を三箇年充て取って、鎌倉松岡八幡宮の修理を行うよう命じた。

 実際の関所の運営について、関預人として大森氏が登場する。

 応永13年(1406)6月以降、円覚寺が伊豆府中関所の支配を認められた際、大森頼春が毎年関銭150貫文を請け負い、その旨を押書(アツショ、契約書のこと)として鎌倉幕府奉行所に提出している。関預人には、150貫文以上の関銭が予想され、余剰分は本人の得分になっただろう。見返りの大きい請け負いだったはずだ。関銭徴収は、当然地域経済の実力者に委ねられただろう。

 この時点では、箱根山水飲関所、箱根山葦河関所は大森氏一族による関預人の可能性が高いものの、箱根山別当関所は箱根権現の、湯本関所・小田原関所は伊豆山権現の直接支配が行われていた可能性が高い(小田原関所は上杉禅秀乱後の永享4年時点で大森氏が関与)。とはいえ、大森氏は駿東郡(足柄道)から箱根道に連なる交通網の拠点を押える実力者として登場してきており、箱根道がすでに足柄道にまさる交通網として定着してきていた。

 大森氏は、流通・交通網を支配する新しい時代の国人領主として、頭角を現してきたのだ。それへの対応の一環として、箱根権現別当金剛王院に証実(*1)が就任した。証実は頼春の弟とされる。この結果、箱根の地域の精神的な紐帯や軍事力としての衆徒をも掌握した。

*1 証実は、瑞渓周鳳編「善隣国宝記」にもその名が見えるほど、中央でも著名な高僧だった。証実は正長元年(1428)三月、将軍足利義持を通じて蔵経会(ゾウキョウエ)のために、大蔵経の完本を李氏朝鮮国王に求めたこともある。

(4)上杉禅秀の乱と大森頼春

 大森氏が頼春のとき上杉禅秀の乱が勃発した(応永23年、1416)。先の関東管領上杉禅秀(氏憲)が関東公方足利持氏に反旗を翻したのだ。このとき、鎌倉を逃れた鎌倉公方持氏は、小田原で禅秀方の土肥・土屋の攻撃を受け、箱根に逃げ、箱根権現別当証實(頼春の弟)の助けで、駿河国大森館に落ち延びた。その後持氏は今川氏の保護下に入った。幕府は持氏を救援し、今川範政を禅秀討伐に向かわせた。範政は葛山・大森・朝比奈などを従え、小田原で曽我・中村・土肥・土屋を討ち、いったん禅秀方についた武士たちもことごとく離反し、禅秀は鎌倉で自害した。大森は土肥・土屋の没収地を与えられ、小田原に移った(鎌倉大草紙、*1)。

 このとき持氏が落ち延びた先が大森郷の館であったか、生土城であったかは説が分かれる。もちろん、このとき証實とともに活躍したのは兄頼春と考えてよいだろう。

 箱根権現に対しても、持氏が鎌倉に帰った後、権現内の熊野堂造営費用に反別10疋の上総国段銭を寄進し、もし余分が出れば、箱根権現の修理をするようにと、衆徒らの活躍に応えた(金沢文庫文書)。

 後日の応永28-31年(1421-4)には、大森憲頼が飯田郷などを駿河鮎沢御厨二岡神社へ寄進している(大森憲頼寄進状(T 193)、大森憲頼書状(折紙、T 195))ことから、大森氏が禅秀の乱後、土肥没収地を含むであろう小田原地域へ進出した結果と解釈されている。

 大森氏と土屋氏との関係では「新編相模国風土記稿」に、大住郡土屋村芳盛寺(開基土屋宗遠)の重興開基を大森式部大輔芳盛としている。「土肥・土屋が跡」の事実の一端を物語ることとして注目される。この大森式部大輔は、周知の大森氏関係系図に該当者を見い出せないが、式部大輔という大森氏家督の世襲官途名を名乗る人物であることからして、重要な人物であるのは疑いない(ちなみに康正元年は1455年、頼春は永享3年(1431)卒、憲頼は応仁元年(1467)卒、氏頼は明応3年(1494)卒)。

 大森氏は鎌倉時代中期以降北条氏得宗被官だったが、ここに於て関東管領足利持氏と強い結びつきを持ち、鎌倉府奉公衆へと明確に転身した。足柄道と箱根一円を支配する大森氏が、鎌倉府にとって無視し難いものであったことに加え、大森氏の本貫地である駿東郡も、必然的に鎌倉府の影響下に組み込まれていったことになる。甲斐は幕府の支配下にあったが、その境界線にある駿東郡は鎌倉府にとって戦略的にも重要な地点だった。

