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8.北条氏康

 永正12年(1515)生まれ、天文10年(1541)氏綱が没し家督を継承した。氏康26歳。享禄3年(1530)には、武蔵小沢原で扇谷上杉朝興との合戦で初陣を飾った(北条記)という。天文6年には、父氏綱との連署で鶴岡八幡宮に社領寄進状を発給しており、氏綱の後継者と認定されていたことを示す。軍事面でも、天文7年国府台(コウノダイ)合戦に出陣していることが明らかとなっている(快元僧都記)。それ以前にも他の史料から幾多の合戦に参加したことが想定される。天文21年には父氏綱と同じ左京大夫の官職を得た。

両上杉氏との抗争と河越合戦

 氏康が家督を継承したその年、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定(5.関東の争乱と大森氏の動向「上杉氏系図」参照)は、北条氏の当主交替の隙をついて河越城に来襲した。河越の守備兵はこれを撃退するとともに、氏康・河越城代為昌らは反撃に転じ、北武蔵・上野へ憲政らを追撃して進軍したものと見られる。その後の情勢は未詳だが、上杉憲政は翌年鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に願文を捧げて氏康討滅を祈願している(鹿島神宮文書)。この間対両上杉戦略の先鋒であった河越城代為昌が病のため23歳という若さで死去している。

 天文14年憲政は駿河の今川義元と同盟、今川氏と同盟関係にあった甲斐の武田晴信もこれに加わる。同年義元は吉原城(静岡県富士市)を落とし、次いで長久保城(静岡県長泉町)を包囲、晴信も吉原に出陣した。一方、憲政は河越城を包囲、古河公方足利晴氏(氏綱の娘が嫁している)に対して氏康と絶縁して河越攻撃に加わるよう求めた。結局晴氏は憲政に同意し、河越に出陣した。こうして氏康包囲網が形成された。

 窮地に陥った氏康は、憲政・義元と講和交渉を開始、武田晴信の斡旋で義元に対して天文6年以来領有してきた富士川以東の地を放棄することを条件に、義元と講和することに成功した。憲政はこの講和を承認したものの、氏康との直接講和は拒否し、河越包囲を続行した。しかし、河越の戦況は小康状態となった。氏康はしばらくの間河越救援行動を起こさず、この間に朝定の重臣武蔵岩付城(埼玉県岩槻市)の太田資時との親交を進めた。

 天文15年氏康はいよいよ河越救援のため出陣、まず憲政に北条綱成はじめ籠城兵3000の助命に代え、城を明け渡す旨の交渉を行った。しかし、これを計略とみる憲政は断固拒否、北条軍に攻めかかった。ここに有名な河越合戦(河越夜戦:カワゴエヨイクサともいう)が始まる。激戦の末、氏康は憲政の諸軍を撃破、憲政は本拠地上野平井城(群馬県藤岡市)に退去した。足利晴氏も下総古河に退き、朝定は討ち死にして、ここに扇谷上杉氏は滅亡する。河越合戦によって、古河公方・山内上杉の退潮が決定的となった。なお、北条綱成(ツナシゲ、ツナナリとも、また為昌の養子となる)は、北条五色備えの黄備えの闘将として名高く、この河越合戦では半年余りの籠城戦を耐え抜いた。この後、為昌亡き後の玉縄城主であったことに加え、以後河越城主も兼ねる。

   河越合戦により、氏綱時代に服属していた上杉方有力領主、勝沼城の三田氏・滝山城の大石氏らは従属度を強め、河越合戦以前から氏康と交信していた岩付城の太田資時(資時死後はその弟資正)、天文19年頃までに天神山城(埼玉県長瀞町)の藤田康邦、忍城(埼玉県行田市)の成田長泰、深谷城(埼玉県深谷市)の上杉憲賢らが氏康の傘下に入った。

