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3.荘園公領制と武士

荘園・国衙領の変遷

 律令体制下の墾田永世私財法(743)発布以来、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方豪族は活発に開墾を行い、大規模な土地所有を実現、自墾地系荘園(初期荘園)が発達した。しかし輸祖田であるため、田祖を納入する必要があったことや、所有者が直接荘園を管理するため、人的・経済的負担も大きかった。このため10cまでに衰退した。初期荘園は特に畿内に集中しており、全国に広がっていたわけではない。

 10cに入ると戸籍・計帳の作成や班田の実施などが次第に弛緩していき、人別的な人民支配が存続できなくなっていった。そのため、国司へ租税納入を請け負わせる国司請負へと移行し始めた。これにより地方行政における国司の役割が強くなる。租税の対象となる公田は名田という単位に再編成され、「田堵(タト)」という有力農民層が名田経営を請け負うようになり、名田内の他の百姓の田租を国衙へ代納した。このような納税形態を負名(フミョウ)という。さらに、荘園にも名田化が波及すると、荘園内の名田経営も田堵が請け負うようになった。

 田堵には古来の郡司一族に出自する在地豪族や、土着国司などの退官した律令官人を出自とする者が多く、墾田開発・田地経営などの営田活動や、他の百姓への私出挙を行ったりして、富を集積し、一般の零細な百姓層を隷属化して成長していった。

 田堵に名田経営と租税徴収を請け負わせることで、国司は現地へ赴任する必要がなくなった。任官されながら実際に任国に赴かず官職に伴う給付だけを受ける国司を遥任と呼ぶ。国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を受領という。次官の介(スケ)、権介(ゴンノスケ)など、おおよそ四位、五位どまりの下級貴族である諸大夫がこの任に当てられ、事実上の国衙行政の最高責任者となった。

 受領は、その強大な権限を背景に、莫大な蓄財を行うことも可能だった。受領に任命されるために人事権に強い影響を及ぼしうる摂関家へ取り入る者が後を絶たなかったと言う。また、蓄財によって任国へ根を生やした受領の中には、任期後、そのまま任国へ土着しする者も多かった。

 11世紀ごろから、田堵は開発領主として、租税免除を目的として中央の有力者や有力寺社へ田地を寄進するようになる。これを寄進地系荘園といい、寄進を受けた荘園領主は領家(リョウケ)と称した。さらに領家から、皇族や摂関家などのより有力な貴族へ寄進されることもあり、最上位の荘園領主を本家(ホンケ)といった。本家と領家のうち、荘園を実効支配する領主を本所(ホンジョ)と呼んだ。このように、寄進地系荘園は重層的な所有関係を伴っていた。また、不輸権だけでなく、不入権(田地調査のため中央から派遣される検田使の立ち入りを認めない権利)を得る荘園も出現した。寄進主体で実経営にあたる田堵は荘園の下司・公文職という荘官となった。

 寄進により荘園は非常に増えたが、それでも田地の約50%は公領(国衙領)として残存した。従って、11世紀以降の土地・民衆支配は、荘園と公領の2本立てだったのであり、公的負担が荘園という権門勢家の家政機関からの出費によっても担われたため、この支配形態を荘園公領制というべき体制であったとする説が、現在では一般的認識となっている。公領においては、開発領主たる田堵は郡司・郷司・保司といった職を得ていく。

 開発領主(田堵、後の名主)が荘園や国衙の諸職を得、その権力を利用して武士団が形成されていく。各々の武士たちは惣領家を中心とした同族的結合をなし、有力な武士は弱小の武士を郎党・所従とした。中でも、土着国司のように元貴族で有力な武士が武士団の棟梁となった。鎌倉幕府はこれら東国の武士団を結束し、御家人として編成した。

 1180年に発足した初期鎌倉幕府は、御家人の中から荘園・公領の徴税事務や管理・警察権を司る地頭を任命していった。これにより、御家人の在地領主としての地位は、本来の荘園領主である本所ではなく幕府によって保全されることとなった。当然、本所側は反発し、中央政府と幕府の調整の結果、地頭の設置は平氏没官領と謀反人領のみに限定された。しかし、幕府は1185年の源義経討伐を契機に、諸国の荘園・公領に地頭を任ずる権利を得ることとなる。

