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9.北条氏政・氏直

 氏政は永禄2年(1559)氏康から家督を譲られた。19歳であった。氏康次男で、兄新九郎が早世したため、嫡子とされ仮名新九郎を称した。家督を譲られても、父氏康が「御本城様」と呼ばれて実権を有し、そのため氏康・氏政は「小田原二屋形」と呼ばれた。ただし、虎の印判は氏政が持ち、氏政不在の折は、氏康が「武栄」印で支配した。元亀2年(1571)氏康死去により、名実ともに北条氏最高実力者となる。

越相同盟の破棄、甲相同盟の復活、謙信の越山の再開、房総・北関東の情勢

 氏康死去は北条氏にとって代替わりと認識されていたようで、翌元亀3年氏政は、代替わり検地として家臣の軍役着到(軍勢の動員リスト)の改定や、所領の安堵などを行っている。また、氏政は氏康の死去を契機に、外交政策の大転換を行った。すなわち、越相同盟を破棄、甲相同盟を復活させたのだ(元亀2年12月)。もっとも、このことは氏康生前からの懸案だったとも見られ、氏康は死去に際してこれを氏政に遺言したとも言われる。武田氏との同盟交渉は極秘に進められたようで、北条氏の御一家衆・家老らにも直前になって初めて公表された。同盟の内容は、互いの分国の承認と不可侵を協定する「国別(クニワケ)」が行われた。一方、上杉氏とは互いに同盟破棄を通知する「手切之一札」を交わした。後の天正5年(1577)には、氏政の妹が武田勝頼に嫁ぎ、甲相同盟はより強固なものとなった。

 甲相同盟復活と共に上杉輝虎との抗争が再開される。これに関連して常陸佐竹氏・安房里見氏・下総結城氏・下野宇都宮氏が上杉方に属した。氏政はこれら緒氏に対して本格的な経略をすすめ、北条氏の攻勢が強まる中で、関東緒将の要請に基づき輝虎の越山が再開された。しかし、北条氏勢力の増大により、越山の意義は低下したおり、天正3年の越山が最後となった。この間の天正2年12月に、輝虎は出家し謙信と号した。

 氏政は天正5年11月に安房里見氏と和睦を結び、同盟するに至る。以後里見氏との抗争はなくなり、房総半島の情勢は安定したが、一方で佐竹氏ら北関東緒将は危機感を強め、佐竹氏を中心として反北条連合が結集された。

御館の乱と甲相関係の悪化

 天正6年上杉謙信死去、上杉氏内部では家督をめぐり、景勝と景虎の二人の養子により家中を二分して抗争が展開された。これを御館(オタテ)の乱という。景虎は越相同盟に際して謙信の養子になった氏政の弟だから、景虎は氏政に支援を要請した。氏政は北関東情勢に対峙していたため、ただちに本格的な支援を行えなかったため、武田勝頼に援軍の派遣を要請する一方、弟氏邦(鉢形城主)を支援に向かわせた。

 ところが、武田勝頼は上杉景勝と和議を結び、景勝・景虎との和睦を斡旋しつつ、甲越同盟を締結するに至った。しかし、景勝・景虎との和睦は不調に帰し、勝頼・景勝の同盟は景勝に有利に作用して、翌年には景虎は滅亡した。

 景虎滅亡を受け、氏政はかつて上杉氏に譲渡した上野支配権の掌握を表明した。これに対して、甲越同盟締結にあたり、勝頼の妹が景勝に嫁ぐという婚姻関係が成立し、景勝は上野支配権を勝頼に譲渡したとされる。ここに至り、甲相関係の悪化が明らかとなった。勝頼は伊豆国境に沼津城を構築し、公然と北条氏に対して敵対行動をとる一方、佐竹氏らと盟約し、彼らに下野・下総への侵攻を要請した。これに対して、氏政は遠江の徳川家康と盟約する一方、佐竹氏らや武田氏に対陣したが、勝頼は旧上杉氏方国衆の凋落に成功し、上野において北条氏に従属する国衆は、由良氏・館林長尾氏・富岡氏のみとなった。こうして、武田氏との抗争によって、氏政は劣勢となってしまう。