*1「鎌倉大草紙」(T 188・189・190)
爰に土肥・土屋の者ども、元来禅秀一味なれば、小田原の宿へ押寄、風上より火を懸攻入ければ、御所と憲基(*2)をば落しけり、兵部大輔憲元父子并今川(*3)残留て討死して、夜の間に箱根山にいらせ給ふ、爰にて夜をあかし、翌日七日午の刻計に箱根別当証実御供申、是を案内者として駿河国大森が館へ落給ひ、爰も分内せまく小勢にていかにも叶ひがたし、其上甲州の敵程近し、これより駿河今川上総介を御頼み可然と評定有之、駿河の瀬名へ御通りある、
(中略)
去程に禅秀は千葉・小山・佐竹・長瀬・三浦・芦名の兵三百余騎を足柄山越、入江の庄の北の山の下に陣を取る間、持氏は今川勢を先登として入江山の西に陣を取給ふ、今川勢夜討して禅秀敗軍、箱根水呑に陣を取、今川勢三嶋に陣をとり、先陣は葛山・同荒河冶部大輔・大森式部大輔・今川門族瀬名陸奥守、足柄を越て曽我・中村を攻おとし、小田原に陣を取、朝比奈・三浦・北条・小鹿、箱根山をこえ、伊豆山衆徒と并土肥・土屋・中村・岡崎を攻おとし、同小田原・国府津・前川に陣を取、
(中略)
其後江戸・豊嶋を初め忠節の人々、禅秀一類の没収の地を分給、大森には土肥・土屋が跡を給はり小田原に移り、箱根別当は僧正に申なさる、今川範政は京都より副将の臨旨を給けり、

*2 持氏と上杉憲基

*3 宅間上杉憲元・憲貞、今川は実名未詳

(5)永享の乱と大森憲頼

上杉氏系図(執事は関東管領、・・・は養子)
重房―□┬憲房・・重能(宅間)

憲顕(山内、基氏執事)―□―□―□・・・憲実(持氏執事)―┬憲忠(成氏執事)


└房顕・・・顕定・・・憲政

憲藤(犬懸)―□―氏憲(禅秀、持氏執事)

├重顕□・・・顕定(扇谷)・・・□―□―定正―朝良・・・朝興・・・朝定

└清子
(足利尊氏・直義兄弟の母)

 永享10年(1438)永享の乱が勃発する。将軍に義教が擁立されると、鎌倉公方持氏はこれに反発し、幕府に対し不服従の態度を示した(*1)。関東管領上杉憲実はこれを制止するが、両者の関係は次第に険悪となり、永享10年憲実は上野国に逃れた(*2)。持氏は憲実追討に出陣し、憲実は幕府に救援を請うた。

 この前後に、「管領(上杉)分国(伊豆)大森拝領す。しかれども大森城槨没落」(「看聞日記」永享10年9月2日条)と見え、持氏によって、大森氏が上杉氏の分国伊豆国守護に補任(ブニン)されたが、在地の抵抗を受けて入部できず撤退したという。しかし、憲頼は伊豆守を称したとみられる(永享記・今川記)。

 このとき義教は朝廷権威を利用するため治罰綸旨と錦御旗の要請した。大森憲頼は持氏方として、箱根山合戦とくに水飲において、箱根権現別当実雄と共に幕府方を相手に奮戦した(*3)。しかし、幕府方別動隊が足柄山を越え、西相模に入り、9月27日早川尻(風祭付近)や成田で合戦が行われ、激戦の末鎌倉勢が敗北し、鎌倉へ敗走した(*3)。早川尻は熱海道と箱根道の交差する要衝なので、しばしば合戦の舞台となっている。大森氏はここでは何も活躍しておらず、大森氏支配が小田原地域にそれほど及んでいなかったのではないか、との傍証とされている。鎌倉において三浦時高の寝返りにより持氏は破れ、自害したため、鎌倉府は一時的に崩壊した。なお、大森氏同族葛山氏はこの戦いで幕府側別働隊の今川氏に属した(今川記)。また、曽我氏も幕府・上杉方として箱根山合戦に活躍し、将軍義教の感状を得ている(和簡礼経)。

 しかし、大森氏はこの乱で勢力を失ったわけではなかった。この点は持氏方諸氏に共通する。続いて永享12年、持氏の残党と下総結城氏が、持氏の遺児春王丸・安王丸を擁して蜂起した。結城合戦という。春王丸・安王丸は殺され、決着した。このとき大森憲頼と実雄が出兵しようとしたが、当時鎌倉にあった進駐中の今川氏などに阻止された。今川氏は平塚や国府津の時宗道場(蓮台寺)などで陣を構え防いだという。当時国府津は国府津湊もあり、水陸交通要衝の地だった。