 次いで、1221年の承久の乱の結果、後鳥羽上皇を中心とする朝廷が幕府に敗れる事態となり、上皇方についた貴族・武士の所領はすべて没収された。これらの没収領は畿内・西国を中心に3000箇所にのぼり、御家人たちは恩賞として没収領の地頭に任命された(新補地頭)。これにより東国武士が多数、畿内・西国へ移住し、幕府の勢力が広く全国に及ぶこととなった。

 地頭が幕府によって配備されると、荘園領主との紛争が多く発生した。荘園領主はこうした事案について幕府へ訴訟を起こしたが、意外にも領主側が勝訴し、地頭側が敗訴する事案が多くあった(幕府の訴訟制度が公平性を確保していたことを表している)。しかし、地頭は紛争を武力で解決しようとする傾向が強く、訴訟結果が実効を伴わないことも多かったため、荘園領主はやむを得ず、一定額の年貢納入を請け負わせる代わりに荘園の管理を委ねる地頭請(ジトウウケ)を行うことがあった。こうした荘園を地頭請所という。地頭請は、収穫量の出来・不出来に関わらず毎年一定量の年貢を納入することとされていたため、地頭側の負担も決して少なくなかった。

 このような経緯を経て、次第に地頭が荘園・公領への支配を強めていくこととなった。かつての田堵はこの頃は名主(ミョウシュ)と呼ばれており、領主・地頭から名田の耕作を請け負いながら、屋敷を構え、下人や所従などの下層農民を支配し、屋敷近くに佃(ツクダ)と呼ばれる良田を所有した。名主が荘園領主や地頭に対して負担した租税は、年貢、公事、夫役などであった。

 室町時代にも荘園は存続したが、中央貴族・寺社・武士・在地領主などの権利・義務が重層的かつ複雑にからむ状況が生まれる一方、自立的に発生した村落=惣村による自治が出現し、荘園は緩やかに解体への道を歩み始めた。戦国時代には戦国大名による一円支配が成立、荘園の形骸化はますます進み、最終的に羽柴秀吉の全国的な検地によって荘園は解体した。

足柄平野の荘園
荘園名地域本所・領家在地領主(荘官・下司)


(名目上の領主)(本当の領主/豪族・武士)
(足柄上郡)


大井荘大井町京都延勝寺二階堂氏(和田義盛乱後)
狩野荘南足柄市不明不明
(足柄下郡)


中村荘羽根尾から中井町不明中村氏
曽我荘下曽我不明曽我氏
成田荘成田・飯泉藤原頼長→後白河院→新日吉社小早川氏
早川荘(牧)早川大江氏→藤原長家(摂関家)土肥氏・山内首藤氏
*荘園は公領の郷に比べると広大な領域を持ち、史料から荘内はさらに郷などに分かれていたことが判明している。成田荘は北成田郷・飯泉郷、早川荘は田子(多古)郷・風祭郷、中村荘は上中村・下中村を含んでいた。

小田原市域の公領
公領比定地備考
酒匂郷酒匂箱根権現(寄進者鳥羽上皇)
桑原郷桑原鶴岡八幡宮若宮(寄進者源頼朝)
高田郷高田鶴岡八幡宮若宮(寄進者源頼朝)
田島郷田島伊豆山権現(走湯山)(寄進者源頼朝?)
長墓郷永塚伊豆山権現(走湯山)(寄進者源頼朝?)
柳下郷鴨宮・小八幡伊豆山蜜厳院(寄進者源頼朝)
大友郷東大友・西大友(大友氏が郷司職)
延清郷延清(南北朝時代初出、元大友郷延清名
千葉郷千代伊豆山蜜厳院(寄進者鎌倉幕府)
下曽比郷曽比法泉寺(室町時代初出、寄進社足利基氏)
厩河村前川伊豆山権現(走湯山)(室町時代初出
飯田郷飯田岡・堀之内・中曽根二岡神社(寄進者大森氏、室町時代初出)