   こうした状況を受け、氏政は天正8年低姿勢で織田信長に接近を図る。それは織田氏と北条氏の婚姻関係の成立を要請し、「関東八州御分国に参る」として信長への従属を表明したものだった。婚姻については、嫡子氏直に信長の娘を娶るという約束がなされたものの、同年上野における北条氏の唯一の拠点沼田城が攻略され、勝頼も東上野に侵攻した。

武田氏の滅亡

 天正8年氏政は氏直へ軍配団扇(グンバイウチワ)を譲渡した。軍配団扇とは軍事指揮権を象徴するもので、家督の委譲を意味する。この時期になぜ家督の交代がなされたのか、その理由は明確ではないが、おそらく信長の返答が得られ、その女婿となるべき氏直に一刻も早く家督を譲る必要があったのではないかと考えられる。この後氏政は「ご隠居様」、氏直は「御屋形様」と称される。翌9年には軍役改定、増段銭(マシタンセン)の設定などの代替わり政策が施行された。

 一方天正9年、徳川家康は遠江における武田方の最大拠点高天神城を攻略、武田氏は遠江から後退を余儀なくされた。これを受けてか、氏政は津久井衆・滝山衆らを甲斐郡内に侵攻させ、また駿河の天神ヶ尾・沼津城を攻撃などして、武田氏に対する攻撃を積極的にしている。

 さらに翌10年、信長は武田氏攻めを決定し、家康に通知した。しかし、北条氏には信長から詳しい連絡がなかった。信長は2月、信濃木曽氏が勝頼から離反したのを皮切りに、嫡子信忠・滝川一益らを先陣として武田への侵攻を開始した。続いて家康も駿河に侵攻、北条氏もようやく織田からの連絡を得たと見えて、駿河・上野への侵攻を開始した。北条氏は駿河の河東一帯を制圧、富士川を北上して甲斐に向け進軍、上野方面では西上野に侵攻して、箕輪内藤氏・和田氏らの凋略に成功している。勝頼は織田軍の侵攻を阻止できず、田野(山梨県大和村)で妻子とともに自刃し、ここに武田氏は滅亡した。氏政は信長に祝儀を言上するなどしている。

 信長は武田領国の仕置において、上野を滝川一益、駿河を徳川家康、甲斐を河尻秀隆に与えた。北条氏の勢力下にあった東上野も信長の領国となってしまった。氏政は、わずか一箇月で武田氏を滅亡させた信長の圧倒的な軍事力を前に、信長との婚姻関係の成立を切実に願うのみだった。

 信長から上野一国・信濃二郡を与えられた滝川一益は、同年箕輪城に入城し、領国支配の拠点とする一方、上野国衆を自身のもとに出仕させ人質を徴収、さらに知行充行などを行って、上野国衆の把握を進めていった。また、下野・上総の国衆や安房里見氏・陸奥芦名氏・伊達氏ら諸領主に対して、織田への従属または友好を呼びかけている。その後、一益は厩橋城に移った。

本能寺の変

 天正10年6月、京都本能寺において信長が討たれた。そのため、織田分国はにわかに分裂化の様相を呈することとなる。北条氏も上野半国の領国化を遂げていたにもかかわらず滝川一益の領国とされ、事実上の撤退を強いられていたため、信長死去を契機にその回復を図るのも当然だった。氏政はただちに、氏直を大将として滝川軍を攻撃、上野・武蔵国境の神流川合戦に勝利し、上野国衆も北条氏に応じたため、滝川一益は上野・東信濃から撤退した。

 甲斐や信濃における織田分国も同様にたちまち崩壊し、にわかに空白地となったこれら織田分国には、北信濃に上杉景勝が、甲斐・南信濃に徳川家康が、東信濃には一益を追撃する形で北条氏直が進軍した。氏直は真田氏ら小県・佐久両郡の国衆、諏訪郡の諏訪氏の従属化にいっとき成功したが、家康が甲斐制圧の後信濃攻略を進め、諏訪氏が援軍を氏直に要請したため、ここに信濃領有をめぐって北条・徳川は抗争を展開するに至った。