 結城合戦にかかわる小田原周辺の知行関係としては、甲斐武田氏の一族武田信長に、幕府から曽比郷と千津島村が与えられた(鎌倉大草紙)ことが知られる程度で、千津島と大森氏との関係は不明だが、同村の鋳物師彦五郎正吉という者が箱根権現へ銅香炉鋳造を行っていることから、まったく無関係とは考えがたい。千津島村が大森氏の知行地であって、これが没収されたにせよ、大森氏の勢力は次の段階へ温存された。

 翌嘉吉元年(1441)、結城合戦の祝勝会の名目で招かれた将軍義教は家臣の赤松満祐に暗殺された(嘉吉の乱)。

*1 たとえば、鎌倉府は永享年号の採用を拒否し、正長年号を襲用した。相州西郡皆瀬川村金山社の御神体である銅鏡には、正長三年(永享二年)の年号が使用されており(新編相模風土記稿)、この地域が鎌倉府の強い影響下に置かれていたことを窺わせる。

*2 憲実は河村氏の河村城に入ろうとしたため、大森伊豆守(憲頼か)は先手をうって、河村城を攻略したという。このとき、大森氏は河村城と対峙する春日山城に拠ったという。持氏は大森伊豆守に、河村城攻略に際しての大森式部少輔の活躍を称賛している(三村文書)。

*3 永享記 箱根早川尻合戦の事(T 198)
去程に、同(永享十年)九月十日、京都よりの討手大勢、足柄・筥根二手に分押寄る、筥根へは横地・勝間田の軍兵共、伊豆の守護代寺尾四郎左衛門尉を案内者として、既に山を越んとしけれは、大森伊豆守(憲頼)・箱根の別当(実雄)是を聞、水呑の辺に、究竟の悪所の有ける所をかたとり、掻楯かいて待懸たり、筥根山と申は、四方嶮岨にて、谷深く切れ岸高く峙り、敵を見おろし、我勢の程敵に不見、虎賁狼卒かはる〃射手を進めて戦ひけれは、敵縦何万騎ありとも、難近付見へけれとも、寄手は大勢、防く兵は小勢なれは、何まて此山に怺へきと、哀なる様に覚て、掌に入たる心地しけれは、五百騎皆馬より下り、射向の袖を差簪し、太刀長刀の鋒を揃へて、只一息にあかりける、大森か兵・箱根の衆徒、石弓を懸、一度にはつとはなす、数万の軍勢、是にまくり落され、遙の深き谷底へ、人雪頽をつかせて落重なれは、敵に討たれ死する者は少といへとも、己か太刀長刀に貫れて、死する者数を不知、大森伊豆守勝に乗て、短兵急に撫んと、揉に揉んて攻ける間、石厳苔滑にして、荊棘道を塞たれは、引者も不延得、返す者も敢て不被打といふ事なく、横地は討死す、寺尾兄弟三人共に深手を負けれは、十方へ分れて落行ける、軍散して四五ケ月は、山中草腥して、血野草に淋き、尸は路径に横たはれり、大手の軍は味かた打勝といへとも、搦手の軍勢、足柄山を越て、相州西郡まて押寄ると聞へしかは、上杉陸奥守を大将として、二階堂一党・宍戸備前守・海老名上野介・安房国の軍兵を相添て、西の郡の敵に押向らるゝ所に、此人々、九月廿七日、相州早川尻へ押寄、鬨声を合、矢一筋射違ふる程こそあれ、大勢の中へ掛入て責けれは、魚鱗鶴翼の陣、旌旗雷戦(戟カ)の光、須臾に変化して万法に相当れは、野草紅に満て、汗馬の蹄血を蹴立て、河水こ(さんずいに瓜)せかれて、士卒の尸忽に流を断、かゝりけれとも、続く味方もなし、只今を限と戦けれとも、目に余る程の大勢なれは、憲直の頼切たる肥田勘解由左衛門・蒲田弥次郎・足立・荻窪を初として、一族若党悉く討死し、憲直・海老名終に討負て、散々に成て落行けり、

(6)享徳の大乱(1454-82)と大森氏の動き

 宝徳元年(1449)関東公方足利成氏(持氏の遺児)・関東管領上杉憲忠(憲実の子)によって鎌倉府体制が復活した。永享記では上杉の一門と家老が相談して京都に訴えたとあり、鎌倉大草紙では、越後の守護上杉相模守房定が関東の諸士と評議して京都に運動した、とある。いずれにしろ、関東での鎌倉府再興の運動によって鎌倉府は復活した。だが、復興なった鎌倉府内では、持氏方旧臣と持氏を死に追いやった側の諸豪族の利害が対立した。