早川荘

 早川荘は史料が比較的よく残っている地域で、とくに院政期の中流貴族の家産経済を明らかにする研究でよく取り上げられる。

 早川荘は、はじめ早川牧(マキ)と呼ばれていた。「牧」とは家畜を飼育する牧場のことで、平安時代に官の牧場が関東を中心に30位でき、早川牧はおそらく東海道の物資輸送に使われる馬の飼育のために設置された遊牧地だったと思われる。
 当初は早川流域から箱根山麓にかけてが、その中心だったと思われるが、次第に平野部に向けて開発されていくことにより、荘園に変わっていったものと考えられる。

 早川牧を最初に私領化したのは大江公資という人物だ。大江氏は菅原氏と並ぶ文章道の名家で元土師氏といい、桓武朝に大枝、866年以後大江氏を称した。公資も歌人として、金葉・千載・後拾遺などに選集されている。公資が受領として相模守在任中、早川牧を買得などの手段で獲得、摂関家を本家に仰ぐべく藤原道長六男長家(権大納言民部卿)にこれを寄進した。

 また、公資は藤原妍子(ケンシ、藤原道長次女、三条天皇中宮)の女房乙侍従と結婚、公資が相模守として下向すると、乙侍従も夫に従い「相模」と称された。相模は走湯権現に百首を奉納、しかし結婚生活は破綻し、夫とともに帰洛後に離縁、再度脩子内親王(一条天皇皇女)の女房として出仕し、後朱雀・後冷泉朝の歌壇で活躍した。家集として「相模集」があり、また百人一首の「恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなん名こそ惜しけれ」は恋歌として名高い。

 時代は下り、嘉保元年(1094)暮れ、この頃都で受領など貴族の殺人・傷害事件が多発し、藤原資俊宅への放火・殺害容疑で大江公仲(公資の孫)が怪しいということになったが、公仲は検非違使丁の出頭命令に応じず、隠岐に配流ということになった。このとき財産処分状を作成(同2年)、財産を養子の有常(以実)に譲った。処分状の中の、多くの財産の一に相模国早川牧がある。

 ところが、公仲の娘仲子が、有常と遺産争い(相論)を起こす。この処分状は実子である自分が生まれる前のもので無効だ、として訴えたのだ。相論の顛末は明らかではないが、この相論の過程で早川荘の伝領関係が明らかになった。先の大江公資の早川牧取得状況、本家職が藤原長家−九条前太政大臣藤原信長(長家の甥で教通の子)−右馬頭兼実(信長の猶子)と伝領されたこと、領家職が公資−広経−公仲と相伝されたことなどだ。

 さらに時代が下り、「吾妻鏡」に文治4年(1188)には早川荘が前摂政近衛基通家領であることが見え、本家職は変わらず摂関家にあったことが分かる。しかし、建仁2年(1202)幕府は早川荘を中分し、当時の地頭職土肥遠平の預所を停止して、箱根権現に寄進した。これより前治承4年(1180)にも頼朝が早河本庄なるものを箱根権現に寄進したりしているので、どうも幕府(このときは頼家の代)が勝手に箱根権現に寄進したものらしい。鎌倉時代になると荘園の所有・支配関係は複雑化し、中央貴族は少しの収益がありさえすればよく、次第に武士の領地と化していった。鎌倉末期には所領を争うようになり、南北朝時代には年貢が中央に届かなくなっていく。

 また、鎌倉時代の早川荘内に一得名という名(ミョウ)が見え、東国における領主名や館を分析できる具体例として研究対象となっている。一得名は山内首藤経俊の母摩々局が知行していた田畑屋敷だった。摩々局は頼朝の父義朝の乳母であり、平治の乱に義朝が敗れると東国に下向し、早川荘内で7町歩の作人(実際は請作納入義務を持つ地主)として暮らしていた。頼朝は彼女の願いを親しく聞いてやり、この田地を安堵するとともに、課役を免除し、さらに3町歩を給与している(「吾妻鏡」文治3年(1187)及び建久3年(1192)の記事)。

 一得名の構造は寛喜2年(1230)の山内首藤重俊譲状に見える。田地名や作人が記され、領主の屋敷が田子往古本屋敷とあり、他の譲状には「早河庄田子郷一得名」、「早河庄多古一得名」などとあることから、一得名は領主屋敷と田地などがまとまって田子郷(多古)に存在していたものと考えられる。また、屋敷には四至が書かれており、北側には丸子河(酒匂川)、南側には大道が通っていた。屋敷は灌漑や農業用水を兼ねた堀に囲まれ、名内には鎮守である神社があるなど、中世前期の典型的な武士の館を見ることができる。