 ところが、信濃の真田氏が徳川方に寝返り、家康と連携した佐竹氏ら北関東諸将が上野・下野に侵攻するなどし、家康も北信濃をめぐって上杉景勝との攻防があり、織田信雄の勧めもあって、北条・徳川両氏は和睦を結ぶこととなった。和睦により、信濃佐久郡・諏訪郡は北条氏から徳川氏に割譲され、徳川方の真田氏が領有する上野吾妻・沼田二領は北条氏に割譲された。さらに家康の娘が氏直に嫁すという婚姻関係も約された(翌年輿入れ)。ここに、北条氏は上野一円の領有権を確保したが、真田氏領の北条氏への割譲はただちに解決されず、小田原合戦への伏線をなすことになる。

 天正11年、北条氏と徳川氏の婚姻が成立した後、北条氏は離反した厩橋北条(キタジョウ)氏を攻略した。しかし、厩橋城に在陣する氏直のもとに、由良国繁と館林長尾顕長兄弟が厩橋攻略の祝儀に訪れた際、下野侵攻に備え両者の本城を借用したい旨申し入れたところ、家臣らが所領没収と勘違いし、新田由良氏(金山城、群馬県太田市)と館林長尾氏は籠城、北条氏から離反してしまった。国繁・顕長は小田原に送られ、軟禁された。こうして、北条氏は由良・長尾両氏とこれを支援する佐竹氏・佐野氏らと、渡良瀬川を挟んで対陣した(下野藤岡・沼尻合戦)。また、上杉氏も佐竹方を支援するため上野国境に進軍してきた。そのため、北条氏は佐竹方と和睦し、両軍とも退陣した。このとき中央においては、羽柴秀吉と織田信雄(ノブカツ)・徳川家康が小牧・長久手合戦を行っており、信雄が降伏し、家康は秀吉と和睦したのだったが、家康は北条氏に加勢の派遣を要請していた。結局、北条氏は佐竹氏らと対陣していたため、この要請は実現されなかったが、そこには秀吉により佐竹・上杉氏に対する北条氏の援軍派遣阻止の要請が働いていたとも見られる。

 その後、由良氏・長尾氏は軟禁されていた主君の勧告を聞き入れて、それぞれ主君の帰城後に開城・降伏した。天正13年初めのことで、氏直は改めて降伏した由良氏・長尾氏の出仕を受けた。これにより、上野において北条氏に従属していない国衆は真田氏のみとなった。この間、北条氏は陸奥伊達政宗と通好を図っている。政宗の方では、対抗する芦名氏が佐竹氏と連携していた。

秀吉の関東・奥両国惣無事令

 天正13年、秀吉は紀伊の雑賀一揆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政らを制圧し、旧主筋の織田信雄が従属すると共に、みずからは関白に就任し豊臣政権(*)が誕生した。翌14年には上杉景勝、徳川家康が秀吉に従属した。秀吉と家康の和議は、秀吉の意を受けた織田信雄が周旋、秀吉の妹朝日姫が家康に嫁すという婚姻関係の成立を伴っていた。家康は秀吉との和議を成立させたことにより、同盟関係にある北条氏政に低姿勢で会見を申し入れ、釈明と、北条領との国境にある三枚橋城(沼津市)の破却などを示している。

*豊臣は源・平・藤原・橘のように氏(ウジ)名、姓名は羽柴秀吉が正しい。

 一方、北条氏は天正14年、氏直が下野佐野氏を併合、ほぼ下野の半国を勢力下に収め、宇都宮氏・那須氏の攻略を残すのみとなった。しかし、秀吉は同年「関東・奥両国惣無事令」を発し、家康に東国諸大名に対する取次ぎ役として、その執達を命じた。惣無事令とは、秀吉が全国の統治者として、諸大名の交戦を私戦と見なしてその停止を命じたものだ。従って、惣無事令の受諾は、秀吉への従属と一体となり、隣接する勢力に対しての交戦権を放棄するものとなる。家康は、同令の正文を北条氏に回送し、その返答を要求した。