 宝徳2年(1450)4月、山内上杉家家宰の長尾景仲及び扇谷上杉家家宰の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。持氏方旧臣である千葉・里見・結城・小山・小田・宇都宮諸氏と上杉氏との対立が根底にあった。関東管領上杉憲忠はまだ若輩のため、長尾景仲が諸事を執行しており、扇谷上杉氏の顕房も同様にまだ若年であったため、太田資清が諸事を下知していた。ところが、何かにつけて持氏方諸氏が上杉氏を妨げ、猛威をふるったので、長尾景仲・太田資清は先手をとって、一味同心の大名を誘い、鎌倉の御所に押し寄せたのだ。成氏は鎌倉から江の島に避難し、小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田軍を退けた。なお、この時上杉方の一部も成氏に加勢している。上杉憲忠は、この合戦は自分が指示して始めたものではないが、そのような言い訳は通用しないと思い、相州七沢山に立て籠もった。しかし、憲忠と和談するようにとの京都からの下知もあって、成氏は憲忠と成氏に敵対した者たちを許したという(鎌倉大草紙)。

 ただし、長尾一味の者数名が本領を没収された。その後、憲忠がこれらの復帰を願ったが、成氏は許さなかった。そこで長尾は寺社の庄園を押領して家人たちに恩補したため、国々からの訴訟で騒動が止むことがなかった。成氏は長尾を処罰するよう憲忠に下知したが、処罰はおこなわれなかった。上杉・長尾は不穏な動きをし、成氏方の人々は憲忠征伐を成氏に薦めた。この結果、享徳3年(1454)12月、成氏は憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した(享徳の乱発生、-82)。翌正月に、成氏は上杉勢の長尾景仲・太田資清を追って鎌倉を進発した。正月21・22日の武蔵分倍河原の戦いでは、上杉憲秋・扇谷上杉顕房を戦死させ、3月3日には、成氏は下総古河に到着、さらに各地を転戦する。敗れた上杉勢が常陸小栗城に立て籠もると、成氏はさらに攻め立てて、閏4月に小栗城を陥落させた(鎌倉大草紙)。

 山内上杉家は、憲忠の弟・房顕を憲忠の後継とし、体制の立て直しを図った。室町幕府は上杉氏支援を決定し、享徳4年4月に後花園天皇から成氏追討の綸旨と御旗を得たために、成氏は朝敵となる。房顕は上野平井城に入り、越後上杉氏の援軍と小栗城の敗残兵が、下野天命(佐野市)・只木山に布陣した。駿河守護今川範忠は、上杉氏の援軍として4月3日に京都を発ち(康富記)、6月16日には鎌倉を制圧した(鎌倉大草紙)。

 その後、成氏は鎌倉を放棄し、下総古河を本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶ。享徳4年6月に古河鴻巣に屋形(古河公方館)を設け、長禄元年(1457)10月には修復が終わった古河城に移った(鎌倉大草紙)。古河を新たな本拠とした理由は、下河辺荘等の広大な鎌倉公方御料所の拠点であり、経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方を支持した武家・豪族の拠点に近かったことなどが挙げられている。古河公方側の武家・豪族の中でも、特に小山持政は成氏が後に兄と呼ぶ(兄弟の契盟)ほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城氏の存在とあわせて、近接する古河を本拠とする動機の一つになったと考えられる。

 長禄2年(1458)幕府は成氏に対抗するため、将軍義政の異母兄政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は鎌倉に入らず伊豆堀越(韮山)にとどまり、これにより堀越公方と呼ばれる。堀越は以前ホリコシと読まれていたが、現在では地元地名の呼び名からホリゴエと読まれている。
 以後、下野・常陸・下総・上総・安房を勢力範囲とした古河公方、上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領上杉氏とが、関東を東西に二分して戦い続ける。武蔵北部の太田荘周辺と、上野東部が主な戦場だった。

 やがて、京都では応仁の大乱(1467-)が勃発し、関東どころではなくなってしまった。

 文明3年(1471)3月、成氏は小山氏・結城氏の軍勢と共に遠征して、伊豆の堀越公方を攻めたが、敗れて古河城に撤退した(鎌倉大草紙)。この遠征失敗の影響は大きかった。幕府の帰順命令に、小山氏・小田氏等の有力豪族が応じるようになったため、古河城も安全ではなくなり、5月に上杉勢の長尾景信が古河に向けた総攻撃を開始すると、本佐倉の千葉孝胤の元に退避した(鎌倉大草紙)。しかし上杉勢も古河城に入るだけの力がなく、文明4年には千葉孝胤、結城氏広、那須資実や弟の雪下殿らの支援により、成氏は古河城に帰還し、後に小山氏も再び成氏方に戻った。

 一方、文明8年(1476)、山内上杉家では家宰の後継争いが原因となり、長尾景春の乱が発生した。管領上杉顕定の重臣長尾景春が、顕定との確執から突如謀反の兵を挙げたのだ。文明9年正月、長尾景春は武蔵鉢形城を拠点として上杉勢の五十子陣を攻撃し、これを破壊したため、対古河公方攻守網が崩れる。最終的に景春の反乱は扇谷上杉家家宰の太田道灌の活躍によって鎮圧されるが、上杉氏の動揺は大きかった。古河公方勢との戦いだけではなく、上杉家内部の対立や山内・扇谷両上杉氏間の対立が大きな問題となったからだ。