成田荘

 関東の武士団の発生と関連してしばしば言及される。史料上の初出は保元の乱の戦後処理の中だ。保元2年(1157)、崇徳上皇側に属して失脚した藤原頼長と平忠貞らの所領が没収され、後白河天皇の御院領に施入された。その中に藤原頼長領として成田荘が記載されている。成田荘はさらに後白河天皇によって、昌雲大僧正の新日枝社に寄進された。天台宗の門跡寺院である妙法院が新日枝社の宮寺になると、新日枝社の所領諸職は妙法院の門跡の知行となり継承されていった。

 在地領主の小早川氏伝領関係文書によれば、荘内は北成田郷と飯泉郷に分かれ、郷内には鶴丸名や藤太作(トウタツクリ)などの名や請作地が存在していたことが知られる。

大井荘

 現在の大井町を中心に、小田原市下大井、開成町吉田島を含んでいた。文冶4年(1188)には六勝寺の一、延勝寺領と見えており、地頭に年貢を納めさせるよう、後白河上皇より源頼朝に院宣が出されている。建保元年(1213)和田義盛の乱に際して、当荘の地頭は義盛側についたらしく、二階堂行村に勲功として当荘が与えられた。大井町篠窪には二階堂政貞が開いたとされる地福寺と館址が存在している。

注:本名体制と在家体制

 本名体制は田地を名(百姓名)に編成して年貢や名役を課し、余った田地を請作に出すもの。在家体制は荘民を在家として掌握して在家役を課し、田地を請作に出して年貢をとるもの。後者は京都から遠い九州、関東、東北に多い体制だった。


武士団の成立

 清和源氏が本格的に関東に進出するのは、長元4年(1031)源頼信が戦わずして平忠常の乱を平定してからだ。「陸奥話記」はこの時従軍していた頼信の子頼義の勇猛・才気に、坂東の武士が服属を願うものが多かったと伝える。また、同9年相模守として下向したときも、東国武士の多くが頼義に服属した。

 前九年の役(1051-62)では波多野一族の父祖佐伯経範らが頼義・義家父子に属して戦い、後三年の役(1083-87)には三浦一族の祖三浦平太為次(継)や、大庭・梶原氏等鎌倉党の祖鎌倉権五郎景正らが源義家に従って奮戦した。こうして、東国武士特に相模の武士は源氏との主従関係を強固なものとした。

 こうした武士は開発領主として、開墾した土地を中央の貴族・寺社に寄進して荘園の下司となったり、国衙から公領として領有を認められ、郷司や保司に任命されたものだ。また、一方では国衙在庁官人の地位を得、行政・警察などの業務にあたった。彼らは次第に根拠地の周辺にも開発を進め、一族子弟に支配させて勢力を広げていった。

 義家の死後孫の為義の代には源氏の勢力は衰え、代わって平正盛・忠盛が登用されるようになり、為義の子義朝は、頼義以来の源氏の拠点鎌倉に居住して勢力挽回につとめ、大庭氏の大庭御厨に侵入などしている。

 京都に戻った義朝は都の武者として活躍し、保元の乱では大庭景義・同景親、山内首藤俊通・俊綱父子、波多野義通らを率いた。しかし、平治の乱では三浦義澄、山内首藤俊通・俊綱らを従えて戦ったが、平清盛に惨敗、義朝は討たれ、三男頼朝は助命され伊豆に配流された。

 平家全盛になると、これまで源氏に服属していた大庭景親が積極的に平氏と結び、相模武士を束ねる地位を獲得した。

 さて小田原には、中村荘を根拠とした中村氏と、その一族の土肥・小早川氏、曽我氏、大友氏などの武士が存在した。

 中村氏は中村荘を根拠とし、桓武平氏を称する。中村荘司(下司職)宗平は源義朝騎下に1144年大庭御厨を侵した。宗平は鎌倉幕府成立後は頼朝に従い、頼朝が1185年義経・行家を討つため京都へ向けて進発したとき、宗平の中村荘に投宿、相模御家人らは悉く参集した。