 これに対して北条氏は、惣無事令を受諾するか否かの明確な回答を避けつつ、一方で領国全域にわたって防衛体制の構築を進めていった。防衛体制の構築の中で、もっとも重視したのが諸城の普請だ。天正15年5月、秀吉は薩摩島津氏を降伏させ、九州を平定した。これにより矛先はいよいよ北条氏に向けられこととなった。同年7月北条氏は人改め令を発した。これは、本来軍役を勤めない人々を、国家存亡の危機に際して兵として動員しようとするもので、これ以前には永禄12年信玄来攻に際して発令されたことがあるにすぎない。北条氏はまた、軍備の充実を図り、鉄砲などの武器の増産を急速に進めた。秋からは、兵糧の備蓄が急速に進められた。各城に兵糧の搬入が命じられ、郷中に一俵も残さないよう命じられたとみられる。家臣らの妻子も各城への入城が命じられた。12月になると、いよいよ秀吉の来攻が近いと風聞され、北条氏は領国全域にわたり、在城衆を残し翌年正月15日を期日として小田原へ参陣するよう軍勢の招集をかけた。しかし、この15年末から16年初めにかけての籠城態勢は、結局秀吉軍の来攻が風聞に過ぎなかったため、すぐに解除された。秀吉は天正16年3月九州の反乱鎮圧のため、北条攻めを延期、また同4月には後陽成天皇の聚楽第行幸が挙行されていた。

 同年5月家康は北条氏に対して秀吉への出仕を勧告した。勧告を受けた北条氏は閏5月には「何様(イカヨウ)にも上意次第たるべし」として秀吉に服属を表明し、秀吉はこれを赦したため、北条氏は氏規(ウジノリ、氏直の叔父)を御礼言上のため上洛させた(8月)。ただ、北条氏内部では反対意見も強かったらしく、以後氏政は実質的にも隠居したと表明し、何事にも口出ししなくなった。

 この間、下野足利長尾氏(元館林)・桐生由良氏(元新田)が再び北条氏から離反、上野沼田領をめぐる真田氏(家康が秀吉への従属後徳川氏与力)、さらに常陸牛久周辺での佐竹氏との抗争が行われていた。天正17年2月北条氏はこれら領界紛争について、秀吉との折衝のため家老を上洛させている。一方、反北条勢力と親交を有する石田三成らは、北関東諸将に対して、北条氏照などが上洛して種々の言上を行った後では事態は最悪になると警告している。

 さて、秀吉は氏政・氏直いずれかの上洛を北条氏に要請した。これに対して北条氏は上洛の交換条件として、真田氏との沼田領問題の解決を要求した。秀吉は、北条氏が自力で沼田領を経略し得なかったという経緯を踏まえ、北条氏には同領の2/3のみを割譲し、真田氏が割譲する分の替地は家康が与える、旨の裁定を行った。氏直はこの裁定を了承し、12月に父氏政が上洛する旨秀吉に言上した。

小田原合戦(天正18年)

 沼田領が引き渡されたことで、いよいよ氏政の上洛が政治的焦点となったが、ここにきて北条氏は氏政の上洛の引き伸ばしを図った。天正17年12月の上洛予定を繰り下げて、来年春・夏頃の上洛を申し入れたのだ。これに対して、秀吉はあくまでも年内の上洛を要求し、年内出立・年明け京着の妥協案を示した。こうした秀吉の基本的スタンスは、北条氏を服属させたいということであったことが伺われる。

 ところが11月になって、氏邦の重臣で沼田城主となった猪俣邦憲が、真田氏に留保されていた利根川対岸の名胡桃(ナグルミ)城(群馬県月夜野町)を攻略するという事件が生じた。この報はただちに真田昌幸や徳川家康から秀吉のもとにもたらされ、立腹した秀吉は沼田領問題裁定に対する重大な違約行為として、ただちに氏政の上洛と事件の張本人猪俣邦憲の成敗を要求、さもなければ来春北条氏討伐することを表明した。

 ここに至ってなお氏直は、名胡桃城奪取に北条氏は関与していないと弁明、来春の氏政の上洛、氏政が上洛した後そのまま抑留または国替えされるのではないかとの惑説があるので、家康が上洛した際と同様秀吉生母大政所の下向などの措置をとってもらいたいなどの処遇を要求した。このため、秀吉はついに12月13日諸大名に対して、北条氏追討の陣触(ジンブレ)を発した。北条氏もこれを受け、17日に領国内の家臣・他国衆に対して小田原への参陣を命令、小田原籠城戦の準備を始めた。