 文明10年(1478)正月に成氏と上杉氏との和睦が成立すると、幕府・持氏間も同14年(1482)11月和睦が成立した。都鄙合体(トヒガッタイ)と呼ぶ。この結果、堀越公方足利政知は伊豆一国のみを支配することとなり、政治的には成氏の鎌倉公方の地位があらためて幕府に承認されたと考えられる。

 さて、享徳の大乱の過程で、大森氏がどのように働いたかはよく分かっていない。武蔵分倍河原の戦いに、大森式部大夫(*1)が松田左衛門らとともに成氏方として戦い、鎌倉で幕府軍である今川範忠軍の進入を防ぐため活躍したという。一方で、将軍足利義政から年来忠節を致すといわれた明昇庵主(氏頼)や実頼が上杉氏方に属していたことが明らかとなっている。鎌倉大草紙には「大森安楽斎入道父子(*2)は竹の下より起て小田原の城をとり立、近郷を押領」とある。このように、頼春・憲頼が成氏方、氏頼・実頼は上杉方として活動したとみられる。

 こうした動きが直ちに大森氏内部の対立があったという結論には至らない。氏頼にしても積極的な上杉支持ではなく、幕府は氏頼の上洛を再三促したが、その催促への対応としてか、大森氏は銭3000匹(30貫文)を送っている。また、子実頼は隠遁の姿勢を示しており、隠遁姿勢は狩野介・三浦氏・武蔵千葉氏らも同様で、幕府・堀越公方・上杉氏への拒否反応だったようだ。

*1 武蔵分倍河原の戦いでの大森式部大夫が誰かは不明。

*2 小田原にいたのは安楽斎=頼春と憲頼であったという。憲頼の子の名前は、成瀬といわれており、「成」が成氏からの一字拝領と考えられるのが傍証という(小田原市史)。頼春は高齢だったが戦いに参加していたようだ。

 ところで、享徳の大乱の頃、小田原地域の関所関係で少々気になる動きがある。宝徳2年(1450)鎌倉公方足利成氏は、鶴岡八幡宮御供料所であった、早川荘久富名内・桑原郷内田畠・箱根山関所などを、徳政として返却した(T 204)。これらは中村掃部助や落合式部入道の買徳地だった。前者は中村氏の後胤、後者は秦野か綾瀬の落合系の氏族だろうという。彼らは当時の有徳人(富裕層)で、広範囲の鶴岡八幡宮領を買得していた。また、宝徳4年(1452)鎌倉府は小田原関所に禁制を下し、「甲乙人等」の「違乱狼藉」を禁止している(T 274)。当時鶴岡八幡宮修理料所であった同所に、関銭不払い以下の不穏な動きが存在したからだ。小田原関所は鎌倉の関門と位置付けられていたが、小田原関所・箱根山関所について、従来通りの支配システムが成り立ちがたくなっていた。こうした動きは、大森氏の影響力低下と決して無関係ではないと思われる。永享の乱の結果、大森氏は長期にわたり低迷を余儀なくされたろうし、享徳の大乱中にも目立った動きは無い。小田原地域への影響力は、恐らくかなり低下していたのではないのだろうか。

 寛正2年(1461)堀越公方奉行人布施為基が、鎌倉下向の途中小田原宿にとどまり、その間に大森氏の所領や鎌倉寺社領に入部しようとした事件が起こった(T 209)。これに対して、大森氏は断固拒否し、鶴岡八幡宮の供僧らは迷惑至極と嘆息したという。また堀越公方政知は、翌年12月には東大友半分を鶴岡八幡宮に寄進している。これは松田左衛門尉跡であった(T 211)。堀越公方の登場により、西相模は一波乱あったようだ。ここにも、大森氏の影響力が西相模で停滞していたことが伺われる。

(7)大森氏頼

 話が戻るが、文明8年(1476)長尾景春の乱の結果、山内上杉家(顕定)の権威は落ち込み、乱を鎮めた太田道灌の主君である扇谷上杉家の上杉定正の権威が高まった。このとき、大森信濃守(実頼とされる)は、父子兄弟間、相分れて太田道灌とともに、反乱の弾圧に活躍したと、太田道灌状は伝える。次いで、「鎌倉九代後記」によれば、文明10年5月、景春方として大森伊豆守(憲頼の子成頼か)が相模平塚城に楯籠り、それを太田道灌が攻略し、その結果、伊豆守は箱根山山中に逃れたという。史料的に問題を残すとはいえ、これが事実ならば、二系統の大森氏(憲頼・成頼と氏頼・実頼)は、上部の政治権力への対応をめぐって分裂・対立していた。憲頼・成頼は箱根山中に追いやられ、氏頼をして大森氏家督に押し上げることとなった。以後、氏頼の大森氏は国人領主から室町大名へと明確に変化したと思われる。氏頼が、後世大森氏中興の祖と評価された理由であった。