 以後中村氏は長男重平が相続し、次男実平は土肥郷(真鶴・湯河原・熱海市)を支配して土肥次郎を称し、三男宗遠は土屋(平塚市)を本拠として土屋三郎、四男友平は河匂荘(二宮町)を領して二宮四郎、五男頼平は堺(中井町)を与えられ堺五郎とそれぞれ称して発展した。また、中村重平の子景平・盛平は石橋山合戦で頼朝に従った。しかし、中村氏のその後の動静はよく分からず、一族の中心は土肥・小早川氏に移っていった。

 土肥氏は中村宗平次男実平が土肥郷を本拠としたのに始まる。実平の子弥太郎遠平は父から早川荘を与えられ早川(小早川)氏を称した。石橋山合戦(1180年)は土肥・小早川の本拠地早川荘近辺で戦われ、土肥実平・弥太郎遠平親子は、敗北した頼朝の危機を救う大活躍をした。土肥実平は次いで、頼朝が派遣した範頼・義経を大将とする源義仲や平家倒滅の軍に軍奉行的地位で参加、一の谷合戦で平家軍を破った後、最前線の備前・備中・備後の総追捕使に任じられ、国務の遂行・軍事指揮権を任された。子の遠平も西国遠征に従った。また、1187年奥州討伐にも実平・遠平父子は従っている。しかし、和田合戦(1213)の際、遠平の子惟平が和田義盛方に味方して斬首、早河荘は没収され、没落していく。土肥郷のみ遺児惟時が保持した。

 一方、遠平は源氏一族の平賀義信の子景平を養子としており、惟平の義兄弟だった。この景平が小早川氏を継ぎ、遠平から成田荘と安芸国沼田(ヌタ)荘を譲られたらしい。景平の子茂平は承久の乱(1221)で、恩賞として沼田荘に隣接する安芸国都宇・竹原荘を獲得し、沼田荘に本拠を移して西遷御家人として六波羅探題に出仕した。

 曽我氏は曽我荘(郷)を本拠とし、史料上の初見は石橋山合戦に平家方で参戦した曽我太郎助祐信、桓武平氏を称する。祐信はその後降伏して許され、西国遠征に参加、一の谷合戦で範頼軍に属して戦い、奥州討伐にも参戦している。また、祐信は弓馬に堪能で、源頼家の弓始めの射手などをつとめている。建久4年富士の巻狩の際、曽我物語で有名な養子曽我十郎祐成・五郎時致の敵討が起こった。曽我兄弟は実父祐通の敵工藤祐経を討ち取ったが、祐成・時致とも殺された。義父祐信はこの事件に関与していなかったので連座を免れた。しかし、頼朝は兄弟の勇敢に感じて、曽我荘の乃具を免除し、その菩提を弔わせている。和田合戦の際、多くの相模武士が和田義盛に味方する中、曽我祐綱は北条義時に密着し、得宗被官(北条家御内人)となった。

 大友氏は波多野荘(秦野市)を根拠とした波多野氏の一族で、藤原秀郷流を称する。波多野四郎経家が国衙から大友郷司職に任命され、大友を称したと考えられる。経家は壇ノ浦合戦に参加している。後豊後国の大名となる大友氏の祖能直は、経家の娘婿中原(藤原)親能の猶子となり、大友氏を継承したことが明らかになっている。能直は奥州討伐の際、藤原泰衡の異母兄国衡の守備する阿津賀志山で18歳の初陣を飾り、武勲を立てて恩賞として陸奥国に所領を得た。その翌年にも泰衡の残党を鎮圧するため出陣している。

 波多野氏はまた沼田(南足柄市)に進出、大友四郎経家の兄弟で七郎家通が沼田氏を称し、その子家信は栢山太郎、家持は曽木次郎、家光が沼田三郎と号して、それぞれ栢山・曽比・南足柄市沼田に勢力を張った。頼朝期から実朝期の「吾妻鏡」には沼田太郎、同次郎として登場し、沼田と称する場合が多かったようだ。沼田(栢山)家信は奥州討伐に従軍している。