 北条氏の防衛体制は、秀吉軍主力が来攻すると予想される東海道・伊豆方面では、山中城(静岡県三島市)に守将松田康長と北条氏勝、韮山城(静岡県韮山町)の北条氏規と相模田原城主大藤予七、足柄城(足柄道)に武蔵小机城主北条氏光、新城(山北町)におそらく下野佐野城主北条氏忠などが配置された。太平洋岸を進む水軍に対しては伊豆半島西岸の重須・長浜城(共に静岡県沼津市)と下田城(静岡県下田市)があり、伊豆沿岸の防備には山本氏ら伊豆を本拠とする水軍があたったとみられる。越後の上杉景勝や信濃の真田昌幸らの上野方面へ予想される侵攻に対しては、碓氷峠を越える街道上に松井田城(群馬県松井田町)の大道寺政繁、美和・内山両峠を越える街道上に西牧(サイモク)城(群馬県南牧村)の多目(タメ)周防守、三国峠を越える街道上に沼田城の猪俣邦憲が守備にあたった。上野方面の指揮は武蔵鉢形城の氏邦があたったとみられる。

 本拠小田原の防衛体制は、大規模な普請により城と城下を囲む大外郭が築かれ、その防衛力を飛躍的に高めていた。さらに箱根山中に二子山・屏風山・鷹巣・宮城野・塔ノ峰の諸城、南麓には根府川城が配置され、氏直の直接指揮下にあったとみられる。また、小田原城には武蔵八王子城の氏照、同岩付城の氏房、同松山城の上田憲定らの有力支城主がほとんどの手勢を引き連れてきており、これら支城の守備兵はごく僅かの兵を残すのみだった。また、海の防衛は相模浦賀の梶原氏の水軍が、早川等の河口、油壺湾の沿岸を封鎖するよう命じられている。もちろん城内には兵糧が集積され、領民が数知れず戦闘動員されていた。

 一方の秀吉は出陣を3月1日とし、それより前2月中には徳川家康が先発、同月中に長久保城(静岡県長泉町)に着陣、以下織田信雄・羽柴秀次・浅野長吉・細川忠興・筒井定次・蒲生氏郷・池田輝政・森忠政・稲葉貞通・金森長近らが3月中旬には駿河に集結したとみられる。兵糧は長束正家に黄金1万枚で伊勢・尾張・三河・駿河の米を買い付け、兵糧20万石を船で駿河江尻・清水に船で運搬すべきこと、または小田原付近へ船で廻送すべきことを命じている。運搬には水軍の加藤嘉明・九鬼嘉隆があたったとみられる。北国勢は前田利家が指揮し、自身は3月に信濃楢井(長野県楢井村)に着陣、上杉景勝・真田昌幸が信濃追分(長野県軽井沢町)に集結したといわれる。留守居の諸軍は小早川隆景・吉川広家にはそれぞれ尾張清洲・星川在番を命じられ、毛利輝元・鍋島直茂らが上洛したとみられる。秀吉着陣前に散発的に戦闘も行われたが、攻撃は秀吉を待って実施されるべきものとされていた。

 3月27日三枚橋城(沼津市)に着陣した秀吉は、山中・韮山の地形等を順見し、これらの攻撃態勢を整えた。29日山中城の攻撃開始、これには秀吉自身があたり、秀次・秀勝・宇喜田秀家・山内一豊らが従った。守備兵力僅か4〜5千の山中城は、激戦の末、同日中に守将の松田康長以下3〜5百名が戦死、落城した。援将の北条氏勝は一戦も交えずに本拠地相模玉縄城へ退去したという。徳川家康は山中の北方、元山中の間道を通って箱根へ抜ける道を進み、大した抵抗にもあわず鷹巣・足柄などの諸城が陥落した。池田輝政・木村重茲らは山中南方の日金山を越えて熱海・根府川へ抜ける間道を進み、その進軍により根府川の守備兵は退去した。