 氏頼はこの後、小田原城に入ったといわれる。小田原城主の交替だった。このときの小田原城は、八幡山古郭の丘陵部にあった。本貫地駿河国駿東郡はといえば、鎌倉府と幕府の国境としての政治的意義・戦略的価値が失われると同時に、同族で幕府の奉公衆となっていた葛山氏の領域支配の進展もあって、この地からの撤退の一条件となったと思われる。こうして大森氏は本拠地を小田原城と位置づけた(*1)。

 ところで、太田道灌と大森氏頼の関係はたいへん深い。道灌の力で大森伊豆守を追放し、大森氏の家督が継承できたわけだが、氏頼は後に太田道灌状を模倣して、明昇・寄栖庵として多くの教訓的書状が創作された。その中で、氏頼が扇谷上杉定正に、勢力拡大は道灌の力量の賜物であることを述べて諭している。一方、道灌も文明8年(1476)今川氏の当主義忠横死を契機とする内紛の際に、上杉定正の代理として、足柄峠を越えて調停に赴いたのも、大森氏らの協力があったからだった。

 氏頼は優れた教養人だった。当時鎌倉で最高の文筆僧といわれた玉隠英與(王へん付き)は延徳元年(1489)前後に箱根湯本に湯治にきた際、氏頼と親しく交遊した。その際、玉隠が詠んだ長文の漢詩に氏頼のことが書かれている。「大森寄(栖脱カ)庵主自ら法華経を書きて偈を作り父恩に報じ、これに和す(後略)」(玉隠和尚語録)。また、氏頼は一族で高僧の誉れの高い安叟宗楞(アンソウソウリョウ)と一体となって、曹洞宗の普及に尽したこともよく知られている。久野総世寺や早川の海蔵寺は、大森氏が開基となり、安叟が開山だった。氏頼は文明3年(1471)、みずからの意志で安叟宗楞の画像を描かせ、安叟自身の賛語を得て完成させている。安叟はまた、文明14年(1482)海蔵寺の法嗣順位の末に寄栖庵を入れている。氏頼は曹洞宗以外にも、古義真言宗、臨済宗、推定だが日蓮宗(*2)など、全体としての仏教の発展につとめた。

 もう一点、三浦義同(道寸)と氏頼との関係について述べておこう。鎌倉九代後記や相州兵乱記などによれば(T 214・215)、義同は義父時高と不和になり、剃髪して小田原の久野総世寺に蟄居した(義同の母は大森氏頼の娘(*3))が、三浦の一族被官らは義同を慕って総世寺に馳集まり、大森氏が合力(*4)して、時高を誅したという。ただし、いずれも後世の軍記物に記述されているものであり、基本的な史料は存在しない。

*1 ここまで、小田原に頼春と憲頼があって、その後氏頼が小田原に入ったように書いてきた。しかし、大森氏がいまの南足柄市方面に進出し、小田原城を本拠とするようになったのは、太田道灌と結んで活躍した氏頼の代とする説もある。ただしこの場合でも、氏頼が八幡山古郭に初めて城郭を築いたものか、それ以前から何らかの要害施設があったのかははっきりしない。

*2 氏頼の法名「寄栖庵日昇明昇禅師」(乗光寺日牌過去帳)の日昇と、交通の要地酒匂に日蓮宗寺院が集中する点と合わせて、大森氏と日蓮宗の関わりが推定される。

*3 大森葛山系図・三浦系図伝による。鎌倉九代後記・相州兵乱記では実頼(氏頼の子)の娘としている。

*4 合力した大森氏は鎌倉九代後記では大森筑前守(藤頼か)、相州兵乱記では大森式部少輔(実名未詳)と箱根別当(大森氏出身と思われるが実名未詳)。

(8)長享の乱(1487-1505)と大森氏

 太田道灌は文明18年(1486)、道灌の勢力を恐れた扇谷上杉定正に暗殺されてしまった。これは山内上杉顕定の警告に、定正が踊らされたのが原因と見られる。道灌の暗殺は扇谷上杉家中に動揺をもたらした。一方、山内上杉顕定は翌長享元年(1487)、扇谷上杉家に通じた長尾房清の下野国足利庄勧農城(栃木県足利市)を奪い、ここに両上杉家の戦いが勃発した。長享の乱という。

 両上杉は実蒔原(サネマキハラ、伊勢原市)・須賀谷原(スガヤハラ、埼玉県嵐山町)・高見原(埼玉県小川町)などで戦い、いずれも扇谷上杉陣営の勝利に終わったが、勝っているはずの扇谷陣営は道灌暗殺後の軍民の離反が続き、逆に山内陣営では越後上杉氏などの支援によって、形勢を保ち続けた。

