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7.北条氏綱

 伊勢宗瑞の長男で、長享元年生まれ、仮名は新九郎(宗瑞以来嫡子は新九郎と名付けられた)。史料上の初見は、永正9年家臣の伊東氏への感状(戦功を賞したもの)で、ここで宗瑞と連署し、宗瑞の後継者であることを明らかにしている。時に氏綱26歳。

虎の印判

 氏綱の家督継承(永正15年)とともに「虎の印判」が登場する。一辺7.5cm、方形の上部にうずくまった虎を据えているため虎の印判といわれる。印文は「祿壽應穩」。その初見は同年伊豆長浜・木負(ともに沼津市)の御百姓中、代官山角・伊東宛の文書で、年紀の上部に虎の印判がかかるように朱色で押捺されている。このように印判が押捺された文書を印判状という。同文書には、少しの公事についてもこの虎の印判状がなければ、郡代・代官の文書があっても応じる必要がないこと、もし勝手に公事を賦課する者があれば直訴するよう述べられている。つまり、それまで公事・夫役の徴発が郡代・代官に一任されていたものを、以後伊勢氏が直接支配・管理することを宣言したものだ。

 虎の印判とほぼ同時に、氏綱は「調の印判」も使用している。この印判は「調」の一字を刻んだ一辺2.5cmの方形の朱印で、職人・商人からの公事徴発に用いられたようで、虎の印判の職・商人版といえる。氏綱は家督継承と同時に、こうした領国支配のための文書様式を整備し、権力の集中化を図った。以後、両印判は歴代を通じて使用されることとなる。特に虎の印判は、禁制や家臣・寺社宛の充行状・安堵状・寄進状などにも用いられるようになり、北条氏の権力を象徴するものとなっていった。

代替わり検地

 氏綱は宗瑞死去の翌永正17年検地を行っている。その施行は西郡と鎌倉における寺社領のみで、領国全域にわたって行われたわけではない。

 西郡については先の永正3年に検地が行われなかった土地と見られ、宗哲の所領であったようだ。宗瑞は末子宗哲に箱根権現領を与えたが、氏綱は小田原とその周辺を直轄領とし、宗哲の小田原における所領を収公し、替地を与えたと見られる。

北条改姓

 氏綱は大永3年(1523)、名字を伊勢氏から北条氏に改姓した。いうまでもなく北条氏は鎌倉幕府執権に由来するもので、同氏は代々相模守に任官され、相州太守と称されていた。伊豆国主であった宗瑞は関東の政治勢力からは、よそ者の侵略者として扱われていた。伊勢氏が小田原への本拠移転にともない、伊豆国主から相模国主へと転換しても、正当な相模国主は同国守護を継承する扇谷上杉氏であって、氏綱の相模国主の立場は容易には承認されなかった。

 後に述べる有力寺社の造営と相まって、北条改姓を行い、相模の正当な支配者であった執権北条氏に自らを擬し、相模支配の正当性の確立を図ったのだろう。ここに伊豆国主伊勢氏は相模国主北条氏へと転換し、戦国大名北条氏が成立する。また、氏綱は享禄2年(1529)または同3年、従五位下左京大夫に叙任され、同時に室町将軍家相伴衆に列せられたと見られる。これにより、領国支配権は国家的にも承認され、周辺の今川・武田・上杉らと対等の身分を獲得したのであった。

武蔵への進出

 氏綱は家督相続時に小弓公方勢力に属していたのであったが、少なくとも大永3年までには武蔵小机領(横浜・川崎市)、相模奥三保(オクサンポウ、津久井)の内藤氏、武蔵滝山領(八王子・府中市)の大石氏、武蔵勝沼領(青梅)の三田氏らを服属させた。