 また、氏康は天文19・20年と憲政の平井城を攻撃、憲政は従属していた諸氏や直属馬廻衆までにも背かれ、孤立無援となって同21年越後・長尾景虎を頼って越後に落ちていった。平井城には北条宗哲が入ったという。その後、景虎の援軍を得た憲政は武蔵北部まで兵を進めたが、ほどなく撤退した。この時憲政はある程度上野・下野の諸氏の糾合に成功したと見られ、氏康は弘治2年(1556)・永禄2年(1559)と上野に出陣を重ね、これら諸氏の服属を進めるとともに最北部の沼田城(群馬県沼田市)には一族の康元(綱成の子、のち氏秀と称す)を入れて、越後軍の来襲に備えた。

 古河公方足利晴氏は河越合戦後、子の藤氏を後嗣としていた。そこで氏康はその重臣簗田(ヤナギダ)晴助に五箇条の起請文を送った。これは晴氏・晴助に忠節を誓う形を採る一方、晴助を取り込んで晴氏に圧力を加えるものだった。加えて憲政の越後逃走によって軍事的支援を期待できなくなった晴氏は、ついに家督を氏綱の孫にあたる義氏に譲って引退した。その後も晴氏は、古河で抵抗したが、敗れて居所を転々とした後、永禄3年死去した。こうして古河公方は北条氏の系流となり、没落する。

 この間、氏康は数度にわたり、房総半島への侵攻も試みている。

相甲駿同盟

 河越合戦の直前、氏康は今川義元・武田晴信と和睦したが、その後も三氏の和睦は保たれた。それは、北条氏が関東、今川氏は三河、武田氏は信濃攻略にその矛先が向いていたからで、氏康は富士川以東を義元に割譲したように、駿河に領土的野心を持っていなかったらしい。また、今川・武田間は義元に嫁いだ信虎の娘が天文19年死去すると、同21年義元の娘が晴信の子義信に嫁ぐことで新たな絆を生んだ。北条・武田間では、同23年には晴信の娘が氏康の子氏政に嫁した。北条・今川間は、同じ年氏康の娘が義元の子氏真に嫁いだことに加え、氏康は子の氏規を駿府に人質として送っている。

 さて、氏康の関東方面への政治的展開は、弘治元年(1555)古河公方足利義氏が氏康の後見で元服してから大きく進展する。この時、下総の結城氏、千葉氏、上野の泉(新田)氏らは、これを祝して礼物を進上した(古今消息集他)。その3年後の永禄元年、義氏は鶴岡八幡宮に参詣し公方就任を内外にアピールした。この時にも陸奥の白河氏、常陸の烟田(カマタ)氏、下野の那須・小山・長沼らの諸氏が祝意を表している(白河証古文書他)。関東・奥羽の領主層にとって、公方の伝統的権威は大きく、氏康はこれを大いに活用したのだった。

 以後永禄年間にかけ、氏康はこれら諸氏と古河公方の権威を前提に交渉を開始するとともに、諸氏間の領土紛争にも和睦斡旋・武力介入するようになる。例えば、永禄3年白河晴綱と佐竹義昭の和睦調停、弘治2年結城政勝を支援して小田氏冶を攻撃、翌3年には宇都宮尚綱を支援して壬生綱雄を攻撃するなど、氏康は公方=管領という公的立場で介入していった。しかも、小田氏冶を攻めたとき、これと親しかった佐竹義昭はこれを支援しなかったし、壬生綱雄を攻めたときも、綱雄と親交していた那須資胤はこれと絶縁している。こうした状況は、関東における政治体制が北条氏優位の体制となったことを示す。

 こうした状況下を踏まえ、永禄2年氏康は氏政に家督を譲った。

長尾景虎の越山

 ところが永禄3年(1560)9月、長尾景虎が上杉憲政を奉じ、上越国境を越えて関東に出陣してきた。「越山」という。直接の契機は、同年氏康の久留里城攻撃に苦しんでいた里見義堯の要請があったが、背景には景虎上洛(前年)の際、将軍義輝から憲政支援を命ぜられたという事実があった(上杉文書)。また同年5月田楽狭間において、相甲駿同盟の一角今川義元が織田信長に討たれ、今川氏は大きな打撃を受けていた。なお、景虎は天文22年(1553)村上義清の要請を受けて以来、弘治3年(1557)まで信玄と3次にわたる川中島の戦いを経ていた。