 大森氏は道灌を謀殺した定正を見限る武士が多かったにもかかわらず、関東三戦にも定正に属していた。須賀谷原(菅谷原)・高見原で、長尾景春らと並んで大森寄栖庵入道の活躍が伝えられている。

 特に相模実蒔原合戦前後には、小田原地域も直接戦場となったようで、山内上杉方の伊東祐実(静岡県伊東市の武士)は小田原・七沢(七沢要害、厚木市)以来の度々の合戦に活躍した(狩野為茂書状案、T 213)。七沢は扇谷上杉朝良の実父朝昌が在城していた。一方、小田原城は扇谷上杉方の重要な戦略的拠点だった。大森氏の役割は当然大きかったに違いない。永享記によれば、定正は「河越に曽我を籠、小田原に大森式部少輔(*1)を置き、僅に三百騎計にて、八箇国の大軍を覆さん」としたという。曽我(祐重とされる)は、道灌亡きあと、朝良の執事となり、江戸・河越を守った重臣といわれている(小田原の曽我氏との関係は不明)。

 明応3年(1494)に定正の名代として相模の東西半分ずつを支配していた三崎城の三浦時高と小田原城の大森氏頼が相次いで亡くなり(*2)、その後継を巡って三浦・大森両氏は内紛状態に陥った。更に上杉定正その人も作戦渡河中に落馬して死亡してしまった。扇谷上杉家は後継を養子の朝良としたが、この間定正生存中から関係が悪化していた古河公方足利成氏が上杉顕定側に寝返った。

 明応5年(1496)長尾能景宛山内上杉顕定書状写によれば、山内上杉の軍勢が大森式部少輔・刑部大輔(*3)・三浦道寸・太田六郎右衛門尉・上田名字中并伊勢新九郎入道弟弥次郎などの扇谷上杉勢が立て籠る要害を自落せしめたとある。要害とは小田原城と推定され、このとき小田原城は扇谷上杉勢の共同統治下にあったらしく、宗瑞は弟弥次郎をして大森氏と連携していた。

 永正元年(1504)には、上杉顕定・足利政氏連合軍と上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞連合軍が武蔵立河原(立川市)で激突した。この立河原の戦いの戦いで上杉顕定側は2千人以上の戦死者を出して潰走した。

 乱の結末は永正2年(1505)、顕定の軍勢に河越城を包囲された上杉朝良が降伏して終結した。いったんは朝良が出家したが、同4年(1507)顕定の養子上杉憲房と朝良の妹の婚姻が成立し、両家は和解した。しかし、この間両家の勢力は弱体化し、その間隙をぬうように伊勢宗瑞が、勢力をつけてくる。

*1 大森式部少輔 実名未詳。

*2 氏頼の死去年齢は、かなりの高齢と思われるが不明。死去した場所は岩原城(南足柄市)と言われているが、その他の地にも、氏頼死去の伝承があり、確定していない。

*3 扇谷上杉朝昌。

(9)伊勢宗瑞(俗に北条早雲)の登場と大森氏の小田原退去

 従来の通説では、明応4年(1495)宗瑞が大森藤頼をだまし討ちにして小田原城を奪取したと言われていた(*1)。しかし、これは実は史料上つじつまの合わない部分が多いのだ。

 氏頼の跡を継承したのは大森式部少輔で、これを藤頼とするかどうかは、現在のところ確定できていないが、上でも見た通り、明応5年(1496)山内上杉側が、扇谷上杉側小田原要害を攻め落としたとき、大森式部少輔が当時扇谷上杉方として、宗瑞の弟弥次郎と行動をともにしていたという事実がある。ここで大森式部少輔が最初に記載されているのは城主であり、弥次郎が最後に記載されているのは一番家格の低い援軍であっとことを示している。

 この後、永正元年(1504)大森式部大輔(先の少輔と同じ人物と考えられる)宛関東管領山内上杉顕定書状写によると、大森氏は扇谷から一転して、山内上杉氏に属していた。書状の内容は、顕定が扇谷上杉朝良・駿河今川氏親・伊勢宗瑞らと武蔵立河原(立川市)で対峙している最中に、大森式部大輔に甲斐武田信縄へ参陣するよう促したものだ。さらに永正6年(1509)には、顕定は大森式部大輔に贈物の礼状を出している。

 ここで見られるのは、大森氏が扇谷上杉方から山内上杉方に転じている点だ。宗瑞(*1)が小田原城を奪取したのは、この頃のことであったと推定される。大森氏は扇谷上杉の共同統治と化した小田原城から退去させられた、これが宗瑞の小田原城奪取の実態ではなかったかという(小田原市史)。