 一方、同じく小弓公方に属していた扇谷上杉朝興は古河公方足利高基方の山内上杉憲房と和睦、同時に甲斐武田信虎との結びつきを図った。これに対して氏綱は朝興方で江戸城を守っていた太田資高を内応させ、同城を攻略した(大永4年)。さらに余勢をかって岩付城(埼玉県岩槻市)、蕨城(同戸田市)、毛呂城(同毛呂山町)まで攻略した。いったん本拠河越城から後退した朝興だったが、上杉憲房・武田信虎の援軍を得て反撃に転じ、岩付城・毛呂城を奪回、その後は一進一退を繰り返した。

 大永5年朝興は、小弓公方の擁立主体の真里谷武田氏を氏綱と断交させることに成功し、これにより小弓公方義明も氏綱と断交した。この結果、氏綱は周辺勢力から包囲網を形成される格好となり、翌年には蕨城を奪回され、相模玉縄城まで進撃されるとともに、朝興方の安房里見氏にも鎌倉を攻撃され、劣勢に陥った。

 こうした状況を変化させたのは房総における内乱だった。天文2年(1533)里見氏に内訌が生じ、朝興が宗家義豊を支援したのに対し、氏綱は庶家義堯を支援した。翌3年義豊方は滅亡し、里見氏は義堯が継承したため朝興方から離脱した。さらに翌4年には真里谷武田氏でも内訌が生じ、ここでも氏綱は庶家信隆を支援した。こうして朝興・小弓公方義明の勢力は大きく減退した。

 同じ年氏綱は今川氏輝から援軍の要請を受けて甲斐に進撃した。その虚をついて朝興が相模中郡に侵攻したため、氏綱はただちに報復のため河越に向けて出陣、武蔵入間川(埼玉県狭山市)で合戦して勝利した。

 この後天文6年上杉朝興は死去、その家督は嫡子朝定に継承された。氏綱は同じ年、真里谷武田氏の内訌に再び大規模に介入する。しかし、里見氏が義明方に復帰し、武田氏の宗家信応を支援する義明に敗北を喫するなど、房総における勢力を大きく減退させた。この状況を受けて、上杉朝定は武蔵府中に進撃し神大寺要害(調布市)を攻略した。これに対して氏綱は朝定の本拠河越城を攻略、朝定はその家宰難波田氏松山城(埼玉県吉見町)に退く。こうして扇谷上杉氏の勢力は大きく衰退した。翌7年には氏綱は、下総葛西城(葛飾区)を攻略した。

 さらに同年、古河公方足利晴氏と小弓公方義明との抗争が新局面を迎えた。義明が下総国府台(コウノダイ、千葉県市川市)まで進撃してくると、晴氏は氏綱に支援を要請、出陣した氏綱は松戸相模台(千葉県松戸市)で合戦となった。この戦いは氏綱の勝利に帰し、義明とその子らは戦死、小弓公方は滅亡した。これによって関東足利氏の内訌は終息した。それは氏綱の軍事力によってもたらされたものであり、以後氏綱は関東足利氏の軍事的保護者となり、合戦の勲功として、晴氏から関東管領に任ぜられた。また、翌年には氏綱の娘(芳春院殿)が晴氏に入嫁し、婚姻関係も成立して、北条氏は足利御一家としての地位を得、山内上杉氏に代わってその地位を著しく伸張させた。

 この間、今川氏では天文5年(1536)氏輝が死去し、家督は義元と恵探の二人の弟の争いとなった。氏綱は義元を支援し、氏綱・義元の攻撃により恵探は滅亡、家督は義元の継承するところとなった。しかし、義元は直後にそれまで対立関係にあった武田信虎との同盟へと外交政策を一転させ、翌6年信虎の娘を正室に迎えた。この挙に怒った氏綱は同年駿河に出陣、富士川以東の河東地域を支配下に収めた。この抗争を「河東一乱」と呼ぶ。伊勢(北条)氏と今川氏とは宗瑞・氏親以来密接な政治関係を築いてきたが、ここに至って全面的に抗争を展開することとなった。