 韮山城攻略には同日、織田信雄・蒲生氏郷・稲葉貞通・森忠政・織田信包・細川忠興・中川秀政・筒井定次・蜂須賀家政・福島正則らが向かったが、守将氏規らの抵抗により、容易にこれを攻略することができず、その包囲・持久戦に持ち込まれた。また、韮山包囲軍から織田信雄・同信包・細川・蒲生らの諸軍を小田原包囲軍へ陣替えさせている。南伊豆下田城は毛利水軍が攻撃し、4月23日前後に守将の清水康英らに安全を保障して開城させた。他の加藤・九鬼・長宗我部らの水軍は小田原へ向かったとみられる。

 家康の先陣軍は4月4日までに小田原城近辺まで進軍し、諏訪の原・久野方面に進み、秀吉は5日湯本早雲寺に本陣を構えた。家康はその後今井に陣を構え、秀次・秀勝・蒲生氏郷・宇喜田秀家・織田信雄・織田信包・池田輝政・細川忠興・堀秀政・木村重茲などが小田原城を包囲した。

 前田ら北国勢は、秀吉の山中城攻撃の前日、上野における北条方の一大拠点大道寺政繁・直重父子が守る松井田城を攻め、4月20日頃これを開城させた。敗れた大道寺は降人となり、以後北条方諸城の案内役として前田らに協力したと伝えられる。松井田陥落により、上野の防衛体制は一挙に崩壊し、河越城・箕輪城・厩橋城・西牧・金山・石倉の諸城、武蔵深谷城、下野足利城・佐野城の諸城も相次いで降伏した。

 小田原包囲を整えた東海道本体の一部は、さらに相模国内に進んだと見られ、20日には玉縄城の北条氏勝を投降させている。この時点で津久井城の内藤綱秀はまだ健在だったが、相模の主要拠点はほぼ制圧されていた。秀吉は26日には小田原包囲軍の中から、浅野長吉・木村重茲及び家康配下の軍勢の一部を割いて武蔵攻略に派遣している。武蔵派遣軍は翌27日には江戸城を接収している。

 5月3日に秀吉は前田・浅野らに氏邦が指揮する武蔵鉢形城を攻撃するよう命じた。浅野は岩付城攻略を優先し、兵2万をもってこれを落としたが、鉢形攻略を重視する秀吉はかえってこれを叱責し、改めて鉢形攻撃を厳命した。氏邦は鉢形・岩付・八王子・忍・津久井諸城兵の助命を願い出ていたことが知られているが、その申し入れは秀吉に聞き入れられず、6月に入って浅野・前田ら5万の軍勢に包囲された鉢形城は同14日開城した。その後6月23日、前田・上杉は八王子城攻撃を行い、籠城兵3千が討ち死にしたと伝えられる小田原合戦中稀に見る激戦の末、これを落とした。また、同月中には武蔵の諸城も忍城を除いて陥落、相模津久井城、伊豆韮山城も開城している。忍城はその後石田三成が水攻めを行うが、小田原落城までよく持ちこたえ、その後開城した。

 秀吉の小田原攻めは関東・奥羽諸氏の秀吉への出仕を促進した。3月中には奥羽津軽為信が沼津に参陣したのを始め、5月初旬には奥羽南部信直、5月末には下総結城晴朝、下野宇都宮国綱、常陸佐竹義宣が小田原に参陣、6月下旬には奥羽最上義光、相馬義胤が参陣した。しかし、その動向がもっとも注目されたのが伊達政宗だ。天正13年以来北条氏と通交し、前年には陸奥芦名義広を追い、岩城・石川ら諸氏とも有利な立場で和睦してその勢力を拡大させていた。しかし、秀吉は芦名氏への攻撃を惣無事令違反として厳しく糾弾する姿勢を示しており、従って北条氏としても当然その支援を政宗に期待し、数度に及ぶ使者の派遣を行っていた。一方、秀吉側も浅野長吉・前田利家らが小田原参陣をさかんに勧めてきていた。そのため伊達家中では北条支援か秀吉への出仕かで激論が交わされたと伝えられる。最終的には政宗は秀吉に出仕することを決意し、6月初旬小田原に参陣したのであった。

 さて秀吉は持久戦を見越して石垣山城を構築した。その建設開始は秀吉が早雲寺に入った直後の4月初旬とされる。5月14日頃には石垣を竣工、6月下旬までには天守閣等の建築物もほとんど完成を見たらしい。秀吉は6月26日ここに陣所を移した。同城は関東初の総石垣の城とされる。秀吉はこの城の建設を北条方に知られぬよう、完成後城の前面にあった木々を一挙に伐採したため、小田原城の兵士は突然の城の出現に驚愕したと伝えられるが、真偽のほどは定かではない。