鎌倉末期の小田原の御家人

 建冶元年(1275)幕府は京都六条の若宮八幡宮造営のための費用を御家人に課した。その分担費用を記した史料が「六条八幡宮造営注文写」(以下「注文」)で、貴重な当時の御家人名簿となっている。御家人たちは鎌倉中(123人)、在京(28人)、諸国(318人)に分けられる。鎌倉中とは鎌倉に館をもち、常時幕府に出仕していた御家人、在京は文字通り在京御家人、諸国とは鎌倉や京に出仕することなく、根拠地に在国していた御家人で、負担額から見て出仕御家人よりも所領規模が劣る中小御家人が多い。

 在京御家人筆頭に小早河美作入道(茂平)跡15貫がある。「跡」とは遺領相続者のことで、茂平の所領を相続した子息たちが、寄り合って15貫文を拠出することだ。茂平は先に述べたとおり、西遷御家人として成田荘から安芸国沼田荘に本拠を移していた。

 小田原の残りの御家人はすべて諸国御家人に位置付けられている。かつての中村氏、土肥氏、曽我氏らの地位の低下は明白だ。

「注文」に見える市域の御家人

負担額本拠地
中村入道(宗平か)跡   4貫中村荘?
土肥左衛門入道(惟時か)   6貫土肥郷(湯河原町)?
山内首藤刑部大夫(経俊)跡  20貫早川荘内田子一得名
小早河二郎左衛門尉(季平か)跡   5貫成田荘内北成田郷
同三郎左衛門尉(飯泉景光か)跡   3貫成田荘内飯泉郷
飯田入道跡   3貫飯田郷?
曽賀(我)入道(祐信か)跡   5貫曽我郷?
冶(沼)田小太郎(栢山家基か)跡   5貫
池上左衛門尉跡   5貫早川荘内池上
荻窪入道跡   3貫早川荘内荻窪
酒(句)匂刑部入道跡   5貫酒匂郷

 小早川二郎(季平)及び三郎(景光)は、共に小早川景平の子で、茂平の弟たちだ。季平・景光は成田荘内の地を譲与され、季平は北成田郷を、景光は飯泉郷を本領とした。季平流小早川氏では、永仁7年(1299)季平の孫定平が、箱根山悪党人を捕らえた賞として、幕府から出羽国小友村(秋田県本荘市)を与えられている。また、飯泉景光の孫祐光は建冶3年(1277)幕府門注所の合奉行に任ぜられている。

 池上左衛門尉は早川荘内池上を、荻窪入道は同じく荻窪を本拠とした御家人と考えられる。両者は一族であった可能性が高い。池上氏の初見は、暦仁元年(1238)将軍頼経上洛の時、池上藤兵衛尉康光と同藤七康親が、随兵として従っているのが吾妻鏡に見える。ところが、弘安8年(1285)11月の霜月騒動で、池上藤内左衛門尉は安達泰盛に組し、得宗被官平頼綱らによって討たれた。その後没落を余儀なくされ、幕府滅亡後、藤内左衛門尉泰光が足利方に属して宮方と戦っているのが知られ、足利氏に従うことによって回復をはかったものと見られる。一方の、荻窪氏の動向はよく分かっていない。

 酒匂氏は酒匂郷を本拠とした御家人と考えられる。鎌倉時代初期に酒匂太郎という御家人がいたことがいくつかの史料に見え、1180年代半ば、鶴岡八幡宮造営に際し、廻廊中門の礎石に用いる石を、酒匂太郎の沙汰として、船で鎌倉に運ばせている。他の史料では、頼朝が酒匂太郎に伊豆山権現領の柳下郷の免田に課役をかけることを禁止している。また、他の史料では頼朝が酒匂太郎の相続人に、楊下船に対する妨げの停止を命じている。楊下も柳下のことで、楊下船とは渡し船であったかもしれない。酒匂氏も酒匂川船運に関係していたと考えられ、その前提があればこそ、礎石用の石を船で運ばせようとしたのだろうし、伊豆山権現の持ち船の妨げ停止命令が出されたのだろう。後、一族の中から北条氏被官となる者もいた。鎌倉末期の元弘の変(1331)において、酒匂宮内左衛門尉が北条氏一門の金沢氏の代官として見える。