 永正7年(1510)と推定される竹隠軒(岡本妙誉)宛三浦道寸書状写(T 336)には、「伊勢入道当国(相模)乱入ゆえ、上杉建芳出馬せられ、小田原城涯まで悉く打ち散らす。人馬長陣し相労し候」と見え、上杉建芳(扇谷上杉朝良)が小田原城際まで攻撃したことが分かる。すでに小田原城が宗瑞の持城と化し、大森式部大輔は完全に切り離されている。

 それより前文亀元年(1501)宗瑞は、伊豆山権現の社領を西郡上千葉(市内千代)から伊豆田牛村(下田市)に充て替えしている。このことは、この地が宗瑞によって収公されていることを示し、この時点において宗瑞は小田原城奪取を果たしていたと考えられる。その時期は特定できないが、明応5年から文亀元年の間までであった。

 大森氏の名前は小田原北条氏の時代にも伝えられた。その一人は箱根権現別当海実だ。海実は別当であり続け、後に幻庵宗哲にその地位を譲った。もう一人北条家所領役帳に、江戸衆として大森殿が見える。役帳で殿付けされているのは、北条氏一門などを除けば、武蔵千葉殿・上総真里谷武田殿・宅間(上杉)殿・六郷殿(上杉氏庶流)とこの大森殿だけなので、いずれも北条氏入部以前からの室町期大名の系譜を引く家柄であって、小田原大森氏以外に想定しがたい。

 箱根権現領の問題は、大森氏の所領との関係でひとつの題材になる。永正16年(1519)4月伊勢菊寿丸所領注文よれば、菊寿丸(幻庵宗哲)の所領として、箱根領別当堪忍分在所 248貫余文、箱根領所々菊寿丸知行分 1252貫余文、その他総計 4465貫余文とあり、箱根領所々菊寿丸知行分の小田原関係内訳として、小田原 400貫文・同宿地子銭及び屋敷銭 26貫文、片浦五箇村 100貫文、早川 200貫文、下堀と久野道場分 28貫余文とある。これらの所領は大森氏所領であった可能性が高い。これが大森氏退去後、すぐさま宗瑞の直轄領とせず、箱根権現領としたのは、別当海実に過渡的に支配させざるを得なかった、その後海実の後継者宗哲へと譲渡された。なお、約50年後の役帳段階では、これらの所領は幻庵御知行ではなく、当主北条氏康直轄領に編入されている。

 このように、大森氏によって遂行された箱根権現の取り込みは伊勢宗瑞によって継承され、幻庵宗哲が送り込まれる。曹洞宗など仏教文化も同じように継承された。

*1 伊勢宗瑞の小田原城攻略のはなし

○「鎌倉大日記」明応四年条(治承四年〜天正十七年に至る武家の年代記。作者、成立年代ともに不詳であるが、南北朝末ごろに成立し、以後書き継がれたものという)「九月、伊勢早雲攻落小田城大森入道、」(T 304)。

○「鎌倉九代後記」成氏(関東公方の代ごとに、政治的事件等を記した史書。著者、成立年代未詳。足利基氏、氏満、満兼、持氏、成氏、政氏、高基、晴氏、義氏の公方九代について記すが、後半は後北条、武田、上杉、里見らの戦国大名の関係を中心に述べ、1590年(天正18)の後北条氏の滅亡で終わっている。)
「同年(明応3年、1494)、伊勢新九郎長氏、相州小田原城主大森式部少輔実頼入道ヲタハカリ、シタシミヲナシテ後、鹿狩ニコトヨセテ、軍兵等箱根ヲ越山シテ、小田原城ヘ押寄セ、是ヲ攻ム、同国住人成田某、大森ニ属シテ、長氏カ先陣多目玄番(蕃)充カ同心栗田六郎ヲ討テ後討死ス、実頼ハ遂ニ逃去ル、長氏彼城ヲ攻取テ居ス、又松田左衛門頼重ト云者同国ニアリシカ、馳来テ長氏ニ属ス、」(T 305)

○「喜連川判鑑キツレガワハンカガミ」(続群書類従所収の江戸時代中期に成立した関東公方とその後進の古河公方及び下野国喜連川藩藩主家喜連川氏の系図)「乙卯四(明応)、二月、大森式部少輔頼実ガ居城相州小田原ヲ、新九郎長氏乗取ル、」(T 306)

○「北条記」では、鎌倉九代後記の話に、「千頭の牛の角に松明を結付け」の話を加える。年号はない。先の3点が基本的なもので、年号はまちまちだ(明応4年9月、明応3年、明応4年2月)。

(参考文献)
小田原市史通史編 原始古代中世
小田原市史資料編 原始古代中世T
新編相模国風土記稿(雄山閣)
中野敬次郎 大森氏の興亡とその文化
黒田基樹 戦国北条氏五代