 上杉憲政を奉じ、8000の軍勢を率いて三国峠を越えた景虎は康元の沼田城など上野北条方の諸城を次々と攻略し、関東諸将に動員をかけた。岩付城の太田資正、忍城の成田長泰らはいち早くこれに呼応し、常陸の佐竹義昭、下野の宇都宮広綱・小山政朝・佐野昌綱、武蔵の三田綱定らも景虎の傘下に入り、景虎は出陣後3ヶ月という短期間のうちに関東の諸氏を糾合し、最終的に10万という大連合軍を形成して相模に押し寄せた。

 これに対して北条方は、綱成の玉縄城、滝山城、河越城、江戸城など主要な城に兵力を集中させ専守防衛の構えをとり、氏康も小田原に退去して籠城した。途中武蔵多摩郡、相模中郡大槻(秦野市)で両軍の合戦が行なわれ、小田原付近でも曽我山・ぬた山(南足柄市か)で戦闘が行われて、景虎は酒匂付近に到達したと見られる(同4年3月)。景虎軍の進撃に対し、北条側は兵糧を厳重に管理し、家臣の離反を防ぐため新知行の給付・既得権の安堵・籠城兵への徳政等を実施し、軍勢・兵糧・500丁の鉄砲等を集めて決戦に備えた。

 近世の軍記物の伝えるところによると、景虎軍は太田資正隊が小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、小田原城包囲は一ヶ月に及んだというが、同時代史料からは景虎軍の攻撃は城下への放火以外に知られておらず、その在陣も10日ほどで、徹底した城攻めも行われなかったと見られる。そこには、補給等の事情から長期にわたる出兵を維持できない佐竹・宇都宮など諸氏が撤兵を要求し、一部は勝手に陣を引き払うなどしていたこと、また氏康と同盟を結ぶ信玄が信濃・川中島に海津城を完成させるなど、景虎を背後から牽制していた、という事情があった。

 鎌倉へ退去した景虎は、鶴岡八幡宮に参詣、その際憲政から関東管領職と上杉家の家督を譲られ、憲政から「政」の一字を与えられて上杉政虎と改名した。また、簗田晴助と諮って、足利晴氏の嫡子藤氏を公方に擁立、前管領憲政及び前年京都から越後に下っていた関白近衛前久と共に古河に入れた。この結果、北条・上杉両氏は義氏と藤氏という別個の公方を擁することとなった。なお、政虎は同5年には将軍義輝から一字を与えられ、輝虎と改名する。

 輝虎が帰国し、同年9月信玄・輝虎間で第4次川中島の戦いが起き、氏康・氏政は武蔵の再攻略を再開した。これに対して輝虎は永禄4年12月、同5年12月、同6年12月に越山したものの、関東諸氏の多くが北条方に転じていった。この間、早くも5年2月には憲政・前久を古河から引き取らざるを得ず、藤氏は里見義堯を頼って安房に移り、4度目の越山に際しては、武蔵出陣を要請した里見義堯が下総国府台で北条軍に大敗した(第二次国府台合戦)。

 信玄の動きを警戒していた輝虎は、永禄9年3月5回目の越山を再開し、義堯と連携して下総臼井城(千葉県佐倉市)を攻めるが、攻略は失敗に終わった。関東の諸氏はますますその多くが北条方に転じ、また、信玄も西上野を制圧した。翌年には足利藤氏も没し、輝虎の関東進出の橋頭堡であった佐野城(栃木県佐野市)の維持も、城主佐野昌綱が離反し、関東への軍事介入は困難となった。

越相同盟、信玄の小田原攻め

 武田・今川両氏の関係は永禄10年(1567)、信玄が嗣子義信を自殺に追い込んだ頃から悪化し始めていた。翌年12月信玄は三河徳川家康と語らい、駿府今川領に侵攻、氏真を駿府から追った。氏真は遠江掛川城に逃れ、氏政は今川支援のため駿府に出陣するとともに、氏康は相甲駿同盟を破った信玄と断交、宿敵だった上杉輝虎との同盟交渉を開始した。同盟交渉は、信玄の駿河侵攻直後から開始され、輝虎の旧臣で北条方に転じていた由良成繁・北条(キタジョウ)高広の仲介により、氏康の子氏照・氏邦と輝虎方沼田城主松本景繁を窓口として進められた。