 飯田入道は市内の飯田郷か相模東部(横浜市)の飯田郷を本拠とした御家人かを確定できない。その飯田氏は承久の乱の際、北条時房・泰時の幕府軍に加わっている。

 その他、注文に名は見えないが、承久の乱の際、飯田氏とともに時房・泰時の幕府軍に加わった御家人に成田氏がいる。成田氏は成田荘出身の武士であると見られる。一方、北成田郷鶴丸名に関係を持っていた成田五郎入道栄願なる人物が知られているが、両者の関係はよく分からない。

 同じく注文に見えないが、池上・荻窪両氏と同様、早川荘内風祭郷を本拠とした御家人に風祭氏がいる。鎌倉時代末、風祭郷と上総国山田郡本上村の地頭職をめぐって、長門三郎入道道教と金子太郎左衛門尉康広が相論している。この二人は風祭入道西妙の娘で金子太郎左衛門尉広綱の妻となった尼妙覚の子孫で、道教が曾孫、康広が孫にあたる。相論の対象となった風祭郷は尼妙覚が父から譲与された所領と考えられる。

鎌倉時代の交通と宿駅

 鎌倉幕府が開かれると、東海道の往来は活発になった。京都大番役をつとめるため上京する御家人たちや、幕府に提訴するため鎌倉に向かう荘園領主の使者らが、京都・鎌倉間の東海道を頻繁に往復した。

 文治元年(1185)11月頼朝は、駅路の法を定め、鎌倉から上洛する使節のため、沿道の荘園から伝馬やその食糧を徴することとしている。建久5年(1194)以前には「早馬上下向并びに御物疋夫」について、大宿分8人、小宿分2人と定められた。その後、将軍実朝時代の建暦年間(1211-13)頃までに、幕府は新宿を増設するなどして、宿駅を整備していった。

 鎌倉時代にも古代以来の足柄峠越えが本道として利用されていた。頼朝が建久元年(1190)上洛した際、酒匂宿から関下(関本)を経て足柄峠を越えている。暦仁元年(1238)4代将軍頼経が上洛した際も同じコースが使われている。また、貞応2年(1223)「海道記」の作者(不明)も、逆に竹下(小山町竹之下)から足柄峠を越え、逆川(酒匂)に宿泊したのち、鎌倉へ到着している。

 しかし、本道が足柄越えであった時代でも、箱根越えは利用されていた。源義仲を討つため範頼・義経軍が上洛する際、範頼は足柄越え、義経は箱根越えをしている(平家物語)。また、壇ノ浦合戦で捕らえられた平宗盛・清宗父子が鎌倉に護送されたときも、三島から箱根を越え、湯本宿に達している(平家物語・源平盛衰記)。敵討ちを決意した曽我兄弟が、箱根道を通って富士の巻狩に向かったのも有名だ。

 箱根越えが東海道のメインルートとなるのは、鎌倉時代半ば以降のことと考えられる。仁冶3年(1242)「東関紀行」の作者(不明)は伊豆国府(三島)から箱根山を経て湯本に至り、鎌倉に到着している。都の文人が箱根道を通っていることは、当時箱根越えがかなり整備されていたことが伺える。

 これ以後、様々な人々が箱根道を通って鎌倉へ下ったことが知られている。阿仏尼の紀行文「十六夜日記」には、「足柄山は道遠しとて、箱根路にかゝるなりけり」とあり、箱根越えが近道だったため選ばれている。また、「いと嶮しき山を下る。人の足もとゞまりがたし。湯坂といふなる。からうして越え果てた」とあり、かなり険しい道で、このルートを湯坂道といったことが知られる。その湯坂道は三島から箱根峠を越え、葦川・元箱根・芦ノ湯を経、鷹巣山・浅間山・湯坂山の尾根道を辿って湯本に至る。

 足柄道と箱根道の分岐点が酒匂宿で、古代末期以来交通の要衝として栄えた。早くは治承4年(1180)石橋山合戦に際し、頼朝に味方するため和田義盛ら三浦一族が酒匂宿の西のはづれ八木下といふ所に陣取った、と源平盛衰記に見える。