 秀吉はまた自身の側室淀殿を小田原の陣中に呼び寄せ、諸将にも女房衆を招くよう指示している。また千利休をはじめとする茶人を小田原攻めに同行させ、茶会を催して陣中の労を慰めさせた他、碁打ちや舞の芸能者も京都から召し寄せている。

 小田原城包囲・封鎖が徹底する一方、講和の動きが6月初旬から現実化することになった。家康が氏規に韮山開城と秀吉への謝罪を勧め、織田信雄の家臣が小田原城内に入り降伏・開城を勧めている。両動きは連携されていたと見られる。この働きかけは城内の動きへも影響を与えたと見え、城から逃亡する者も少なくなかった。さらに包囲軍に内通する者も現れ、16日松田政堯(憲秀の子)の内通が露見し成敗されている。

 6月24日韮山の氏規が投降、同日黒田孝高・滝川雄利が秀吉の使者として小田原城内に遣わされた。7月1日には氏直が投降に同意、5日には氏直が氏房と共に城を出て滝川の陣所に入り、自らの切腹に代えて城兵の助命を秀吉に嘆願した。秀吉はこれを受け、基本的に城兵の助命を認めたが、法度の存在を無視できないとして、氏政・氏照・大道寺政繁・松田憲秀の4人に切腹を命じた。氏直については、家康の娘を妻としていることから、助命を得策としたものとみられる。また大道寺政繁は前田利家に助命されたものの、秀吉はこれを許さなかった。翌日小田原の接収が開始され、10日には家康が入城した。これはすでに家康が北条領国の継承と、当年中の小田原在城を秀吉から命じらていたためと思われる。入れ替わりに氏直・氏政ら城内の諸氏は家康の陣所に移された。翌日決定通り氏政・氏照らが切腹、助命された氏直は12日高野山に追放と決まった。秀吉自身も13日小田原城に入城した。

 秀吉勝利の報はまたたく間に京都に広まったが、当時の人々の中にはすぐにはこれを信じることができず、疑念を持つ者も少なくなかったらしい。吉田兼見もその一人で、京に送られた氏政らの首級を顔を見知る家臣に確認させ、秀吉が大納言勧修寺に宛てた書状写を見て、ようやくこれを得心している。北条氏の軍事的強大さや小田原城の堅固さから、秀吉といえどもかなり苦戦を強いられるだろうと考える者が多かったことを示している。多聞院英俊もその日記で、「日本国六十余州、嶋々迄一円御存分ニ帰シオワンヌ」と書き記している。小田原合戦における勝利が、いかに歴史的意義が大きいかということを示すものといえる。

その後の後北条氏

 7月21日氏直は付き従う御一家衆、側近、従卒合わせて300人で高野山へ向かった。妻督姫はこれには従わず、父家康と共に小田原に残った。一行は8月10日高野山に到着、以前より相模からの参詣者の宿坊となっていた高室院を宿所とした。11月山上は寒さが厳しいため、秀吉の配慮によって山麓の天野(大阪府河内長野市)に移ったという。翌天正19年2月家康の運動により、秀吉は氏直を赦免し1万石の知行を与えることを伝えた。5月氏直は大阪の織田信雄の屋敷に居住することになった。信雄はこれより前、下野烏山(栃木県烏山市)に配流となり、日本中に言いようのない恐怖と驚愕を与えていた。そして8月、氏直は秀吉に拝謁、正式に赦免され、合わせて知行を拝領した。また、妻督姫も小田原から氏直の元に戻っている。しかし、氏直は10月になって疱瘡を患い、翌月死去してしまった。享年30歳。氏直には男子がなかったため、従弟の氏盛(氏規の嫡子)へ遺領のうち下野足利領4千石の継承が認められた。氏盛は、後に実父氏規の遺領(氏直とは別に知行を与えられていた)も継承し、大名として狭山北条氏の始祖となった。なお、督姫はのち、秀吉のお声がかりで池田輝政に再嫁した。また北条家臣の多くはその後徳川氏に仕えた。