支城体制の展開

 武蔵への進出を果たしたことにより、氏綱の晩年には、北条氏は関東随一の戦国大名へと成長していた。拡大した領国に対して、氏綱は支配の拠点となる城に軍事力を配属させた。こうした城を本城小田原城に対する支城と称している。伊豆は豆州(口伊豆)と伊豆奥の二郡に分けられ、口伊豆の韮山城が支城とされた。相模は西・中・東・三浦郡に分けられ、西・中郡は本城小田原城の管轄、東郡には玉縄城、三浦郡は三崎城が支城とされた。武蔵は小机城(横浜市)、江戸城は江戸・下総葛西を管轄、河越城が支城とされた。こうして六城が支城として、領域支配の拠点となった。

 それ以外の地域は北条氏に従属する国人の支配領域で、相模奥三保の内藤氏(津久井城)、武蔵滝山領の大石氏(滝山城、八王子市)、武蔵勝沼領の三田氏(勝沼城、青梅市)が領域支配の拠点となった。

 氏綱は、これら支城に一門や伊豆入部以来の重臣を配置して、領域支配権・軍事指揮権の一部を委任した。韮山城には伊豆両郡の郡代笠原綱信、清水氏、三崎城には山中氏、小机城には笠原信為、江戸城には遠山氏、河越城には大道寺氏が配置された。玉縄城には当初大道寺氏が城代として置かれたようだが、後氏綱の弟氏時が城主となり、享禄4年(1531)氏時が死去すると、氏綱の三男為昌がこれに代わった。これに伴い、三崎城・小机城も為昌の管轄下に入れられ、為昌の下で、氏綱の婿養子綱成が玉縄城代、河越城は為昌自身が城代、大道寺・山中・笠原信為らはそれぞれの領域における代官として為昌を補佐したと見られる。こうして、為昌の管轄する地域は、相模東半分と武蔵河越を加えた広大なもので、氏綱の領国支配のなかで嫡子氏康に匹敵するほどの重要な役割を与えられたことが窺える。

鶴岡八幡宮の造営

 大永2年(1522)以来、氏綱は相模一宮の寒川神社、箱根権現、六所明神、伊豆山権現、伊豆一宮三嶋神社などの再建を連続して行った。ちなみに六所明神(大磯町)は相模国総社といい、一〜六宮を合祀し、ここに参詣すればそれら全部に参詣したことになるという目的で作られた神社。

 一連の造営事業の中で、最後を飾るのが鶴岡八幡宮の造営だ。いうまでもなく同宮は、源頼朝以来の東国の守護神であり、鎌倉公方・関東管領上杉氏・相模国守護扇谷上杉氏らにこれを造営する力はなかった。両上杉氏にとって代わることを意図していた氏綱は、造営を主宰し、ほぼ独力をこれを遂行することで、鎌倉幕府の後継者としての地位を内外に示す効果をもった。造営は天文元年(1532)から始められ、費用の多くを領国内の税・労役として徴収、領国内の職人の他京都・奈良からも職人が招かれて進められた。同9年上宮正殿の落慶式が、北条一門・武将、京都下りの人々の臨席の下盛大に挙行された。

 この一大事業を成し遂げた翌年、氏綱は死去、早雲寺に葬られた。享年55歳。

後北条氏略系図
盛定─┬宗瑞(1)─┬氏綱(2)───┬氏康(3)─────┬氏政(4)─────┬氏直(5)

└弥二郎├氏時├氏照(八王子城主)├源五郎


├氏邦(鉢形城主)└氏房(岩付城主)


├氏光(小机城主)



├氏規



└(上杉)景虎



├為昌(玉縄北条氏)・・・綱成──────┬氏繁─────┬氏舜


├氏堯
└氏秀└氏勝


└・・・綱成




└幻庵宗哲──┬三郎




(久野北条氏)└氏信(小机城主)