 同12年6月、信玄への牽制の意図もあり輝虎は北条氏との同盟を受諾、越相同盟が成立した。この結果、氏政の子国増丸を輝虎の養子とする、輝虎は上野と武蔵のうち岩付等数箇所を領有する、足利義氏を古河公方とし輝虎が関東管領をつとめる、等を定めた。しかし、同盟により上杉方の関東諸将は輝虎に対して不信感を抱く結果となり、長年に渡り北条氏と敵対してきた里見氏は輝虎との同盟を破棄、信玄と同盟を結ぶなど氏康に敵対する姿勢を崩さなかった。

 しかし同盟は、北条側がなかなか養子縁組を実行しないこと、輝虎の越中出陣の直後信玄の来襲により小田原籠城に追い込まれたこと、など双方に不信感を募らせるものだった。養子については、後に氏康の子三郎が輝虎の養子となり、以後上杉景虎と名乗った。

 一方信玄は、永禄12年6月伊豆・駿河に進出した後、同10月信玄は小田原に攻め寄せた。信玄は上野から武蔵に入り、滝山城を包囲した後、甲斐都留郡から小仏峠を越えて武蔵に入った別働隊と合流、御殿峠(町田市)を越え相模に入り、小田原城にせまった。小田原城を包囲した信玄は、蓮池に攻め込み、城下に放火したという。武田軍は時を移さず小田原を退去するが、甲斐へ帰国途中、北条氏照と武田軍の間で三増峠(ミマセ、愛川町)合戦が行われ、山岳戦に慣れる武田軍が勝利した。なおこのとき、氏政は同盟にのっとり輝虎に出陣を要請するが、輝虎は越中出陣(一向一揆と椎名康胤討伐)を優先して実現しなかった。

 小田原に一撃を加えた信玄は、翌月再び駿河に侵攻、北条方拠点の蒲原城(静岡県蒲原町)を攻略、宗哲の子氏信を討ち取った。蒲原落城は氏政に非常な衝撃を与え、以後北条方は富士川以西の拠点を失った。

 この後も、信玄は元亀元年(1570)、駿河・伊豆・上野などに出兵、その翌年正月には北条方の深沢城(御殿場市)を攻略し、足柄峠を越えて再び小田原に迫る勢いを示し、神出鬼没の戦略で北条氏を翻弄した。

 このような情勢の中、氏康は病状が悪化し、すでに武田軍の伊豆来襲も知らない様子だったという。翌元亀2年10月氏康は57歳で死去した。

北条氏の籠城戦略

 北条氏は今まで見たように、よく籠城戦術を用いた。来襲する敵軍は、必要な兵糧をすべて携行するのは困難だから、これを敵地で調達する必要がある。それは略奪という形で行われる。北条氏は籠城する際、味方の食糧確保のためだけでなく、敵にこれを与えないため、徹底して兵糧を城内に集めた。

 一方押し寄せる敵方は、放火と略奪を常套手段とした。放火は城下に限らず、侵攻する途中の郷村も対象となっている。田畑は兵糧を奪う目的だけでなく、敵領の疲弊を狙って打ち荒らされた。人身の略奪、暴行、虐殺も行われた。こうした被害から村人たちは、山林等に身を潜めて軍勢の通過を待つか、近くの城や砦に逃れるか、または来襲した敵方の要求に応じて、その支配に服するしかなかった。

 寺社においても戦乱による被害を免れず、僧侶といえども命の保障はなかった。そのため、侵攻軍に対して自軍の乱暴を禁ずる「制札(セイサツ)」の発給を、礼銭納入と引き換えに積極的に獲得した。しかし、制札を得たからといって、安全の保証は余りなかったらしい。制札を掲げるも、押し問答になり、人馬・雑物を奪われることも数知れなかったようだ。