 酒匂宿は酒匂川河口域の酒匂郷内に成立した宿駅と考えられる。酒匂宿から北上し鴨宮を経て桑原に達すると、中村荘から六本松峠を越え、曽我方面からのびる足柄道と合流する。狩川に沿ってさらに北上すれば、関本宿から足柄峠へと至る。一方箱根越えは、酒匂宿から酒匂川を渡り、湯本宿から湯坂道を経て箱根峠を越えて、三島へと至る。どちらのルートを通るにせよ、酒匂宿は交通上の分岐点として重要だった。鎌倉幕府が成立し、東海道の往来が活発化するとともに、酒匂宿は一層の繁栄を見せる。

 「海道記」には酒匂宿について、北側が山を背に荒れ果てた畠地があり、南側は波打ち寄せる海岸だったと書いている。宿周辺は農・漁村的景観が広がっていた。また、遊女もいたことが、海道記や飛鳥井雅有の紀行文「都の別れ」によって知られる。東海道沿いの現酒匂には中世の創建とされる寺院が10箇寺以上存在しているので、恐らく酒匂宿はこれら古寺が並ぶ東海道上にあったと見てよい。

 酒匂宿は将軍の二所参詣(箱根権現・伊豆山権現)の宿泊地としてしばしば利用された。二所参詣に伴い、湯坂道が整備され、浜部御所という将軍宿泊所が酒匂宿に設営された。二所参詣といっても、三島神社も入るので、実際には三箇所で、当初伊豆山→三島→箱根へと参詣していたものが、建久元年(1190)からは箱根→三島→伊豆山となったようだ。その浜部御所は酒匂川にほど近い、東海道の北側、字瓦屋敷という場所に存在したとみられる。規模は小さかったらしい。

 なお、酒匂郷・柳下郷の地頭に酒匂太郎がおり、永仁5年(1297)建立と伝える上輩寺の開基も酒匂右馬頭某とされるなどから、酒匂氏と酒匂宿は密接な関わりが窺えるが、浜部御所という存在から、幕府が直接宿を支配・経営していた可能性も否定できない。

 次に国府津宿だが、初見は奈良西大寺の長老叡尊(エイソン)が弘長2年(1262)鎌倉へ下向したときの記録「関東往還記」で、箱根山を越えた叡尊一行は、湯本・酒匂宿で休息した後、粉水(国府津)宿に宿泊したとある。「曽我物語」には、それより前に曽我十郎が古宇津(国府津)宿に出入りしたとあるが、同物語の成立は14c頃のことなのでそのまま信用できないとのことだ。その後、鎌倉時代半ばには国府津宿が諸史料に散見できる。従って、国府津宿は酒匂宿に比べ、その成立はかなり遅かったと見られる。

 国府津宿の支配・経営についてはよく分かっていない。ただ、国府津がその漢字表記から国府の津、つまり相模国府(鎌倉時代は大磯町にあった)の外港とする説があるが、国府津と書かれた史料が鎌倉時代以前には見当たらず、古宇津・粉水・郡水などと表記されており、ようやく文和3年(1354)の史料に国府津と見えるのみなので、この説はいただけないとのことだ。

 最後に小田原の地名だが、その初見は国府津よりさらに遅く、鎌倉時代末期14c初頭となる(冷泉為相の藤谷和歌集など)。先の阿仏尼の十六夜日記には、夕暮れ時に小田原付近を通ったところ、海女の家のみしかなかったので、疲れた足を引きずりながら酒匂まで行って泊まっているので、その時にはまだ小田原宿はなかった。どうやら、箱根・伊豆山権現が武士階級のみではなく、広く東国の人々によって二所詣でが盛んになってきて小田原宿が発達していったらしい。

 貞和2年(1346)の「箱根権現参詣・遷宮目録」という史料によれば、鎌倉将軍が箱根権現に参詣する際、小田原松原大明神(松原神社)等に神馬を奉ったことが記されている。よって、市内本町付近が小田原宿の中心だったらしい。また、建武2年(1335)「足利尊氏関東下向・宿次注文」によると、北条時行を討つため(中先代の乱)鎌倉へ進軍した足利軍は、箱根山中(水飲(三島)・葦河上・大平下(お玉ヶ池付近)・湯本地蔵堂の4箇所)で戦ったのち、小田原の上の山で野宿したとある。上の山とは八幡山(城山)と見られるので、当時の小田原宿は、まだそれ程発達していなかったのだろうと推定される。